1つ目の弁当を平らげた頃、新が私を呼んだ。
『お前に来客』
そう言って教室の入り口を指さしている。指先を辿ると、そこには椚君が立っていた。私は驚きに目を見張って固まった。
彼は私と目が合うと、どこか安心したように笑った。
椚君はブレザーの上から、裏ボアの紺色のブランケットを羽織っていた。
『晴れだけど屋上に来なかったから。欠席かなとは思ったんだけど。なんか気になっちゃって。その、迷惑だったかな?』
私が屋上に行かなかったから、わざわざここまで様子を見に来たと言うのか。
まさかずっと屋上で私を待っていた?
慌ててノートを引き寄せると、走り書きをして頭を下げた。
『ごめんなさい』
『あ、いや、気にしないで。おれが勝手に気になっただけだから』
机の上にあった私のスマホに、文字が入力されるのが見えた。
私が行かなかったから、椚君に心配をかけてしまったようだ。罪悪感で顔が上げられない。
『顔上げてよ、秋波』
恐る恐る頭を上げると、廊下にいる椚君が焦った様子でオロオロしていた。
胸がチクリと痛んだ。
『なるほど。お前が紅弥か』
突然名前を呼ばれた椚君は、驚いたように新を見ていた。
どうして知っているんだ、と言いたそうな顔だった。
『紅弥のことは、嘉那から聞いて知ってるよー』
『そうなんですね』
椚君は私を見てから、納得したように頷いた。
『お2人が、秋波のクラスメイトの先輩方ですか?』
『まぁそうだねー。そこに立ってないで、こっちおいでー』
『えっと』
巴に手招きされ、椚君は困ったような顔をした。
『で、でも、お邪魔でしょうし』
『ご飯まだでしょ? 一緒に食べよー』
巴が、椚君が持っていた卵サンドパンとハムカツサンドパンを指さして言った。
初対面でグイグイくる2人に戸惑っているのか、椚君はどこかぎこちない愛想笑いを浮かべている。
『嘉那の机は食べ物でいっぱいだし、新の席使いなよー』
『え、そこは自分の席勧めろよ』
『嘉那に近い方が安心でしょー?』
巴が立ち上がり、未だ教室の入り口で立ち尽くしている椚君の手を引っ張って、教室に引き入れた。
巴にはあぁ言っていたけど、新はさりげなく自分の机の上を空けている。
『嘉那、その椅子貸して』
新に言われ、普段は先生用にと私の席の隣に置かれている椅子を、新と向かい合わせになる場所に移動させた。
『えっと、ありがとうございます。お邪魔します』
椚君は丁寧にそう言って、椅子に腰かけた。
私はノートを広げ、改めて謝罪の言葉を書いた。
『屋上、行かなくてごめん』
『気にしてないよ。体調、悪かった?』
そういう訳では……。
動きたくなかっただけとは、口が裂けても言えない。
『でも、なんだか元気そうでよかった』
気まずさに何も言えないでいると、椚君は私の顔を見て優しく微笑んだ。
純粋に心配してくれていた椚君の優しさに、いたたまれない気持ちになった。本当に申し訳ない。
『2人って、連絡先交換してないのか?』
新が、椚君と私を交互に見ている。
『交換してないですね。おれも、さっき思い出したんですけど』
椚君の言葉に、私も頷いた。
昼休みの屋上以外で会うこともなかったし、連絡先を交換する必要性を感じていなかったことが理由だ。彼がどう思っていたかは知らないけど。
『じゃあこれを機に交換すれば?』
新が椚君に笑いかけた。
『嘉那から返信来るのは稀だけどねー。嘉那ってかなりの機械音痴だし、入力スピードもとんでもなく遅いから』
それはもう椚君とほぼ初対面の頃にバレている情報だ。今更暴露されても恥ずかしくもない。
『あぁ、それは知ってます。見てて可愛いですよね』
『おー、本人の前なのに言うねー』
巴が椚君を冷やかしている。椚君はニコニコと笑うだけだった。
前言撤回。やっぱり恥ずかしい。
巴がニヤニヤと私を見てくる。わざと目を逸らした私は、2つ目の弁当に手をつけた。
『ところで、お兄さんは2人の出会いが知りたいなー』
さっきは新にお兄ちゃんと言って甘えていたくせに。
私と新はジトッとした目で巴を見た。
『屋上に行ったら、秋波が寝てたんです』
『それだけー?』
『初対面はそれだけです。体調悪いのかと思って、最初は焦りましたけどね。しばらく並んで座ってましたけど、予鈴が鳴ったので、寝ていた秋波を起こして教室に戻りました』
『へー。紅弥はよく屋上行くの?』
スマホ画面しか見ていないけど、会話は意外とスムーズだ。椚君は順応性があるタイプなのかもしれない。
『教室って結構うるさくて。昼休みはよく行きますね』
『一緒に騒いだりしないのか?』
『騒がしいのは苦手なんです』
チラッと見た椚君の顔は、苦笑いだった。
周りの音を全部拾ってしまうから、かなりうるさく感じる、と前に話していたのを思い出した。
『40人近くいれば、うるさくもなるよな』
肩を竦めた新に、椚君が頷いた。
私は盛り上がっている男子3人を横目にスマホの画面を消し、食べることに集中した。
***
デザートのくるみパンを食べ終えた頃、新が私の机をノックした。その指で私のスマホを指さしている。
画面のロックを解除して、音声入力アプリを立ち上げる。
『文化祭、紅弥と回って来れば?』
いきなり何の話だ。文化祭の日は休む予定だが?
