『茶道部、行けなくてごめんなさい』

 文化祭が終わり、教室に戻ってきた明美ちゃん先生に、何を言うより先に謝った。
 明美ちゃん先生は、もう着物姿ではなかった。

 あのあと、私たちの間に気まずい空気が流れた。
 そのまま文化祭を回る気にもなれず、解散した。
 椚君は友達と文化祭を回ったかもしれないが、私は文化祭が終わるまでずっと教室から出られなかった。
 茶道部のお菓子は気になっていたものの、体が動かなかった。

『謝ることはないわよ。強制じゃないんだから。それより、楽しめた?』
『パフェもクレープも団子も美味しかったです』
『よかったわね』

 先生はにっこり微笑んでくれた。

『行きたい場所は行けた?』
『茶道部以外は。2人に頼まれてた、写真と動画も撮れました』
『文化祭、満喫したみたいね』

 それはどうだろうと思ったものの、明美ちゃん先生に心配をかけまいと、自分の顔に笑みを貼り付けて頷いた。

***

 次の登校日、私が教室に着くと、新と巴はすでに登校していた。
 2人とも期待の篭った眼差しで私を見ていた。写真と動画を期待しているのだろう。
 私は自分の席に着き、リュックからノートを出した。
 新が先回りするように、音声入力アプリを立ち上げたスマホを私の机の上に置いた。

『言いたいことは分かるけど、昼休みにしようよ。いっぱいあるから、朝の時間じゃ足りないかな』
『そんなにあるのか。それは楽しみだな』
『はたして、ちゃんと撮影できているのはどれくらいあるかなー』
『見なくてもいいんだよ?』
『見るに決まってるじゃんかー』

 巴は随分と楽しそうだった。
 まるで遠足の前の小学生みたいだ。

『もう楽しみで夜しか眠れなかったよー』

 しっかり寝てるね。

『文化祭、どうだった? 団子は全種類制覇できたか?』

 新の問いに、こくりと頷く。
 あの団子はぜひとも、2人にも食べてもらいたかった。

『クレープもパフェも、美味しかったよ』
『そっか。紅弥のライブは?』

 その問いを読んだ時、ズキンと心臓に何かが刺さった気がした。
 それを悟らせないように笑みを浮かべ、『ちゃんと録画したから、あとで見て』と返した。

『嘉那、何があったの』

 2人が顔を見合わせたかと思えば、巴がそんなことを訊いていた。
 察しがよすぎないだろうか。それとも私が分かりやすいのだろうか。

『何がって? 何もないよ?』

 笑みを貼り付けてノートを見せる。

『お前、自分で気付いてないだろ』
『新まで何言ってるの?』
『苦しそうだよ、嘉那。それに、何があったのって、断定で訊いてるの。何かがあった前提。紅弥と、何があったの?』

 私は2人の顔を見れなかった。
 鼻の奥がツーンと痛くなる。

 文化祭の日、私は家に帰ってから自分の部屋に閉じこもって泣いた。
 普段はリビングにいる私が部屋にこもったことで、祖父母が心配してくれたのは知っている。
 だけど、2人ともそっとしておいてくれた。

 たくさん泣いたら、日曜日も昨日も涙は出てこなかった。
 だからもう大丈夫だと思った。
 なのに……どうして2人は気付いてしまうかな。

『嘉那。言いたくないなら』

 どっちが言った言葉か分からない。
 その文字が途中で止まったのは、私がペンを持ったからだと思う。
 私が手を動かしている間、2人は黙って待っていてくれた。

『椚君がライブで歌ってて、でも私にはそれが聞こえなくて。
 初めて後悔した。初めて椚君の声を聴きたくなった。
 でももう遅かった。
 自業自得なのに、初めて過去の自分を恨んだ』

 視界が滲み、ノートにぽたぽたと雫が落ちる。
 もう散々泣いたと思っていたのに。

『椚君が私を好きって言ってくれて、でも私何も言えなかった。
 彼に触れられなかった。
 辛そうな椚君に、何もできなかった。
 椚君の隣にいる人は、私じゃないほうがいいに決まってる。
 彼の声が聞こえて、自分の声で気持ちを伝えられて、彼に触れられる人がいいに決まってる。
 なのに、私……。
 どうしよう。椚君に嫌われちゃったかもしれない』

 ノートに影が落ちた。
 顔を上げる間もなく頭が引き寄せられ、洗剤の匂いが鼻孔をくすぐった。巴の匂いだ。
 肩をギュッと抱き締められ、小さな子どもをあやすように、背中をポンポンと叩かれる。
 さらに優しい手で頭を撫でられた。巴の手は塞がっているはずだから、こっちは新の手だろう。
 余計に涙が溢れてきた。

 私は縋り付くように巴の腰に腕を回し、しわになるほどブレザーを握った。
 巴の制服が汚れてしまうと分かっているのに、涙が止まらない。
 2人は私が泣き止むまで、背中を叩き、頭を撫で続けてくれた。

