ライブが終わって、私はいつも通っている教室の机に突っ伏していた。

 終わったら迎えに行くから教室で待っていて、と椚君からメッセージが来たのは、彼らの演奏が終わってすぐのことだった。
 舞台上からはけて真っ先にメッセージをくれたのだろう。
 その時になって、そう言えば待ち合わせの場所は決めていなかったなと思い出した。

 私は突っ伏したまま顔だけを動かし、誰もいない新と巴の席を見る。
 2人は今頃、何をしているだろう。
 新は勉強かな。それともゲームか。
 巴は……。本当に何をしているんだろう……。

 さっきの椚君、すごくかっこよかったな。
 何かを願うように歌う彼の姿が、瞼の裏にこびりついて離れない。
 目を閉じると、ぼやけていた彼の姿がはっきりした。それと同時に、目尻から涙がこぼれた。

 切なそうだった。
 苦しそうだった。
 でも、楽しそうだった。
 何を思って歌っていたんだろう。

 私は突っ伏したまま、数分前に録画した動画を再生する。
 ライブ中の椚君は、人の目を惹きつける色気みたいなものがあった。
 画面の中の椚君を見ていると、影が落ちて来た。
 顔を上げると、椚君の焦った顔が近づいてきた。机の前にしゃがんで、私に目線を合わせてくれている。
 ブランケットとマフラーを装備した、見慣れた椚君だった。

『大丈夫?』

 不意に彼と初めて会った日のことを思い出した。
 あの日も、屋上で寝ていた私を焦った顔で起こしてくれた。
 彼の第一声は、今と同じ言葉だったはずだ。

 あぁそうだ。あの時は口の動きが早くて、何と言ったのか分からなかったんだ。
 でも今は、スマホに文字を打ち込んで話してくれる。いや、今起動されているのは音声入力アプリか。
 そんなに前のことじゃないはずなのに、懐かしく感じて笑みがこぼれた。

『泣いてるの?』

 スマホが拾う文字を読む。
 椚君の手が私の目元に伸びてきた。
 その手が私の目元をそっと撫でて離れていく。

 静かな時間だった。
 聴力がないせいではなく、本当に静かだから何の音もしないのだと錯覚するほどに、静かだった。

 私はゆっくり体を起こす。
 椚君は、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
 リュックの中から出したノートを広げ、『大丈夫だよ』と書いて見せた。

『何かあった?』
『何も』

 私には何もなかった。
 何も聞こえなかった。
 何も理解できなかった。

『何かあった顔してる』

 何もなかったから、ほしくなってしまった。
 自分で捨てたものを、もう一度……。

 でも、もう遅いよ。

『訊いてもいい?』
『何でもどうぞ』
『椚君は、私のどこを好きになってくれたの?』

 何もない私の何がよかったの?
 ノートから顔を上げた椚君は、真っ直ぐに私を見た。

『最初は正直一目惚れ。寝顔が可愛かった』

 予想外の一言に、私は顔が熱くなるのを感じてスマホから視線を逸らした。穴があったら入りたい。
 だけど、目を逸らしたままでは椚君の話が何も分からなくなると思い直し、視線を彼のスマホに戻した。

『機械に弱くてあたふたしてるとことか、美味しそうにものを食べる顔とか、すごく丁寧できれいな字とか、それを書く細くてきれいな指とか、おれが怖がりでも笑わないでいてくれるとことか。それから』

 恥ずかしさに耐えられなくなり、私は椚君の顔の前で手を振った。
 それでも椚君は私の手を掴み、さらに続けた。

『恥ずかしがって赤くなる顔も、可愛い。それだけじゃないよ。迷惑かけたくないって考え過ぎちゃうとこも、何かを我慢してこっそり泣いちゃうとこも。頼って欲しいって思うけど、でもそんなところも好き』

 これ以上はもういいよと思うのに、スマホから目を離せずに全部読んでしまった。
 彼はいつだって真っ直ぐな言葉をくれる。
 私を見る彼の目は、とても優しかった。
 椚君が今まで私に向けてくれた視線の中で、一番優しいブラウンだった。
 愛おしいものを見る目だと気付いたとき、そんな目を私なんかに向けないでと思ってしまった。

 そんな拒否するような考えが顔に出てしまったと気付いたときには、もう遅かった。
 私の手首を握っている彼の熱い手が、小刻みに震えていた。

 椚君の手から自分の手を引き抜こうとすると、あっさり手を放してくれた。
 小さく震えている彼の手に自分の手を重ねようとして、触れることさえできずに手を引っ込めた。
 私に彼の手を握る資格なんてない。

 代わりに机に転がっていたペンを握った。
 ノートを引き寄せたものの、言葉が出てこない。
 椚君がノートの上にスマホを置いた。

『秋波』

 呼ばれて、次に入力される言葉を待つ。
 けれど一向に文字は入力されない。
 気になって顔を上げる。
 椚君は傷ついたような顔をしていた。涙は流していないのに、泣いているように見えた。
 何か言いたいのに、声はおろか言葉も出ない。
 彼の顔に手を伸ばしたが、その手が届く前に椚君は下を向いた。

 拒絶された。
 そう思った。
 違うよ。私が先に拒否してしまったからだ。分かっているのに、怖くなった。

 何も言わない私に、失望したのかもしれない。
 何も言わない私が、嫌になったのかもしれない。

 だけど、そのほうがいいんじゃないのか。
 椚君の傍には、ちゃんと自分の声が届く人がいるほうがいいんじゃないのか。
 彼の「好き」を受け止めてくれる人が恋人になるほうがいいんじゃないのか。
 泣いた彼をすぐに慰めてくれる人が。
 手を伸ばして涙を拭ってくれる人が。
 私なんかより、いいんじゃないだろうか。

「ごめん」

 届かないと分かっていて、それでも私は口を動かした。