文化祭当日の朝、私は教科棟の多目的室に登校した。
いつもなら、すでに新と巴がいる時間。誰もいない教室というのは変な気分だった。
教室の中は静かだった。
耳が聞こえないからとかではなくて。
いつも私に笑いかけてくれる人がいない。スマホが拾う声がない。
2人がいないだけで、いつも通っている教室とは別の場所のようだった。
――『ただの文化祭だよ』
不意に新の言葉を思い出した。
べつに怖がっているんじゃないから。ただいつもの教室が違う場所のように思えただけだから。
心細いとか、そんなこと思っていないから。
私は頭を振って、気持ちを切り替えた。
ただの文化祭だ。美味しいもの、たくさん食べよう。
自分の席に座って、明美ちゃん先生が来るまでの間、本を読んで時間を潰した。
***
不意に誰かに肩を叩かれ、本から顔を上げた。
目の前に音声入力アプリを起動したスマホがあり、すでに文字が入力されていた。
『おはよう』
机の前に立っていたのは、着物姿の明美ちゃん先生だった。シンプルな薄ピンク色の着物を身に纏っていた。
なんで着物?
マジマジと着物を見ている私に気付いた先生が、自分の恰好を見下ろした。
『これ? これは衣装よ。私、茶道部の顧問やってるから』
茶道部の顧問……。
私は過去の記憶を遡った。
そう言えば、この教室に初めて来た時の自己紹介で、そんな話をしていたような気がする。
『茶室があるのは知ってる?』
たしか、教科棟より奥に和風の建物があったはずだ。それのことだろうか。
私はその和風の建物がある方角を指さす。
『そうそう。小さな和風の独立した建物があるでしょ。入り口にちょっとした石畳があるところ。今日は基本的にそこにいるから、何かあったらいらっしゃい。何もなくてもいらっしゃい。お菓子出るわよ』
それは行かなくてはいけない。もはや義務と言っても過言ではない。
私は力強く頷き、ノートにリストアップしていた行きたい場所の項目に、茶道部を書き足した。
『それと、これ渡しておくわ』
黄緑色の表紙には、ポップな書体で「文化祭の栞」の文字が躍っていた。
修学旅行の栞みたいだ。
『最後のページに地図があるから。どこの教室で何を出しているか分かるわ。他のページは、ゴミはゴミ箱に、みたいな最低限のルールとか。ほとんどはそれぞれの出し物の紹介ね』
言われてパラパラとページを捲っていく。先生の言う通り、ほとんどのページは、クラスや部活での出し物の紹介が載っていた。
最後のページを開くと、そこには手書きと思われる地図があった。どこで何を出しているかが分かるようになっていた。
中庭には、野外ステージも出ている。椚君が言ってた野外ステージはこれのことだろう。
『茶室はここよ』
明美ちゃん先生が、「茶道部のお茶体験!」と書かれているマスを指さした。
茶道部だし、やはり出てくるのは和菓子だろうか。
『お菓子ってどんなですか?』
『来てのお楽しみねー』
明美ちゃん先生は秘密、と唇の前で人差し指を立てた。
ますます気になる。
先生以外の茶道部員も、着物を着ているのだろうか。
着物姿でめかし込んでいる明美ちゃん先生を見た。
いつもは可愛いと言うほうが合っているけど、今は美人というほうがしっくりくる。
『明美ちゃん先生、写真撮ってもいいですか?』
丁度いいから、写真の練習でもしよう。
そう思って、明美ちゃん先生にスマホを向ける。
『いいわよ。可愛く撮ってね』
明美ちゃん先生は笑みを浮かべ、指でピースサインを作った。
準備が早い。
私は慌ててカメラアプリを立ち上げた。
ポーズを決めている明美ちゃん先生をフレームに納める。
シャッターボタンを押すと、一瞬だけスマホ画面が白くなり、写真が撮れたことを教えてくれた。
写真フォルダを開いて、撮れた写真を確認する。
少しブレてしまっていた。
私は人差し指を立てて、もう1枚、とお願いした。
明美ちゃん先生は、さっきとは違って、背筋を伸ばしてお淑やかに微笑んだ。
