翌日、4時間目の終わりを知らされた瞬間に教科書を閉じた。
『嘉那、動きが機敏だな。そんなに腹減ってたのか?』
急いで教科書を片付けている私を見た新が、音声入力アプリを立ち上げた自分のスマホ画面を見せてきた。
私は会話用のノートを広げる。
『お腹は空いてるけど、べつにそれが理由じゃない』
『じゃあなんで? どっか行くのか?』
新が不思議そうな顔で首を傾げる。
その後ろに、巴のニヤニヤした顔が見えた。
『屋上じゃない? 昨日の男でしょー』
私はあからさまにため息を吐いてやった。
『屋上には行く。でも男は関係ない。今日は曇ってるし、たぶん涼しいから屋上でお昼食べてくる』
『屋上か。いいなー。オレも行ってみたい』
新が羨ましそうに言った。
車椅子で屋上まで行けないもんね。エレベーターもないし。
新がハッとして私を見た。その顔は何かを思いついた顔だ。
『写真撮って来てよ、写真』
新が楽しそうに言った。
『嘉那に写真なんてハードル高いでしょー』
巴がさっきとは違う、バカにしたような笑みを浮かべていた。
写真くらい私だって撮れる。カメラアプリを開いて、シャッターを押せばいいだけなんだから。使い方くらい知っている。
『写真のアプリすら開けなかったりして』
ムッとしていると、巴がやれやれ、と言いたそうな顔で言った。
ワザとらしい態度が腹立たしい。
『できるよ!』
舐めないでもらいたい。普段から写真機能は使わない私だが、カメラアプリがどれかくらい分かる。
『こら、巴。あんまり挑発しない。さすがに嘉那だってそれくらい分かるだろ。な?』
『もちろん。楽しみにしてて! ちゃんと写真撮って来るから!』
『じゃあよろしくー。無理はしないでね』
巴が笑いを堪えるような顔で言った。
どこからどう見ても私をバカにしてる態度だった。
そもそも写真を撮るだけなのに、なにを無理することがあるというのか。
このくらい昼飯前だ。
意気込んで立ち上がった私の前を、新がずっと持っていたスマホで通せんぼした。
『秋波さん。今日はちゃんとスマホ持って行ってね』
そこには明美ちゃん先生の台詞と思しき文章が入力されていた。
危ない。置いて行くところだった。
私は自分のスマホと弁当を持って、特別教室を出た。
***
教科棟の屋上が出られるならいいけれど、残念ながら立入禁止。屋上に行きたければ、本校舎に行くしかない。
本校舎には真ん中と端に階段があって、屋上まで行けるのは端の階段だけ。
端の階段は幅が狭く、あまり人が通らない。反対に中央階段は幅が広く、生徒や先生がひっきりなしに通っている。
私は今日もあまり人がいない、本校舎の端の階段を使って屋上に出た。
屋上のドアを開けると、涼しい風が流れ込んできた。風に飛ばされた髪を抑える。
今日は曇りだし風もあるし、過ごしやすい気温だ。
秋を感じる気温だが、明日には真夏日に戻るらしい。
私は昨日と同じ、屋上の角に座る。背中をフェンスに預け、弁当を広げた。
祖母お手製の弁当は、色とりどりで、栄養バランスをちゃんと考えてくれているのがよく分かる。
いただきます、と手を合わせ、豆腐ハンバーグを頬張った。
祖母の作る豆腐ハンバーグは、本当に美味しい。何も言わずに出されると、豆腐だとは気付かない。
私も料理はするけど、どうしても祖母と同じ味にならない。祖母はきっちり調味料の量を測る人ではないから、そのせいもあるのかもしれない。きっちり祖母と同じ量を入れられたら、同じ味が再現できるかもしれないが。
私はペロッと弁当を平らげると、ごちそうさま、と手を合わせた。
昨日は温かかったから眠くなったけど、涼しくても眠くなるものだ。
頬を撫でる風が心地いい。風に乗ってきた睡魔が、私の意識を引き摺り込んでいく。
……いや、ダメだ。今日は屋上の写真を撮るんだった。
私は閉じかけていた瞼を押し上げ、立ち上がる。
弁当はその場に置いたまま、スマホだけ持って屋上をウロウロした。
屋上の写真を撮ればいいのか。それとも、屋上から見える景色を撮ればいいのか。
よく分からないけど、とりあえずあちこち撮ってみよう。
私はカメラアプリをタップし、カメラを起動する。このくらいは簡単だ。私はこの場にいない新と巴に、心の中で胸を張った。
適当な場所でカメラを構え、丸いボタンを押す。
……!
