昨日、文化祭のお誘いを断ったからか、なんとなく椚君に会うのが気まずかった。
 だけど屋上に行かないと、また椚君が教室までやって来そうで、気が付けば私は弁当を持って本校舎の階段を上っていた。

 途中、階段を下りて来る椚君とすれ違った。彼は1人だった。
 財布とスマホだけを持っているところを見ると、これから購買に行くのだろう。肩には紺色のブランケットを羽織っている。
 彼はすぐに私に気付いて、同じ段まで階段を下りて来た。
 スマホを操作して、画面を見せてくる。

『今日は来てくれたんだ。よかった。おれ購買に行ってくるから、先に屋上行ってて』

 頷くと、椚君はニッコリ笑って階段を駆け下りて行った。
 もし私が普通に話せたら、そんなに急がなくていいよ、とその背中に声を掛けたことだろう。

 椚君は、私と会っても、少しも気まずそうではなかった。昨日のことを気にしているのは私だけなのだろうか。
 どこか嬉しそうだった彼の顔を思い出した。

 通りすがりの生徒に不思議そうに見られ、自分が階段の途中で立ち止まっていたことに気が付いた。
 早く屋上に行こう。私は最上階まで階段を駆け上がった。

***

 しばらくして、息を切らした椚君が屋上にやって来た。
 ゆっくりでよかったのに。私がいたから、急がせてしまったのだろう。

「おまたせ」

 椚君ははっきり口を動かして言った。
 待ってないよ、という意味を込めて首を横に振る。
 彼は音声入力アプリを立ち上げた画面を私に見せながら、パクパクと口を動かした。

『今日も来てくれなかったらどうしようかと思った』

 そう言って椚君ははにかんだ。
 どうしてそんなに嬉しそうなんだろう。
 私がノートを広げると、椚君は隣に座ってノートを覗き込んでくる。ノートの隣にスマホを置いて、見やすいようにしてくれる。

『昨日のこと、気にしてないの?』
『全然』

 やっぱり気まずくなっていたのは、私だけのようだ。

『ほら、ご飯食べよ』

 椚君に言われ、ノートをわきに除けて弁当を広げ始めた。

『昨日』

 椚君が、焼きそばパンの袋を開けながら言った。

『昨日、帰り際に連絡先教えてくれたでしょ?』

 昼休みが終わる前に、連絡先を交換したのを思い出す。新と巴とも連絡先を交換していたっけ。

『それが嬉しくて、何か一言くらい送ろうかと思ったんだけど、悩み過ぎて何も送れなかったんだ』

 なんだそれ。
 椚君の話を読みながら目が点になった。

『もし今日、ここに来てくれなかったら、それを口実に連絡できるかな、なんて考えてた』

 椚君は『変だよね』と言って、恥ずかしそうに笑った。
 べつに変だとは思わないけど。不思議には思った。
 どうして連絡する口実が欲しかったんだろう。

『おれ、秋波と話すの、楽しいよ。この静かな時間が好きなんだ』

 静かな時間。
 そうだった。椚君は静かな場所が好きなんだった。
 連絡する口実を考えるくらいだから、うっかり私は彼のお気に入りにでもなってしまったのかと、勘違いしてしまうところだった。

『大丈夫。私は聞こえないからさ。話さないよ』

 声は出さないよ。だから煩くしないよ。大丈夫。

『あ、ちが、そうじゃなくて。そりゃ秋波の声を聞いてみたいし、会話してみたいとも思うけどさ。でもおれは、秋波の耳が聞こえないから秋波と一緒にいるわけじゃないよ』

 今の台詞に、感嘆符はいくつ付いただろう。
 慌てたように、早口で捲し立てているのが分かった。

『おれは秋波と話すの、面倒だとか思ってない。秋波が声を出しても、煩いと思わない自信はある。秋波のことを知りたいし、もっと話したいし、それに一緒に。一緒にいたい』

 椚君の口の動きが徐々に小さくなっていき、比例するように、彼の顔が赤くなっていく。
 私も人のことは言えない。顔が熱いのが自分でも分かる。
 椚君と屋上で初めて会った日から、1カ月近く経った。私も少しは彼を知ったつもりだ。彼が嘘をつくようなタイプじゃないことくらい、分かってきた。

『ありがとう』

 そう書くのが精いっぱいだった。
 恥ずかしさに手が震え、文字にまでそれが現れてしまった。

『あの、さ。文化祭まで、まだ時間あるし。少しだけ、考えてみてよ。それでも嫌なら、断ってくれていいから。でもおれは、秋波と一緒に文化祭に行きたい』

 椚君は、まだ顔を赤くしたまま言った。
 なんだろう。まるで告白でもされているみたいに、心臓がバクバクと脈打っている。
 私は断ることができなかった。迷惑になると分かっていたのに。
 こくりと小さく頷けば、椚君の肩から力が抜けたように見えた。

『そ、そう言えば、中間試験ももうすぐだね』
『そうだね。椚君は勉強に自信ある?』
『ない。あ、でも赤点は絶対回避する』
『すごい気合』
『赤点取ったら、兄貴にバカにされるから』

 お兄さんがいるんだ。初めて聞いた。
 私は兄弟がいないから、少し羨ましく思った。年の近い人が家にいるって、どんな感じなんだろう。
 椚君は決意の篭った目をして拳を握り締めていた。きっと今までにもバカにされたことがあったのかもしれない。

『秋波は?』
『勉強嫌いだからね。真ん中あたりだよ』
『勉強嫌いなのに?』
『明美ちゃん先生に、さんざん補習プリントやらされるから』

 私は遠い目をして、毎日出される大量の補習プリントを思い出した。
 今日も出されたのだ。あの夏休みの宿題のような束を……。

『明美ちゃん先生?』
『言ったことないっけ。特別クラスの先生だよ』
『聞いたことないね』
『最近は補習プリントばっかりだから、巴がずっと頭抱えてる』

 今日も新に『試験を消してお願いだから』と縋り付いていたのを思い出して、クスッと笑った。
 新は諦めろと言いたそうに、巴の背中を撫でていた。つられて机に突っ伏したくなった私に、明美ちゃん先生は容赦なく次のプリントを急かした。試験の度に繰り広げられる光景だ。

『佐藤先輩、そういうタイプなの? いつも飄々としてるから、何でもできそうに見えてた』
『そんなことないよ。巴も勉強苦手だから』
『三木先輩は?』
『あぁ見えて、新が一番頭いい。努力がすごい』

 椚君は、へぇ、という顔でノートを読んでいた。

『試験始まったら、早く帰れてラッキーだね』

 私は軽い気持ちでそう書いた。
 次の瞬間、それまで笑っていた椚君から笑みが消えた。固まっていたかと思うと、あからさまに肩を落とした。

『どうしたの?』
『だって、秋波と昼食べられなくなる。考えてなかった』

 そんな風にストレートに言われると、さすがに照れる。でも椚君はさっきと違って顔は赤くない。ショックのほうが大きいということなのか、別に恥ずかしくもないのか。彼の恥ずかしさのポイントが分からない。

『試験終わったら、また食べられるよ』
『ほんと? 食べてくれる?』

 私は励ますように書き足すと、椚君は嬉しそうに私を見た。
 今にも、ピンと立った耳と、激しく左右に揺れる尻尾が出てきそうだと思った。

『椚君が、そうしたいなら』
『食べたい、約束ね』

 椚君は屈託のない笑みを浮かべた。
 その笑みに心臓が跳ねたのは、ただの不意打ちだったからだ。