シャッターを切ると、明美ちゃん先生はまたポーズを変えた。
先生の気が乗っているうちに、たくさん撮って練習しておこう。
先生が私の席の隣に置いてあった椅子に座った。
真面目な表情をしてみたり、愛嬌のある笑みを浮かべてみたりと、モデルを楽しんでいるようだった。
『どう? いい感じに撮れた?』
数枚写真を撮り、明美ちゃん先生が私のスマホを覗き込んできた。
私は写真フォルダを開き、明美ちゃん先生にスマホを渡した。
先生が白く細い指を画面に滑らせた。私も隣から覗き込み、自分が撮った写真を見た。
ブレているものもあるけれど、それなりに満足できる明美ちゃん先生もいた。
『あ、これいいわね』
明美ちゃん先生が指さしたのは、窓の外を見ている先生の写真だった。
口元にはお淑やかに笑みを浮かべ、ほんの少しだけ目を細めて遠くを見ている。
まさしく清楚美人な明美ちゃん先生だった。
私が撮ったにしては、奇跡の1枚と言える写真ではなかろうか。
『この写真、私にもちょうだい』
頷くと、明美ちゃん先生は私のスマホを操作して、自分のスマホに送信した。
ついでに、新と巴とのグループにも写真を送信してもらう。
すぐに2人分の既読が付き、『え、先生すごい美人!』『明美ちゃん先生かわいいねー! 着物似合ってるよ。今度それで授業してー!』というコメントが流れて来た。
『佐藤くんは佐藤くんね』
呆れたように言った明美ちゃん先生は、ここから返信していいか私に許可を取ってから、素早くキーボードをタップした。
『佐藤くん、補習プリント増やすわよ?』
『そ、その呼び方は明美ちゃん先生……! それだけはご勘弁!』
巴はパンダが焦っているスタンプを送ってきた。
でも謝りはしないらしい。
『まったく。調子いいんだから』
明美ちゃん先生は呆れた顔で私にスマホを返した。
スタンプのあとに、私宛のメッセージが来ていた。
『嘉那、文化祭楽しめよ!』
『デート楽しんでー』
返信しようか迷ったが、黙っていることにした。
そもそも普段から返すことが少ない私だから、既読のままでも2人は怒ったりしない。
べつにデートってわけじゃ……と思わないでもないけど。
スマホ画面を消すと、明美ちゃん先生が自分のスマホを見せてきた。
先生の口が動いていないのに、音声入力アプリに文字が入力されていく。
どうやら、文化祭の開始を宣言する放送が流れているらしい。
『ただいまより、文化祭を開催いたします。みなさま、ルールを守り、どうぞ存分に文化祭を楽しんでください』
空中を見ながら放送を聞いていた先生は、放送が終わると私を見た。
『秋波さんはこれからどうするの?』
『椚君が迎えに来てくれます』
『そうなのね。じゃあ、それまで一緒にここにいるわ。椚くんにも会ってみたいし』
明美ちゃん先生は、楽しそうだった。お祭りにテンションが上がっているのもあるのだろう。
かくいう私も、楽しみじゃないと言えば嘘になる。
いつもなら、すでに新と巴がいる時間。誰もいない教室というのは変な気分だった。
教室の中は静かだった。
耳が聞こえないからとかではなくて。
いつも私に笑いかけてくれる人がいない。スマホが拾う声がない。
2人がいないだけで、いつも通っている教室とは別の場所のようだった。
――『ただの文化祭だよ』
不意に新の言葉を思い出した。
べつに怖がっているんじゃないから。ただいつもの教室が違う場所のように思えただけだから。
心細いとか、そんなこと思っていないから。
私は頭を振って、気持ちを切り替えた。
ただの文化祭だ。美味しいもの、たくさん食べよう。
自分の席に座って、明美ちゃん先生が来るまでの間、本を読んで時間を潰した。
***
不意に誰かに肩を叩かれ、本から顔を上げた。
目の前に音声入力アプリを起動したスマホがあり、すでに文字が入力されていた。
『おはよう』
机の前に立っていたのは、着物姿の明美ちゃん先生だった。シンプルな薄ピンク色の着物を身に纏っていた。
なんで着物?
