『え、佐藤先輩が? 大丈夫なの?』

 月曜日の昼休み、巴が入院していることを椚君に話した。
 新と巴とメッセージアプリでやり取りしているらしいのだけど、巴からの連絡が金曜日の朝で途絶えてしまった。巴は返信は早くないものの、その日の内には返ってくるから、心配になったらしい。
 それで私に、何か知らないか訊いてきたというわけだ。

 試験中に倒れた話は省いて、ただ入院していることだけを話した。
 発作を起こしたとか救急車で運ばれたとかは伏せた。プライバシーに関わることかなと思ったから。
 もっとも、救急車のサイレンは聞こえていたかもしれないが。

『大丈夫。って、新が言ってた』

 巴からの連絡は、私たちのグループにもまだない。
 だけど新が大丈夫って言ったんだから、大丈夫なんだ。
 新は普段から適当なことは言わないから。

『そっか。じゃあ、おれも三木先輩の言葉、信じようかな』

 椚君はニッと笑った。

『秋波が信じてる人のこと、おれも信じたい』

 彼の言葉に、私は目を丸くした。
 椚君が無理に新を信じることはないと思う。でも素直にその言葉が嬉しかった。
 私は椚君に笑みを向け、自信満々に頷いた。

 大丈夫。新の言葉は信じていいよ。
 ……巴の言うことは話し半分くらいで思ったらいいよ。

『それにしても寒いね。そろそろ屋上でご飯食べるのも厳しいかも……』

 椚君は、肩に掛けていたブランケットをギュッと握りしめた。薄々気付いていたが、どうもかなりの寒がりらしい。裏ボアになっている紺色のブランケットにくるまる姿は、いつもより小さく見えた。
 たしかに最近は寒い日が続く。巴も体調を崩すわけだ。下手をしたら私も風邪をひきかねない。私もそろそろセーター着ようかな。

『さっむ。先週あたりから一気に冷えたね。秋波は平気なの? ブレザーの下何も着てないけど』
『私、寒いのはわりと平気だよ』
『暑いほうが苦手?』
『というわけでもない』

 特に苦手な季節はない。得意な季節もないけど。

『おれは冬と春が大っ嫌い』

 椚君は鼻にしわを寄せて、心底嫌そうな顔をした。
 もこもこのブランケットにくるまって縮こまる椚君は、小動物のようで可愛らしい。

『冬は寒いからとして、春は? 花粉症?』
『正解。もうティッシュケース常備してるもん』

 机の上にティッシュケースを置き、ズビズビと(はな)を啜りながら授業を受ける椚君を想像して笑ってしまった。
 本人は辛いだろうけど。

『秋波は花粉症ない?』
『あるけど、そこまで酷くないよ。時々くしゃみ出たり、目がかゆくなるくらい』
『いいなぁ』

 椚君が羨ましそうに私を見た。
 どう返していいのか分からず、微苦笑するだけにとどめた。

『夏は好き?』
『嫌い。虫がいる。春から蝶々飛んで来るでしょ? 夏はセミが死んだと見せかけて飛び掛かって来るし、蚊に刺されて痒いし、秋はトンボが飛んでる』

 何と言うか……。苦労してるのがよく分かった。
 私も虫は好きではないけど、椚君ほどではないと思う。無心で退治するくらいはできる。

『おれ、虫が出たら叫ぶ』

 椚君が身震いして言った。
 そんなにダメなんだ。

『授業中、教室に虫入って来ることない?』
『おれは真っ先に逃げる』

 即答だった。ノートを見せた瞬間、食い気味に反応していた。
 椚君が虫に怯えて逃げているところは、想像もつかなかった。

『嫌いな物ばっかで、かっこ悪いでしょ』
『そんなことない! むしろ、苦手なことを教えてくれるほうが、親近感湧く』
『親近感?』
『同じ人間なんだなぁって』
『なにそれ』

 椚君は可笑しそうに笑った。
 でも、本当にそう思う。人前で弱い部分を見せないようにする人も、かっこいいけど。

『じゃあもう1個。おれね、本当は怖いの苦手なんだ』

 言われて私は首を傾げた。以前、椚君のクラスは文化祭でお化け屋敷をすると言っていなかったか……。

『気付いた? おれねぇ、自分のクラスの出し物にビビってんの』

 自分が作る側に立っても、怖いものは怖いらしい。
 これまた大変そうだな、と他人事のように考えていると、椚君は真っ直ぐに私を見てきた。そのブラウンの瞳の中に、一途な光があった。

『だからさ。一緒にいてくんない?』
『それって、文化祭のお誘い?』
『そ』

 意外と諦めが悪い人のようだ。
 私はノートを見下ろしたものの、何も言葉が浮かんでこなかった。

 うん、とも、いや、とも言えない。
 おかしい。前はもっとちゃんと断れたはずなのに。

『きっと、面倒くさいよ』
『思わないよ、そんなこと』
『どうしてそんなに、私を気に掛けてくれるの? 耳が聞こえないから?』

 私はずっと気になっていたことを訊ねた。
 椚君は、なぜか傷ついたような顔をした。それから、何かを言い聞かせるような顔で、口をパクパクと動かした。

「……」

 真っ直ぐに私を見る彼の目から視線を逸らせなかった。
 なんと言ったのか気になって、私は椚君の視線から逃げるように目を逸らした。

『おれは秋波の耳が聞こえないから、一緒にいるわけじゃないよ。そもそも、気に掛けてるなんて思ったことない』

 椚君の口から出る言葉が、さらに文字となって入力される。

『おれは秋波を知りたい。秋波と一緒にいたいからいる。秋波と話したいから話してる。それだけだよ』
「どうして」

 その言葉は、声にはならない。
 手を動かすより先に、自然に口が動いた。
 椚君は、何? と私の顔を覗き込んできた。

『どうして?』
「好きだから」

 椚君の口が、そう動いた気がした。
 気のせいだ。
 そう思って、スマホに視線を落とす。

『好きだから。秋波のことが好きだから』

 どうやら、スマホまで変に声を……。
 いや、ダメだ。
 私に椚君の気持ちを否定する権利はない。
 勝手に気持ちを捻じ曲げちゃいけない。

 だけど、どうしたら。
 私を好きになったって、いいことなんてひとつもない。

 私は巴が目の前で倒れた時以上に、パニックになっていた。
 頭の中がグチャグチャで、心臓がドクドクと音を立てる。上手く思考がまとまらない。
 心臓から送り出される血液や酸素だけでは足りないのか、頭がちゃんと回ってくれない。

『今すぐに返事が欲しいわけじゃない。これも、文化祭の返事と同じように、考えてみて欲しい』
『でも――』

 それ以上、文字にすることは叶わなかった。椚君が私の手の上に、自分の手を重ねたから。
 寒そうにブランケットにくるまっているくせに、その手はやけに熱かった。

「お願い」

 椚君は、私にも分かるように、大きく口を動かした。
 真剣な顔で、逃がさないと言いたげな視線。ブラウンのきれいな瞳に、吸い込まれそうになった。
 椚君の言葉はいつも真っ直ぐだ。
 だからだろうか……。

「お願い」

 もう一度動いた唇に、私は頷かされた。