それにしても、なんで巴は楽しそうなんだ。私が会話を見ていない間に、一体何があったと言うのか。
『その日は休むって言ったじゃん?』
『紅弥が軽音部って言うからさー。聞いてみたいじゃん? でも僕らは行けないから、動画撮って来てよ』
『オレも見たい』
巴がニマニマ笑っている。ただ普通に笑っているだけなら、ジト目で睨みつけたりしなかった。
新は本当に純粋な期待なんだろうけど。
『何企んでるの? 特に巴』
『名指しー。企むなんて酷いなー。紅弥の演奏が聞きたいなって思っただけだよ?』
巴のその顔は、何かを企んでいるときの顔でしかない。巴を睨みつけるが、これっぽっちも気にされていない。
椚君は困ったように私たちの様子を伺っているし、新はずっと期待に満ちた眼差しで私を見てくる。
私はわざと大袈裟にため息を吐いてやった。
『私が動画を撮れると思ってるの?』
『そこはそんな堂々と言うことでもないと思う。でも否定はしない』
新が諦めたように天井を見上げた。
ちょっとは否定してほしかった。嘉那ならできるよ、くらい嘘でも言ってほしかった。
『そもそも、私には聞こえないし』
『行ってみなよー。雰囲気は楽しめるよ、絶対』
『文化祭言ったことない人に言われてもなぁ』
『オレらに文化祭の感想聞かせて』
文化祭に興味はない。とは言え、だったら自分で行けとも言えない相手だ。断り辛い言い方をしてくるところは、策士だなと思った。
『あのさ、秋波。秋波がよかったら、一緒に回らない?』
まさか誘われるとは思っていなくて、ガバッと顔を上げる。
椚君を見てさらに驚いた。まさか、そんなに顔を赤くしているとは思っていなかったから。
私と一緒にいても、迷惑をかけるだけだ。文化祭では、雑音のせいで音声入力も機能しないだろう。いつも以上に会話がしづらくなる状況が目に浮かぶ。
それに、気の置けない友達と一緒に回った方が、椚君も絶対に楽しめると思う。
答えは決まり切っている。それなのに、頭では分かっているのに、ペンを持った手は動かなかった。
『秋波は、嫌?』
椚君の声が文字となって私に届く。
断らなきゃ。その方がいい。
新と巴には悪いけど、動画や写真は他の友人にでも頼んでもらおう。明美ちゃん先生に頼んでもいいかもしれない。
『きっと、迷惑かけるから』
私と話をするだけで、きっと普段以上に労力を使うだろうし、面倒だろう。その上、不便な状況が他にもあるかもしれない。誰かに話しかけられた時も、対応に困ることになる。
『おれは気にしない。迷惑だなんて思わない。思ってたら、誘わないよ』
椚君は悲しそうな顔をした。
その目を見ていられなくて、すぐに視線を逸らしてしまった。
『嘉那、行ってきなよー』
『そうだぞ。せっかくの青春だろ』
新と巴がそう言ってくれたけど、私は頷けなかった。
『ごめんなさい。やっぱり、私と一緒じゃ、楽しくないよ』
『そっか』
椚君は、寂しそうに弱々しく笑っただけだった。
『お前に来客』
そう言って教室の入り口を指さしている。指先を辿ると、そこには椚君が立っていた。私は驚きに目を見張って固まった。
彼は私と目が合うと、どこか安心したように笑った。
椚君はブレザーの上から、裏ボアの紺色のブランケットを羽織っていた。
『晴れだけど屋上に来なかったから。欠席かなとは思ったんだけど。なんか気になっちゃって。その、迷惑だったかな?』
私が屋上に行かなかったから、わざわざここまで様子を見に来たと言うのか。
まさかずっと屋上で私を待っていた?