マジマジと着物を見ている私に気付いた先生が、自分の恰好を見下ろした。
『これ? これは衣装よ。私、茶道部の顧問やってるから』
茶道部の顧問……。
私は過去の記憶を遡った。
そう言えば、この教室に初めて来た時の自己紹介で、そんな話をしていたような気がする。
『茶室があるのは知ってる?』
たしか、教科棟より奥に和風の建物があったはずだ。それのことだろうか。
私はその和風の建物がある方角を指さす。
『そうそう。小さな和風の独立した建物があるでしょ。入り口にちょっとした石畳があるところ。今日は基本的にそこにいるから、何かあったらいらっしゃい。何もなくてもいらっしゃい。お菓子出るわよ』
それは行かなくてはいけない。もはや義務と言っても過言ではない。
私は力強く頷き、ノートにリストアップしていた行きたい場所の項目に、茶道部を書き足した。
『それと、これ渡しておくわ』
黄緑色の表紙には、ポップな書体で「文化祭の栞」の文字が躍っていた。
修学旅行の栞みたいだ。
『最後のページに地図があるから。どこの教室で何を出しているか分かるわ。他のページは、ゴミはゴミ箱に、みたいな最低限のルールとか。ほとんどはそれぞれの出し物の紹介ね』
言われてパラパラとページを捲っていく。先生の言う通り、ほとんどのページは、クラスや部活での出し物の紹介が載っていた。
最後のページを開くと、そこには手書きと思われる地図があった。どこで何を出しているかが分かるようになっていた。
中庭には、野外ステージも出ている。椚君が言ってた野外ステージはこれのことだろう。
『茶室はここよ』
明美ちゃん先生が、「茶道部のお茶体験!」と書かれているマスを指さした。
茶道部だし、やはり出てくるのは和菓子だろうか。
『お菓子ってどんなですか?』
『来てのお楽しみねー』
明美ちゃん先生は秘密、と唇の前で人差し指を立てた。
ますます気になる。
先生以外の茶道部員も、着物を着ているのだろうか。
着物姿でめかし込んでいる明美ちゃん先生を見た。
いつもは可愛いと言うほうが合っているけど、今は美人というほうがしっくりくる。
『明美ちゃん先生、写真撮ってもいいですか?』
丁度いいから、写真の練習でもしよう。
そう思って、明美ちゃん先生にスマホを向ける。
『いいわよ。可愛く撮ってね』
明美ちゃん先生は笑みを浮かべ、指でピースサインを作った。
準備が早い。
私は慌ててカメラアプリを立ち上げた。
ポーズを決めている明美ちゃん先生をフレームに納める。
シャッターボタンを押すと、一瞬だけスマホ画面が白くなり、写真が撮れたことを教えてくれた。
写真フォルダを開いて、撮れた写真を確認する。
少しブレてしまっていた。
私は人差し指を立てて、もう1枚、とお願いした。
明美ちゃん先生は、さっきとは違って、背筋を伸ばしてお淑やかに微笑んだ。
シャッターを切ると、明美ちゃん先生はまたポーズを変えた。
先生の気が乗っているうちに、たくさん撮って練習しておこう。
先生が私の席の隣に置いてあった椅子に座った。
真面目な表情をしてみたり、愛嬌のある笑みを浮かべてみたりと、モデルを楽しんでいるようだった。
『どう? いい感じに撮れた?』
数枚写真を撮り、明美ちゃん先生が私のスマホを覗き込んできた。
私は写真フォルダを開き、明美ちゃん先生にスマホを渡した。
先生が白く細い指を画面に滑らせた。私も隣から覗き込み、自分が撮った写真を見た。
ブレているものもあるけれど、それなりに満足できる明美ちゃん先生もいた。
『あ、これいいわね』
明美ちゃん先生が指さしたのは、窓の外を見ている先生の写真だった。
口元にはお淑やかに笑みを浮かべ、ほんの少しだけ目を細めて遠くを見ている。
まさしく清楚美人な明美ちゃん先生だった。
私が撮ったにしては、奇跡の1枚と言える写真ではなかろうか。
『この写真、私にもちょうだい』
頷くと、明美ちゃん先生は私のスマホを操作して、自分のスマホに送信した。
ついでに、新と巴とのグループにも写真を送信してもらう。
すぐに2人分の既読が付き、『え、先生すごい美人!』『明美ちゃん先生かわいいねー! 着物似合ってるよ。今度それで授業してー!』というコメントが流れて来た。
『佐藤くんは佐藤くんね』
呆れたように言った明美ちゃん先生は、ここから返信していいか私に許可を取ってから、素早くキーボードをタップした。
『佐藤くん、補習プリント増やすわよ?』
『そ、その呼び方は明美ちゃん先生……! それだけはご勘弁!』
巴はパンダが焦っているスタンプを送ってきた。
でも謝りはしないらしい。
『まったく。調子いいんだから』
明美ちゃん先生は呆れた顔で私にスマホを返した。
スタンプのあとに、私宛のメッセージが来ていた。
『嘉那、文化祭楽しめよ!』
『デート楽しんでー』
返信しようか迷ったが、黙っていることにした。
そもそも普段から返すことが少ない私だから、既読のままでも2人は怒ったりしない。
べつにデートってわけじゃ……と思わないでもないけど。
スマホ画面を消すと、明美ちゃん先生が自分のスマホを見せてきた。
先生の口が動いていないのに、音声入力アプリに文字が入力されていく。
どうやら、文化祭の開始を宣言する放送が流れているらしい。
『ただいまより、文化祭を開催いたします。みなさま、ルールを守り、どうぞ存分に文化祭を楽しんでください』
空中を見ながら放送を聞いていた先生は、放送が終わると私を見た。
『秋波さんはこれからどうするの?』
『椚君が迎えに来てくれます』
『そうなのね。じゃあ、それまで一緒にここにいるわ。椚くんにも会ってみたいし』
明美ちゃん先生は、楽しそうだった。お祭りにテンションが上がっているのもあるのだろう。
かくいう私も、楽しみじゃないと言えば嘘になる。