補習プリントの山を乗り越えたと思ったら、中間試験が始まってしまった。
 まだ……まだ心の準備ができていない。

『今日寒いー。集中できないー。帰りたいー』

 机の上に置いていた私のスマホに、巴の嘆きが入力される。
 昨日あたりから急激に気温が下がり、前よりいっそう寒くなった。
 気温の変化に弱い巴が、泣きそうになっていた。

『オレのブランケット、使うか?』
『ちゃんと足に掛けときなさい』
『うわ、巴がまともなこと言ってる』

 新がブランケットを差し出すと、巴がそれを奪い取り、新の足の上に掛けた。
 珍しくまともなことを言っている巴に若干引いたのは、新だけじゃなく私もだった。
 どうしたんだ、勉強のし過ぎか?

『あのねー。僕だっていつもふざけてるわけじゃないんだからね?』

 いつもふざけてる自覚はあったのか。
 黒板の上の時計を確認した明美ちゃん先生が、私たちを見て口を動かした。

『そろそろ試験始まるわよ。机の上のものは片付けてね。って誰も勉強してないわね』
『諦めたらこんなものだよー』
『待て巴、オレは何も諦めてないから』

 新が慌てて巴の言葉を否定した。
 巴は『そうなのー?』とわざとらしく首を傾げている。

『はいはい、そろそろチャイム鳴るから。一応言っておくけど、机の上は筆記用具だけよ。スマホはしまってね』

 スマホを片付けると、もう誰が何を言っても、私には分からなくなった。
 試験の時ばかりは、音声入力アプリも使うことはできない。音声入力アプリというより、スマホがあることが問題なのだが。もっとも、私はスマホがあってもカンニングなんてできないし、見逃してほしいくらいではある。
 もし問題用紙にミスがあったとか、そういう不測の事態があったときは、明美ちゃん先生が黒板に書いて教えてくれる。
 試験の開始と終了も、ちゃんと明美ちゃん先生が教えてくれる。

 誰も話さない時間は、どことなく不安を感じる。普段から聞こえているわけでもないけど。
 ちゃんとそこにいるのは分かっているのに、試験に向き合っている時は自分1人だけになる気がして、落ち着かない。
 紙を捲る音も、文字を書く音も、時計の針が進む音も聞こえてこないから。

 明美ちゃん先生が、問題と解答用紙を配った。
 裏向きに置かれた問題用紙に手をかけながら、明美ちゃん先生を見た。
 数秒して、明美ちゃん先生が私を見て頷いた。

「始め」

 私は用紙を表向けて、解答用紙に名前を書き込んだ。

 静かだ。
 試験問題に向き合っているせいで、他のものが視界に入らない。
 新と巴は隣にいるだろうか。
 明美ちゃん先生は教卓の前にいるだろうか。
 不安になって、私はわざと顔を上げる。

 あまり隣を見ていると、カンニングを疑われるところだけど、そもそも私と2人の問題用紙は違うから、先生も特に何も言わない。
 さすがにしつこく見続けるわけにはいかないけど。自分のテストもあるわけだし。

 私は時々、みんながそこにいるか確認しながら、空欄を埋めていった。

***

 試験の最終日、巴が倒れた。

 最初は気付かなかった。
 巴が苦しんでいることに気付けなかった。

 それは1時間目の試験の途中だった。
 慌ただしく動く影に気付いて顔を上げた時、明美ちゃん先生が巴に駆け寄るところだった。
 椅子から崩れ落ちる巴を、明美ちゃん先生が間一髪のところで受け止めた。そのおかげで床に頭をぶつけたりはしていなかった。

 明美ちゃん先生が新に何か言い、新は慌ててリュックからスマホを出した。明美ちゃん先生の代わりに、どこかに電話をかけていた。
 あとで救急車が来たから、それを呼んでいたのだと思う。
 私はその様子を、ただ眺めていることしかできなかった。
 周りが慌ただしく、それでも冷静に対応している間、私には何もできることがなかった。

 先生は私と新に試験を続けるように言ったが、これっぽっちも集中できなかった。
 きっと古典と世界史は、過去最低点数を叩き出したことだろう。

 試験が終わっても、まだ頭は真っ白だった。
 今日が最終日でよかった。明日も試験だったら、最低点数を取る科目が増えることになったはずだから。

 帰る時間になっても、私は席から立ち上がれなかった。
 お願い、死なないで。神様、巴を連れて行かないで。
 ただそれだけを、強く願っていた。

 教室を出ることができなかったのは、新も同じだった。
 切羽詰まった顔で、明美ちゃん先生に話しかけている。

『明美ちゃん先生、巴は?』
『意識は戻ったそうよ。だけど、しばらく入院ね』
『そっか。また留年にならないといいな』
『えぇ』

 教卓に座っている明美ちゃん先生は、どこか疲れた様子だった。
 新は少し伏せた目で、ぽつんとある巴の座席を見ていた。

『嘉那? 大丈夫か?』

 不意に新が私の存在を思い出したように、心配そうな顔で私を見た。
 小さく頷くのが精いっぱいだった。
 何かを言えるわけでも、文字にできるわけでもなかった。

『安心しろよ。大丈夫。あいつはちゃんと生きてるし、そのうち戻って来るからさ』

 新が私を安心させるように笑った。

『たぶんさ、最近急に冷えたから、体がついていかなかったんだよ。そんな泣きそうな顔すんなって』

 新に言われて、私は自分が泣きそうになっていることに初めて気が付いた。
 新の表情が少し陰っていることにも。私はようやく少しだけ心が落ち着いた。
 そうだよ、今一番辛いのは巴だ。私が落ち込んでいてどうする。不安なのは先生や新も一緒だろう。
 完全に心が軽くなったわけではないし、心配なのは変わらない。だけど、今私にできることは何もない。

『巴は大丈夫。それよりお前、ちゃんと問題解けたか?』

 私は力なく笑って首を横に振った。
 新がせっかく話題を変えてくれたのに、上手く笑えなかった。

『そっか。まぁ、オレもあんまりだったけどな。これはもしかすると、過去最低点かもしれない』

 新が笑っている。だけどその笑顔は、無理して作っているものだった。眉尻が下がっている。
 新だって動揺していたんだ。巴が心配なんだ。
 私より巴と一緒にいる時間が長いし、私より巴を知っているだろう。心配していないはずがない。
 新には、巴が苦しんでいた声も聞こえていただろうし、きっと私より怖かったはずだ。

 私は頬を叩いて自分に喝を入れる。
 新は目を丸くして、『何してんの』と私の顔に手を伸ばした。
 その手が私の頬に届く前に、私はノートに視線を落とした。

『全然問題解けなかったけど、1つだけすこぶる自信ある問題ある』

 私はニコッと笑って、ノートを見せた。
 新は呆気に取られた表情で私とノートを見ていたが、やがてブハッと吹き出した。

『なにそれ、すこぶる自信のある問題って』

 新は可笑しそうに笑っている。
 よかった、今度はちゃんと笑ってくれている。

 私は自信のある問題を新に教えて、さらに新を笑わせた。
 明美ちゃん先生は、私の話に苦笑いしたけど、無理して貼り付けたような表情ではなかった。