慌ててノートを引き寄せると、走り書きをして頭を下げた。
『ごめんなさい』
『あ、いや、気にしないで。おれが勝手に気になっただけだから』
机の上にあった私のスマホに、文字が入力されるのが見えた。
私が行かなかったから、椚君に心配をかけてしまったようだ。罪悪感で顔が上げられない。
『顔上げてよ、秋波』
恐る恐る頭を上げると、廊下にいる椚君が焦った様子でオロオロしていた。
胸がチクリと痛んだ。
『なるほど。お前が紅弥か』
突然名前を呼ばれた椚君は、驚いたように新を見ていた。
どうして知っているんだ、と言いたそうな顔だった。
『紅弥のことは、嘉那から聞いて知ってるよー』
『そうなんですね』
椚君は私を見てから、納得したように頷いた。
『お2人が、秋波のクラスメイトの先輩方ですか?』
『まぁそうだねー。そこに立ってないで、こっちおいでー』
『えっと』
巴に手招きされ、椚君は困ったような顔をした。
『で、でも、お邪魔でしょうし』
『ご飯まだでしょ? 一緒に食べよー』
巴が、椚君が持っていた卵サンドパンとハムカツサンドパンを指さして言った。
初対面でグイグイくる2人に戸惑っているのか、椚君はどこかぎこちない愛想笑いを浮かべている。
『嘉那の机は食べ物でいっぱいだし、新の席使いなよー』
『え、そこは自分の席勧めろよ』
『嘉那に近い方が安心でしょー?』
巴が立ち上がり、未だ教室の入り口で立ち尽くしている椚君の手を引っ張って、教室に引き入れた。
巴にはあぁ言っていたけど、新はさりげなく自分の机の上を空けている。
『嘉那、その椅子貸して』
新に言われ、普段は先生用にと私の席の隣に置かれている椅子を、新と向かい合わせになる場所に移動させた。
『えっと、ありがとうございます。お邪魔します』
椚君は丁寧にそう言って、椅子に腰かけた。
私はノートを広げ、改めて謝罪の言葉を書いた。
『屋上、行かなくてごめん』
『気にしてないよ。体調、悪かった?』
そういう訳では……。
動きたくなかっただけとは、口が裂けても言えない。
『でも、なんだか元気そうでよかった』
気まずさに何も言えないでいると、椚君は私の顔を見て優しく微笑んだ。
純粋に心配してくれていた椚君の優しさに、いたたまれない気持ちになった。本当に申し訳ない。
『2人って、連絡先交換してないのか?』
新が、椚君と私を交互に見ている。
『交換してないですね。おれも、さっき思い出したんですけど』
椚君の言葉に、私も頷いた。
昼休みの屋上以外で会うこともなかったし、連絡先を交換する必要性を感じていなかったことが理由だ。彼がどう思っていたかは知らないけど。
『じゃあこれを機に交換すれば?』
新が椚君に笑いかけた。
『嘉那から返信来るのは稀だけどねー。嘉那ってかなりの機械音痴だし、入力スピードもとんでもなく遅いから』
それはもう椚君とほぼ初対面の頃にバレている情報だ。今更暴露されても恥ずかしくもない。
『あぁ、それは知ってます。見てて可愛いですよね』
『おー、本人の前なのに言うねー』
巴が椚君を冷やかしている。椚君はニコニコと笑うだけだった。
前言撤回。やっぱり恥ずかしい。
巴がニヤニヤと私を見てくる。わざと目を逸らした私は、2つ目の弁当に手をつけた。
『ところで、お兄さんは2人の出会いが知りたいなー』
さっきは新にお兄ちゃんと言って甘えていたくせに。
私と新はジトッとした目で巴を見た。
『屋上に行ったら、秋波が寝てたんです』
『それだけー?』
『初対面はそれだけです。体調悪いのかと思って、最初は焦りましたけどね。しばらく並んで座ってましたけど、予鈴が鳴ったので、寝ていた秋波を起こして教室に戻りました』
『へー。紅弥はよく屋上行くの?』
スマホ画面しか見ていないけど、会話は意外とスムーズだ。椚君は順応性があるタイプなのかもしれない。
『教室って結構うるさくて。昼休みはよく行きますね』
『一緒に騒いだりしないのか?』
『騒がしいのは苦手なんです』
チラッと見た椚君の顔は、苦笑いだった。
周りの音を全部拾ってしまうから、かなりうるさく感じる、と前に話していたのを思い出した。
『40人近くいれば、うるさくもなるよな』
肩を竦めた新に、椚君が頷いた。
私は盛り上がっている男子3人を横目にスマホの画面を消し、食べることに集中した。
***
デザートのくるみパンを食べ終えた頃、新が私の机をノックした。その指で私のスマホを指さしている。
画面のロックを解除して、音声入力アプリを立ち上げる。
『文化祭、紅弥と回って来れば?』
いきなり何の話だ。文化祭の日は休む予定だが?