***

『ごめん。みっともないとこ』

 今だ小さくしゃっくりのように肩を震わせながら、ノートに謝罪を書く。

『はいはい、思ってないから、そんなこと』
『ごめんねー。本当はあそこで抱き寄せるのは僕じゃダメだったんだけど、あまりにも見てられなくて』

 見てられないほど酷い顔をしていたということか……。

『あまりにも苦しそうだったから、体が勝手に動いちゃった』

 私の机の対面にしゃがんでいた巴が、「ごめんね」と困り顔で私の顔を覗き込んできた。
 私はチーンと(はな)をかみ、『こっちこそごめん』ともう一度謝った。

『お前が謝ることじゃないよ』

 新が目を細め、優しいお兄ちゃんスマイルを浮かべた。
 包容力が見えた気がした。

『でもさ、それだけ泣くってことは、もう答えが出てるってことだよね』

 巴が、新しいポケットティッシュを私の机に並べながら言った。
 私は端のティッシュの封を切り、涙でぐちゃぐちゃな顔を拭く。

『嘉那ー?』

 目を合わせない私の顔を覗き込んでくる巴から、逃げるように目を逸らす。
 逃がすまいと、机の上にあった新のスマホを、目の前まで近づけられた。

『嘉那。逃げちゃダメなとこでしょ』

 私は自分でも分かるくらいに眉を下げ、観念して巴を見た。

『紅弥のこと、どう思ってるの?』

 言わせないでよ。
 言ったら隠せなくなる。
 言ったら後戻りできなくなる。

『嘉那。後悔してるんでしょ? だったら、次は後悔しないようにしようよ』

 巴が真剣な目で私を見ていた。普段見ることのない目に、まるで責められているような気分になる。

『ちゃんと自分の気持ち、言ってごらん?』

 また視界が滲んできた。
 どうにも今日は涙腺が緩すぎるようだ。
 涙と一緒に、気持ちまで溢れてくる。
 全部巴のせいだ。
 私は眉間にしわが寄るのを感じながらペンを取った。

『すき』

 声で言えなくてよかった。ひらがな2文字で抑えられるから。
 それなのに、言葉はそれだけなのに、涙が溢れて止まらない。

『うん。それ、本人に言おうよ』
『でも、私、迷惑ばっかりかける。会話するのも時間かかるし、それに』
『嘉那。相手のことを考えられるのは、嘉那のいいとこだよ。でも、考えすぎて自分を追い詰めるのは、嘉那の悪いとこだ。前にも言ったよね。迷惑かどうかを決めるのは嘉那じゃないって。たくさん自分の気持ちを伝えてほしいって。何も言わないで、また後悔するの? ね、嘉那が今怖いことは何?』

 いつも飄々としている巴が、もどかしそうな顔をしていた。
 スマホが拾う巴の声は間延びしていない。

『私は』

 私が今怖いことは……。

『椚君に嫌われたくない。でも伝えて嫌われたらって怖い。椚君の声、聴けないのいやだ。椚君に名前を呼んでもらえなくなるのも、一緒にお昼食べれなくなるのも、もう私に話しかけてくれなくなるのも、椚君の隣に違う誰かが立つのもいやだ』

 彼がそばにいてくれないのはいやだ。
 彼が離れていくのが怖い。

『うん、よく頑張ったね。あとはそれを本人に伝えよっか』

 巴がニッコリ笑って、少し頭を出したポケットティッシュをくれた。
 数枚のティッシュを抜き取り、思い切り洟をかんだ。

『なんか巴にお兄ちゃんの座を奪われた気分だ』
『恋愛に関しては僕のほうが経験値あるからねー』
『は? は? 嘘だ』

 新が目を丸くして固まっている。
 その間抜けな顔に、クスッと笑ってしまった。

『本当だよー。恋愛経験ゼロの新とは違うんだからねー』
『恋愛経験くらいあるし』

 新が車椅子から身を乗り出さんばかりに反論する。

『どうせ片想いとかじゃないのー?』

 新はグッと堪えたような顔になった。
 図星なんだ。
 いつか新の恋バナも聞いてみたい。

『あはは、やっぱりー』

 2人が馬鹿話をしている姿を見ながら、このやり取りを声で聞きたいと思った。

『そろそろ教室に入ってもいいかしらー? もう1時間目、始まってるわよ』
『明美ちゃん先生、いつから』

 巴と新が、教室の入り口を振り返りながら言った。
 たぶん声はハモっていたと思う。スマホには一文しか入力されなかったから。
 私も同じことを思ったから、話せていたら3人の声が重なったことだろう。

『少し前からよ。でもま、今回は見逃してあげるわ。学生は学業だけが全てじゃないものね』

 明美ちゃん先生は、私にウィンクをした。

『さ、秋波さん。顔洗ってらっしゃい。そしたら授業よ。佐藤くんも席に戻りなさい』
『はーい』

 私はティッシュの山をごみ箱に捨て、顔を洗いに行くために教室を出た。