電車とバスを乗り継いで、病院に到着した。かなり大きな病院だった。
院内の案内図を見て、巴がいる病室を目指す。
302、302。
心の中で部屋番号を繰り返しながら、病室の入り口のプレートを見て廊下を進んだ。
302。佐藤巴様。
目的の部屋を見つけ、コンコンとノックした。
しばらく待ってみても、返事がなかった。
そこでハッとする。返事を待っても、私には聞こえることがないのだ。
病院はもともと静かな場所だと思っているから、てっきりそのせいで何も聞こえないのだと錯覚してしまった。
私はもう一度ノックをして、病室のドアを開けた。
その部屋は個室だった。
頭の部分だけ上げられているベッドに上に、巴が横になっていた。薄緑のパジャマの上にカーディガンを羽織っている巴は、背中の後ろ挟んだ枕に凭れかかっていた。
ドアを開けた瞬間目が合った巴は、私を見るなり目を丸くした。すぐに笑顔になると、私を手招きした。
私はスマホで音声入力アプリを立ち上げ、部屋に入った。
『ここ、座りなよ』
巴がベッド横のパイプ椅子を指さした。
私は背負っていたリュックを下ろし、勧められた椅子に腰を下ろす。
『まさか来てくれるなんて、ビックリしたー。最初のノックも嘉那? ノックしたわりに入ってこないから、誰かが病室を間違えたのかと思ったよー』
巴が上機嫌に微笑みながら話している。顔色はかなりよさそうだけど、それでもまだ退院できないのだろうか。
『学校帰り? ここまで電車とバス? 迷子にならなかった?』
矢継ぎ早に質問され、スマホをベッドの足元にあるテーブルに置かせてもらい、急いでリュックからノートを出した。
『学校帰り。電車とバス。迷子にはならなかった。大丈夫』
全ての質問の答えを書いてからノートを見せる。
巴は頷きながら笑っていた。
『みんなからお土産あるよ』
ノート見せると、巴はなんだろうと期待の眼差しを向けた。
数ページ戻り、新からのお土産を見せる。
『勉強に頭抱える僕が見たいって、いい趣味してるよねー、新』
誰からとは言ってないけど、さすがに分かりやすいか。
私はノートをベッドに置き、リュックから茶封筒を出した。明美ちゃん先生から託された封筒だ。
『これは?』
『個人情報だって。先生から。あと、よろしく伝えるように言われたよ』
『そっか。ありがとう。個人情報ってなんだろう』
巴は、厳重に閉じられている封筒と格闘し始めた。爪が短い巴は、しっかり貼られているセロテープに苦戦していた。
見かねてリュックの中からペンケースを出し、コンパクトはさみを貸した。
『ありがとう』
封を開けた巴は、中を覗いた瞬間に目から光を消した。
『うーん。ありがとー』
これはきっと棒読みだ。
巴はペンケースにはさみを戻すと、封筒の中身を全て出した。
封筒から滑り落ちて来たものを目で追う。
うわぁ……見てらんない……。
『ふふふ、これは学年最下位かな』
あんなに補習プリントをやらされて、あんなに新に勉強教えてもらっていたというのに。これは新も落ち込む点数だ。『頭を抱える巴が見たい』と書かれていたが、頭を抱えるのは新のほうかもしれない。
巴もそれを分かっているのか、縋るような目で私を見てきた。
『一緒に謝って』
私はふるふると首を横に振った。
『他人事だと思ってー』
語尾に感嘆符を付けて喚かれたところで、他人事だもん。
あざとく頬を膨らませながら、巴はベッドに散らばったバツだらけの解答用紙をかき集めた。
その様子を眺めていると、今にも泣き喚きそうな巴の目が、すでに赤いことに気が付いた。
『嘉那?』
巴が目を丸くして私を見ている。
私は無意識に巴の目元に手を伸ばしていた。慌てて手を引っ込めようとしたけれど、その手を巴に掴まれた。
『誰にも言わないで』
巴が珍しく真剣な顔をしている。本気で頼んでいるようだった。
掴まれている手から逃れようとして腕を捻るが、巴の手の力のほうが強い。病人とは思えないほどに。
掴まれているのが右手だから、話したくても話せない。ノートを指先で叩き、書きたいことがあることを伝えた。巴は渋々私の手を放してくれた。
『べつに誰にも言ったりしないよ。でも、私は知りたい。何か嫌なことあった?』
入院しているだけで嫌なことなのかもしれないけれど。