それにしても、なんで巴は楽しそうなんだ。私が会話を見ていない間に、一体何があったと言うのか。
『その日は休むって言ったじゃん?』
『紅弥が軽音部って言うからさー。聞いてみたいじゃん? でも僕らは行けないから、動画撮って来てよ』
『オレも見たい』
巴がニマニマ笑っている。ただ普通に笑っているだけなら、ジト目で睨みつけたりしなかった。
新は本当に純粋な期待なんだろうけど。
『何企んでるの? 特に巴』
『名指しー。企むなんて酷いなー。紅弥の演奏が聞きたいなって思っただけだよ?』
巴のその顔は、何かを企んでいるときの顔でしかない。巴を睨みつけるが、これっぽっちも気にされていない。
椚君は困ったように私たちの様子を伺っているし、新はずっと期待に満ちた眼差しで私を見てくる。
私はわざと大袈裟にため息を吐いてやった。
『私が動画を撮れると思ってるの?』
『そこはそんな堂々と言うことでもないと思う。でも否定はしない』
新が諦めたように天井を見上げた。
ちょっとは否定してほしかった。嘉那ならできるよ、くらい嘘でも言ってほしかった。
『そもそも、私には聞こえないし』
『行ってみなよー。雰囲気は楽しめるよ、絶対』
『文化祭言ったことない人に言われてもなぁ』
『オレらに文化祭の感想聞かせて』
文化祭に興味はない。とは言え、だったら自分で行けとも言えない相手だ。断り辛い言い方をしてくるところは、策士だなと思った。
『あのさ、秋波。秋波がよかったら、一緒に回らない?』
まさか誘われるとは思っていなくて、ガバッと顔を上げる。
椚君を見てさらに驚いた。まさか、そんなに顔を赤くしているとは思っていなかったから。
私と一緒にいても、迷惑をかけるだけだ。文化祭では、雑音のせいで音声入力も機能しないだろう。いつも以上に会話がしづらくなる状況が目に浮かぶ。
それに、気の置けない友達と一緒に回った方が、椚君も絶対に楽しめると思う。
答えは決まり切っている。それなのに、頭では分かっているのに、ペンを持った手は動かなかった。
『秋波は、嫌?』
椚君の声が文字となって私に届く。
断らなきゃ。その方がいい。
新と巴には悪いけど、動画や写真は他の友人にでも頼んでもらおう。明美ちゃん先生に頼んでもいいかもしれない。
『きっと、迷惑かけるから』
私と話をするだけで、きっと普段以上に労力を使うだろうし、面倒だろう。その上、不便な状況が他にもあるかもしれない。誰かに話しかけられた時も、対応に困ることになる。
『おれは気にしない。迷惑だなんて思わない。思ってたら、誘わないよ』
椚君は悲しそうな顔をした。
その目を見ていられなくて、すぐに視線を逸らしてしまった。
『嘉那、行ってきなよー』
『そうだぞ。せっかくの青春だろ』
新と巴がそう言ってくれたけど、私は頷けなかった。
『ごめんなさい。やっぱり、私と一緒じゃ、楽しくないよ』
『そっか』
椚君は、寂しそうに弱々しく笑っただけだった。