今何かが光った。
私はスマホの裏側を見るが、特にライトは付いていない。
さっきのは何だったんだろう。何か設定の問題だろうか。設定ってどうやって見ればいいのだろう。
あちこち押してみたいところだけど、変なボタンを押してしまうのも、元に戻せなくなりそうで怖い。
このまま写真は諦めて寝るか。
そう思った瞬間、「やっぱり嘉那に写真は無理だったね」と笑う2人の顔が浮かんだ。
頭を抱えたい気持ちでいると、不意に誰かに肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、私の勢いに驚いたのか、目を丸くする男子生徒がいた。
彼は確か、昨日もここで会った1年生の……。
私はどうも、という意味を込めて小さく頭を下げた。彼も小さくお辞儀を返してくれた。
「……?」
何かを訊いてきているのは分かるけど、何を言っているのかまでは分からなかった。
そう言えば、彼には私の耳が聞こえないことを話していなかったことを思い出した。
ノートは教室に置いてきてしまったし、スマホでの文字入力は得意じゃない。
とりあえず、音声入力アプリで彼の言葉を理解するしかなさそうだ。
私は立ち上げていたカメラアプリを閉じ、音声入力アプリを立ち上げた。
このアプリは、新に教えてもらって使い方をマスターしたから、私でも問題なく使える。
音声入力できる状態にした途端、文字が入力され始めた。
『てるんですか?』
てるんですか?
一部だけ入力されたのだと気付き、私はもう一度、と人差し指を立てた。
『何してるんですか?』
どうやって説明しようかと言葉に迷っていると、不思議そうに私を見下ろす彼と目が合った。
『大丈夫ですか?』
何も言えないでいると、彼は心配そうな顔になった。
眉を下げて、様子を伺うように私を見ている。
『スマホに何かあるんですか?』
私がスマホをチラチラ見ていることに気付いたのか、彼が私のスマホを指さした。
画面を見せると、彼は戸惑った様子になった。
『音声入力? えーっと。ここでの話は録音してるぞ、的なことですか?』
すごい誤解をされてしまった。
私は激しく首を横に振った。
とりあえず、耳が聞こえないことを先に伝えるべきかもしれない。
私は自分の耳を指さし、腕をクロスさせてバツを作った。
『耳が聞こえない?』
彼が自信なさそうな顔で言った。
私は数度頷いた。
彼はハッとした顔になり、早口で何かを言った。
『ごめんなさい。じゃあもしかして昨日も聞こえてなかったですよね』
私は控えめに頷いた。ちゃんと反応できていなかったことが申し訳なくなって、深々と頭を下げる。
肩を数度叩かれ、顔を覗き込まれた。
『気にしないでください。でもよかった、無視されてたわけじゃなくて』
私は入力された文字に、いたたまれない気持ちになった。
さっきも私の肩を叩く前に、声を掛けてくれていたのかもしれない。それでも私が振り返らなかったから、無視されたと思わせてしまったのだろう。
そう思うと、ただ頭を下げることしかできなかった。
『本当に気にしないでください。誰も悪くないですから』
文面では淡々とした口調に思えるけれど、実際の彼は慌てた様子だ。きっと語尾に感嘆符がついていることだろう。
気を遣ってくれているのが分かる。だけど本当に、私が悪いのだ。私が……。
『そんな顔しないで』
彼が悲しそうな顔で、覗き込んできた。
私は小さく微笑むことしかできなかった。
『嘉那、動きが機敏だな。そんなに腹減ってたのか?』
急いで教科書を片付けている私を見た新が、音声入力アプリを立ち上げた自分のスマホ画面を見せてきた。
私は会話用のノートを広げる。
『お腹は空いてるけど、べつにそれが理由じゃない』
『じゃあなんで? どっか行くのか?』
新が不思議そうな顔で首を傾げる。