俯いてノートを見ている巴の顔を覗き込んだ。
「……」
小さく口が動くのが分かった。ベッドテーブルに置かれているスマホに目をやる。
『1人が苦手なんだ。このまま1人で消えていくのかなって考えちゃって、怖くなる。情けないよね』
巴は弱々しく笑っていた。
私は首を横に振って否定する。情けなくなんてない。
『情けなくない。誰にだって怖いものはあるよ。巴は情けなくない』
急いで伝えたくて、字が汚くなってしまった。
『珍しいね。嘉那はもっと涼しい顔をする子だったのに』
どこか、小さな子どもを見守るような目だった。
『入学した頃は、もっとこう、線を引いてるような感じだったけど。ちょっとずつ変わってきたね。新のおかげだ。でも、紅弥にはまだ線を引いてるね』
『今は私のことより、巴のことでしょ』
『そっかー。じゃあこの話はあとでするとしよう』
巴は大人びた笑みを浮かべた。さっきまでの弱々しさはどこへ行ったんだ。私の気を引くための演技だったのかと思うほど、素早い切り替えだった。
『僕は賑やかな方が好きなんだ。新ぐらい賑やかなのがいい。寂しがり屋なんだよ』
『ただのアホだと思ってた』
『酷くないー?』
『みんなを元気づけるアホだと思ってた』
『あんまり変わってなくなーい?』
言葉にするって難しい。どう言えば伝わるんだろう。
巴を馬鹿にしているつもりはあまりない。
『周りを見て、アホを演じてると思ってた。学力はともかく』
『まぁ妥協しよう。でも、本当の僕なんてこんなもんだよ』
『巴も新も、強いなって思って見てた』
『そんなことはないよ。新も僕も、弱いところを隠してるだけ』
椚君とは真逆だ。彼は自分の弱い部分を教えてくれた。苦手なことも話してくれた。
どっちがいいとか悪いとかではないけど。
『嘉那が言ったでしょ』
巴は私が書いた文字をトントンと指先で叩く。
『誰にだって怖いものはあるよ。嘉那の言うとおり。僕にも新にも、嘉那にもある』
新の怖いものって、なんだろう。
巴は自分の話は終わりと言わんばかりに、満面の笑みを浮かべて空気を一変させた。
『さてここで、嘉那の話に戻ろうか』
院内の案内図を見て、巴がいる病室を目指す。
302、302。
心の中で部屋番号を繰り返しながら、病室の入り口のプレートを見て廊下を進んだ。
302。佐藤巴様。
目的の部屋を見つけ、コンコンとノックした。
しばらく待ってみても、返事がなかった。
そこでハッとする。返事を待っても、私には聞こえることがないのだ。
病院はもともと静かな場所だと思っているから、てっきりそのせいで何も聞こえないのだと錯覚してしまった。
私はもう一度ノックをして、病室のドアを開けた。
その部屋は個室だった。
頭の部分だけ上げられているベッドに上に、巴が横になっていた。薄緑のパジャマの上にカーディガンを羽織っている巴は、背中の後ろ挟んだ枕に凭れかかっていた。
ドアを開けた瞬間目が合った巴は、私を見るなり目を丸くした。すぐに笑顔になると、私を手招きした。
私はスマホで音声入力アプリを立ち上げ、部屋に入った。
『ここ、座りなよ』
巴がベッド横のパイプ椅子を指さした。
私は背負っていたリュックを下ろし、勧められた椅子に腰を下ろす。
『まさか来てくれるなんて、ビックリしたー。最初のノックも嘉那? ノックしたわりに入ってこないから、誰かが病室を間違えたのかと思ったよー』
巴が上機嫌に微笑みながら話している。顔色はかなりよさそうだけど、それでもまだ退院できないのだろうか。
『学校帰り? ここまで電車とバス? 迷子にならなかった?』
矢継ぎ早に質問され、スマホをベッドの足元にあるテーブルに置かせてもらい、急いでリュックからノートを出した。
『学校帰り。電車とバス。迷子にはならなかった。大丈夫』
全ての質問の答えを書いてからノートを見せる。
巴は頷きながら笑っていた。
『みんなからお土産あるよ』
ノート見せると、巴はなんだろうと期待の眼差しを向けた。
数ページ戻り、新からのお土産を見せる。
『勉強に頭抱える僕が見たいって、いい趣味してるよねー、新』
誰からとは言ってないけど、さすがに分かりやすいか。
私はノートをベッドに置き、リュックから茶封筒を出した。明美ちゃん先生から託された封筒だ。
