文化祭の前に、中間試験がある。地獄だ。
 今回も余裕の顔をしている新は、巴に付きっきりで勉強を教えていた。

『新、ねぇ新。お願いだから試験を抹消して欲しい』

 スマホの画面に入力される文字に、私は全力で同意したい。
 さっきから中々進まない化学のワークに目を落とす。
 もうこのまま机に突っ伏して寝てもいいだろうか。

『秋波さん。ほら、次の問題解いて』

 明美ちゃん先生は容赦がない。トントンとワークを叩き、次の問題を急かす。もはや問題文を読むのも億劫だ。

『巴。ほら、次の問題解いて』

 新も容赦がないみたい。
 私と巴は、お互い大変だね、と視線で慰め合った。

 試験はもちろんこの教室で受ける。
 2年と1年では、試験内容は違うけど。それで困ることは、「あの問題解けた~?」「分かんなかった~」「だよね~」のやり取りができないことくらいだ。

 通常クラスのほうも、今はほとんど自習時間になっているはずだ。
 タブレットで授業の様子を見ることはないが、以前見たときは大抵の人が遊んでいるだけだった。

『秋波さん。手止まってるわよ。まだまだワークも補習プリントもたくさんあるからね』

 この前の宿題と化した補習プリントより、はるかに多いプリントが教卓に積まれている。
 高校受験の過去問を彷彿とさせた。
 私は補習プリントの山に、涙が出そうになった。
 もうやだ……。

***

 4時間目までみっちり勉強をさせられた。授業時間だし、それが普通なのだけれど。
 授業が終わってからも、私と巴は動く気力も出ず、机に突っ伏していた。
 午後からもこんな地獄が続くのかと思うと、今すぐにでも帰りたくなった。

 とりあえずお腹が空いた。でも動きたくない。リュックから弁当出すのも面倒。でもお腹は空いた。
 空腹と面倒くささに挟まれていると、誰かに肩を叩かれた。頭だけ動かすと、新の手が引っ込んでいくところだった。
 新が口を動かして何か言っているところだった。私は音声入力アプリを立ち上げたままの自分のスマホを見た。

『行かなくていいのか? 屋上』

 そうだった、今は昼休みだった。頭の中で数学の公式が飛び回っているせいで、すっかり忘却していた。
 最近は、約束しなくても屋上で昼ご飯を食べるのが習慣になっていた。私と椚君の中でそれが暗黙の了解のようになっている。雨の日は行かないことも、暗黙の了解。

『今日は晴だぞ』

 2人の暗黙の了解は、新と巴にも筒抜けだ。ついでに明美ちゃん先生にも知られている。
 それでも今は動きたくない。勉強にどっと疲れた。
 まだまだ補習プリントが残っていると思うと、さらに気が滅入る。考えただけで頭痛が……。

『どうした? 体調悪いのか?』
『うごきたくない』

 私はミミズのような字で、ノートの隅っこに今の心境を書いた。

『もう漢字すら書けなくなってんじゃん』

 新がノートを覗き込んで笑った。

『巴も大丈夫か?』
『無理』

 巴が即答した。
 逆に新はどうしてそんなに余裕なのか知りたい。
 私だって、1学期の最初の頃はまだ余裕があった。特に中間試験なんて、中学までの復習のようなものばかりだ。それが少しずつレベルが上がってきて、授業が遅れ始めた。
 勉強が好きではない私は、提出物をやる気力も湧いてこなくなっていた。

 それに比べて、ワークをとっくに終わらせている新は、学校では補習プリントしかやることがない。巴に勉強を教えながらのくせに、一番プリントが減っている。
 そうか、これが普段から頑張っている者の余裕ということか。

『ま、あんだけ勉強したら疲れるよな。昼飯食って、リセットしようぜ、な?』

 新が私のリュックから弁当と水筒を出してくれる。ついでに今日のおやつも出してくれる。

『ほらほら、お祖母ちゃんが作ってくれた弁当だぞー? それに今日のデザートはくるみパンなんだろ?』

 新が甲斐甲斐しくお世話をしてくれる。
 もうそのまま食べさせて。

『ちょっと職員室行ってくるわね。ご飯はちゃんと食べるのよ?』

 私たちのやり取りを見ていた明美ちゃん先生が、笑いながら教室を出て行った。

『もう補習プリントは持ってこないでねー』

 巴のその言葉には、明美ちゃん先生からの返事はなかった。
 スマホが拾わなかっただけかと思ったが、本当に返事がなかったみたいだ。『スルーされたー』と唇を尖らせていた。

『巴もほら、起きろって。ご飯食べようなー』
『お兄ちゃーん』
『それでいいのか。お前のほうが年上だぞ一応』
『お兄ちゃん食べさせてー』

 あ、巴ズルい。
 新は巴のスクールバッグから弁当を出す。丁寧にそれを机の上に広げた。

『あとは頑張れ』
『期待させといてずるーい』
『食わしてやるとは言ってない』
『新ってば、嘉那に対してのほうが優しくない? 弟にも優しくしてよー』
『年上の弟がいてたまるか』
『同級生だよー?』

 巴がしらばっくれた。新が大袈裟にため息を吐いている。
 新は最後に自分のリュックから弁当を出した。

 私もご飯食べないと。分かっていても、屋上の遠さに動く気力が出ない。
 一緒に食べようと約束したわけでもないし、行かなくても別にいいと言えばいいのだろうけど。ただ習慣になっていただけに、後ろめたさはある。
 今からでも、雨が降ってくれないだろうか。
 うじうじと迷いながら、新が出してくれた弁当を引き寄せた。

『結局お前はここで食うのね』

 さっき書いた『うごきたくない』の文字を指さした。新はただ苦笑しただけだった。

『紅弥、教室に来てくれたりしないかなー』

 巴が期待したように目を輝かせている。
 そんなことあるはずない。きっと今頃、椚君は久しぶりに誰もいない屋上でのんびりしているんじゃないだろうか。そもそも、うるさい場所が苦手だからと言う理由で、静かな屋上に来ていたわけだし。
 ここ最近は私がいたせいで、あまりのんびりできていなかっただろう。そう考えたら、私はどれだけ椚君の邪魔をしてたのか……。椚君がせっかく1人になれる時間だったのに。
 せめて今日は静かな時間を満喫できていたらいいな、と思いながら弁当袋の紐をほどいた。