その後ろに、巴のニヤニヤした顔が見えた。
『屋上じゃない? 昨日の男でしょー』
私はあからさまにため息を吐いてやった。
『屋上には行く。でも男は関係ない。今日は曇ってるし、たぶん涼しいから屋上でお昼食べてくる』
『屋上か。いいなー。オレも行ってみたい』
新が羨ましそうに言った。
車椅子で屋上まで行けないもんね。エレベーターもないし。
新がハッとして私を見た。その顔は何かを思いついた顔だ。
『写真撮って来てよ、写真』
新が楽しそうに言った。
『嘉那に写真なんてハードル高いでしょー』
巴がさっきとは違う、バカにしたような笑みを浮かべていた。
写真くらい私だって撮れる。カメラアプリを開いて、シャッターを押せばいいだけなんだから。使い方くらい知っている。
『写真のアプリすら開けなかったりして』
ムッとしていると、巴がやれやれ、と言いたそうな顔で言った。
ワザとらしい態度が腹立たしい。
『できるよ!』
舐めないでもらいたい。普段から写真機能は使わない私だが、カメラアプリがどれかくらい分かる。
『こら、巴。あんまり挑発しない。さすがに嘉那だってそれくらい分かるだろ。な?』
『もちろん。楽しみにしてて! ちゃんと写真撮って来るから!』
『じゃあよろしくー。無理はしないでね』
巴が笑いを堪えるような顔で言った。
どこからどう見ても私をバカにしてる態度だった。
そもそも写真を撮るだけなのに、なにを無理することがあるというのか。
このくらい昼飯前だ。
意気込んで立ち上がった私の前を、新がずっと持っていたスマホで通せんぼした。
『秋波さん。今日はちゃんとスマホ持って行ってね』
そこには明美ちゃん先生の台詞と思しき文章が入力されていた。
危ない。置いて行くところだった。
私は自分のスマホと弁当を持って、特別教室を出た。
***
教科棟の屋上が出られるならいいけれど、残念ながら立入禁止。屋上に行きたければ、本校舎に行くしかない。
本校舎には真ん中と端に階段があって、屋上まで行けるのは端の階段だけ。
端の階段は幅が狭く、あまり人が通らない。反対に中央階段は幅が広く、生徒や先生がひっきりなしに通っている。
私は今日もあまり人がいない、本校舎の端の階段を使って屋上に出た。
屋上のドアを開けると、涼しい風が流れ込んできた。風に飛ばされた髪を抑える。
今日は曇りだし風もあるし、過ごしやすい気温だ。
秋を感じる気温だが、明日には真夏日に戻るらしい。
私は昨日と同じ、屋上の角に座る。背中をフェンスに預け、弁当を広げた。
祖母お手製の弁当は、色とりどりで、栄養バランスをちゃんと考えてくれているのがよく分かる。
いただきます、と手を合わせ、豆腐ハンバーグを頬張った。
祖母の作る豆腐ハンバーグは、本当に美味しい。何も言わずに出されると、豆腐だとは気付かない。
私も料理はするけど、どうしても祖母と同じ味にならない。祖母はきっちり調味料の量を測る人ではないから、そのせいもあるのかもしれない。きっちり祖母と同じ量を入れられたら、同じ味が再現できるかもしれないが。
私はペロッと弁当を平らげると、ごちそうさま、と手を合わせた。
昨日は温かかったから眠くなったけど、涼しくても眠くなるものだ。
頬を撫でる風が心地いい。風に乗ってきた睡魔が、私の意識を引き摺り込んでいく。
……いや、ダメだ。今日は屋上の写真を撮るんだった。
私は閉じかけていた瞼を押し上げ、立ち上がる。
弁当はその場に置いたまま、スマホだけ持って屋上をウロウロした。
屋上の写真を撮ればいいのか。それとも、屋上から見える景色を撮ればいいのか。
よく分からないけど、とりあえずあちこち撮ってみよう。
私はカメラアプリをタップし、カメラを起動する。このくらいは簡単だ。私はこの場にいない新と巴に、心の中で胸を張った。
適当な場所でカメラを構え、丸いボタンを押す。
……!