『これは?』
『個人情報だって。先生から。あと、よろしく伝えるように言われたよ』
『そっか。ありがとう。個人情報ってなんだろう』
巴は、厳重に閉じられている封筒と格闘し始めた。爪が短い巴は、しっかり貼られているセロテープに苦戦していた。
見かねてリュックの中からペンケースを出し、コンパクトはさみを貸した。
『ありがとう』
封を開けた巴は、中を覗いた瞬間に目から光を消した。
『うーん。ありがとー』
これはきっと棒読みだ。
巴はペンケースにはさみを戻すと、封筒の中身を全て出した。
封筒から滑り落ちて来たものを目で追う。
うわぁ……見てらんない……。
『ふふふ、これは学年最下位かな』
あんなに補習プリントをやらされて、あんなに新に勉強教えてもらっていたというのに。これは新も落ち込む点数だ。『頭を抱える巴が見たい』と書かれていたが、頭を抱えるのは新のほうかもしれない。
巴もそれを分かっているのか、縋るような目で私を見てきた。
『一緒に謝って』
私はふるふると首を横に振った。
『他人事だと思ってー』
語尾に感嘆符を付けて喚かれたところで、他人事だもん。
あざとく頬を膨らませながら、巴はベッドに散らばったバツだらけの解答用紙をかき集めた。
その様子を眺めていると、今にも泣き喚きそうな巴の目が、すでに赤いことに気が付いた。
『嘉那?』
巴が目を丸くして私を見ている。
私は無意識に巴の目元に手を伸ばしていた。慌てて手を引っ込めようとしたけれど、その手を巴に掴まれた。
『誰にも言わないで』
巴が珍しく真剣な顔をしている。本気で頼んでいるようだった。
掴まれている手から逃れようとして腕を捻るが、巴の手の力のほうが強い。病人とは思えないほどに。
掴まれているのが右手だから、話したくても話せない。ノートを指先で叩き、書きたいことがあることを伝えた。巴は渋々私の手を放してくれた。
『べつに誰にも言ったりしないよ。でも、私は知りたい。何か嫌なことあった?』
入院しているだけで嫌なことなのかもしれないけれど。
俯いてノートを見ている巴の顔を覗き込んだ。
「……」
小さく口が動くのが分かった。ベッドテーブルに置かれているスマホに目をやる。
『1人が苦手なんだ。このまま1人で消えていくのかなって考えちゃって、怖くなる。情けないよね』
巴は弱々しく笑っていた。
私は首を横に振って否定する。情けなくなんてない。
『情けなくない。誰にだって怖いものはあるよ。巴は情けなくない』
急いで伝えたくて、字が汚くなってしまった。
『珍しいね。嘉那はもっと涼しい顔をする子だったのに』
どこか、小さな子どもを見守るような目だった。
『入学した頃は、もっとこう、線を引いてるような感じだったけど。ちょっとずつ変わってきたね。新のおかげだ。でも、紅弥にはまだ線を引いてるね』
『今は私のことより、巴のことでしょ』
『そっかー。じゃあこの話はあとでするとしよう』
巴は大人びた笑みを浮かべた。さっきまでの弱々しさはどこへ行ったんだ。私の気を引くための演技だったのかと思うほど、素早い切り替えだった。
『僕は賑やかな方が好きなんだ。新ぐらい賑やかなのがいい。寂しがり屋なんだよ』
『ただのアホだと思ってた』
『酷くないー?』
『みんなを元気づけるアホだと思ってた』
『あんまり変わってなくなーい?』
言葉にするって難しい。どう言えば伝わるんだろう。
巴を馬鹿にしているつもりはあまりない。
『周りを見て、アホを演じてると思ってた。学力はともかく』
『まぁ妥協しよう。でも、本当の僕なんてこんなもんだよ』
『巴も新も、強いなって思って見てた』
『そんなことはないよ。新も僕も、弱いところを隠してるだけ』
椚君とは真逆だ。彼は自分の弱い部分を教えてくれた。苦手なことも話してくれた。
どっちがいいとか悪いとかではないけど。
『嘉那が言ったでしょ』
巴は私が書いた文字をトントンと指先で叩く。
『誰にだって怖いものはあるよ。嘉那の言うとおり。僕にも新にも、嘉那にもある』
新の怖いものって、なんだろう。
巴は自分の話は終わりと言わんばかりに、満面の笑みを浮かべて空気を一変させた。
『さてここで、嘉那の話に戻ろうか』