今何かが光った。
私はスマホの裏側を見るが、特にライトは付いていない。
さっきのは何だったんだろう。何か設定の問題だろうか。設定ってどうやって見ればいいのだろう。
あちこち押してみたいところだけど、変なボタンを押してしまうのも、元に戻せなくなりそうで怖い。
このまま写真は諦めて寝るか。
そう思った瞬間、「やっぱり嘉那に写真は無理だったね」と笑う2人の顔が浮かんだ。
頭を抱えたい気持ちでいると、不意に誰かに肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、私の勢いに驚いたのか、目を丸くする男子生徒がいた。
彼は確か、昨日もここで会った1年生の……。
私はどうも、という意味を込めて小さく頭を下げた。彼も小さくお辞儀を返してくれた。
「……?」
何かを訊いてきているのは分かるけど、何を言っているのかまでは分からなかった。
そう言えば、彼には私の耳が聞こえないことを話していなかったことを思い出した。
ノートは教室に置いてきてしまったし、スマホでの文字入力は得意じゃない。
とりあえず、音声入力アプリで彼の言葉を理解するしかなさそうだ。
私は立ち上げていたカメラアプリを閉じ、音声入力アプリを立ち上げた。
このアプリは、新に教えてもらって使い方をマスターしたから、私でも問題なく使える。
音声入力できる状態にした途端、文字が入力され始めた。
『てるんですか?』
てるんですか?
一部だけ入力されたのだと気付き、私はもう一度、と人差し指を立てた。
『何してるんですか?』
どうやって説明しようかと言葉に迷っていると、不思議そうに私を見下ろす彼と目が合った。
『大丈夫ですか?』
何も言えないでいると、彼は心配そうな顔になった。
眉を下げて、様子を伺うように私を見ている。
『スマホに何かあるんですか?』
私がスマホをチラチラ見ていることに気付いたのか、彼が私のスマホを指さした。
画面を見せると、彼は戸惑った様子になった。
『音声入力? えーっと。ここでの話は録音してるぞ、的なことですか?』
すごい誤解をされてしまった。
私は激しく首を横に振った。
とりあえず、耳が聞こえないことを先に伝えるべきかもしれない。
私は自分の耳を指さし、腕をクロスさせてバツを作った。
『耳が聞こえない?』
彼が自信なさそうな顔で言った。
私は数度頷いた。
彼はハッとした顔になり、早口で何かを言った。
『ごめんなさい。じゃあもしかして昨日も聞こえてなかったですよね』
私は控えめに頷いた。ちゃんと反応できていなかったことが申し訳なくなって、深々と頭を下げる。
肩を数度叩かれ、顔を覗き込まれた。
『気にしないでください。でもよかった、無視されてたわけじゃなくて』
私は入力された文字に、いたたまれない気持ちになった。
さっきも私の肩を叩く前に、声を掛けてくれていたのかもしれない。それでも私が振り返らなかったから、無視されたと思わせてしまったのだろう。
そう思うと、ただ頭を下げることしかできなかった。
『本当に気にしないでください。誰も悪くないですから』
文面では淡々とした口調に思えるけれど、実際の彼は慌てた様子だ。きっと語尾に感嘆符がついていることだろう。
気を遣ってくれているのが分かる。だけど本当に、私が悪いのだ。私が……。
『そんな顔しないで』
彼が悲しそうな顔で、覗き込んできた。
私は小さく微笑むことしかできなかった。