教室に戻ると、巴と新が腕を水平に動かして、「セーフ」と笑った。
 どうやら間に合ったようだ。
 自分の席に着くと、真っ先にスマホ画面を開き、音声入力アプリを起動した。
 すぐに誰かの声をスマホが拾う。

『屋上デート、どうだったー?』

 スマホが拾った声は、巴のようだ。
 私はノートを広げ、ペンを走らせる。

『デートじゃないけど、楽しかったよ』
『またまたー』

 何が?
 巴はやたらとご機嫌だった。恋バナがしたいことだけは分かるけど、私の昼休みをネタにしないでもらいたい。
 私はワザと話題を変えた。

『明美ちゃん先生は?』
『まだ職員室から戻ってきてない。たぶんもうすぐ戻って来るだろ』

 新が教えてくれた。
 その直後、明美ちゃん先生が教室に駆け込んできた。顔をしかめているのは、まだ二日酔いの頭痛が消えていないせいかもしれない。
 新と巴が、私にやったように腕を水平に動かした。
 本鈴には間に合ったらしい。

『お待たせ。あ、ちょうど鳴ったわね。それじゃあホームルームを始めるわよ』

 ホームルーム……。
 そう言えば、今日の午後はずっとホームルームなんだっけ。すっかり忘れていた。
 でもそれより気になるのは、明美ちゃん先生が教卓に置いた大量のプリントだった。

『さて、ここにたくさんの補習プリントがあります』
『鬼だ。悪魔だ』
『嘘だー』

 新と巴が、語尾に感嘆符を付ける勢いで抗議の声を上げる。
 今日の午後は本来、11月の頭に開催される文化祭の決め事をする時間らしい。このクラスで出し物をすることはないから、この時間はすることがなくなるわけで……。明美ちゃん先生はこの空いた時間を、自習時間にしようとしているのだと簡単に気付けた。

『遊びたい』

 新が机をバシバシ叩いている。

『ダメよ。ダメじゃないわ。そうね。三木くんはそれでもいいかもしれない』

 新は努力ができるタイプだから、それほど授業は遅れていない。頭も良いし、この補習プリントだって一番に片付けられることだろう。
 授業が遅れているのは、私と巴だけ。

『三木くんは遊んでいいわ』
『え、明美ちゃん先生ちょっと待って。1人で遊ぶのは嫌すぎるんだけど』

 新は切なそうな顔をしていた。
 新の向こうで、巴が元気よく手を上げた。

『僕も遊びたいでーす』
『これ以上授業が遅れたら、最下位になるわよ?』
『もうなってるよ?』

 明美ちゃん先生は巴からスッと目を逸らした。
 巴が人を論破できる日が来るなんて……。しかもその瞬間を見られるだなんて、もはや奇跡。
 そんな失礼なことを考えていると、助けを求めるような目で私を見ていた明美ちゃん先生と目が合った。
 口がパクパクと動き、私は先生からスマホに視線を移した。

『秋波さんはいい子だもんね。お勉強、するわよね?』

 私はさっきの先生と同じように、そっとスマホから目を逸らした。
 できるなら勉強なんてしたくない。
 教卓の上にあるプリントは、縦と横に交互に積まれていて、1つの厚さが1センチくらいはありそうだ。夏休みは終わったのではなかったか、と錯覚するほどには分厚い。
 私がスマホ画面から目を逸らし続けていると、机の前に明美ちゃん先生がしゃがんだ。強引に目線を合わせようとしてくる。

「……」

 パクパクと何か言っている。
 私はつい、いつものクセでスマホ画面を見てしまった。

『今やると、今週の宿題減るわよ?』

 宿題が……減る? それはつまり、そのプリントの束が宿題になる予定だということではあるまいな?
 私は呆然として明美ちゃん先生を見る。先生は、二日酔いの気だるさなど消して、悪魔の微笑みを湛えていた。

『明美ちゃん先生、まさか』
『え、それって結局オレも宿題増えるってことでは?』

 何かを察した巴と新。
 私たちは一瞬でお通夜ムードになった。

『補習プリントする気になった?』

 明美ちゃん先生が満面の笑みを浮かべ、私たちはただ頷くことしかできなかった。先生は嬉しそうに補習プリントを配った。

 勉強のできる新は、スラスラと答えを埋めていく。
 その目に光はなかったが、5時間目が終わるころには、半分のプリントが消えていた。
 それに比べて、私と巴は頭を抱えるばかりだった。
 5時間目が終わるころには、僕のほうが進んだ、私のほうが進んだ、と、どんぐりの背比べをした。

『今頃、本校舎はワイワイしてんだろうなー。いいなー』

 新が机に右頬を押し付けて言った。
 きっと、羨ましそうな声で喚いたことだろう。
 私は新の机をコツコツとノックして、ノートを横向きに見せた。

『文化祭、参加したことある?』
『オレはない。車椅子だし、廊下、邪魔になるだろ。それに、上の階は見に行けないしな』

 新がなんてことないように笑って言った。
 たしかに、エレベーターのない校舎で文化祭に回るのは大変かもしれない。

『何の話ー?』

 私たちの会話に気付いた巴が、新の向こうからノートを覗いた。

『あー、文化祭かー。1回目の1年のときはその辺りで入院してたし、去年もその日は体調崩してたねー』

 この時期は季節の変わり目だし、巴としては体調を崩しやすいのかもしれない。

『巴って、人混みは大丈夫なの?』
『どうだろうねー。そもそも人混み行くことないからなー』
『文化祭、気になるのか?』

 新が体を起こした。

『いや、そんなに』

 文化祭に興味があるわけじゃない。
 ただ私たちが補習プリントに苦労している間、通常クラスはどれだけ楽しんでいるのだろうと、捻くれたことを思っただけだ。

『あ、そうだー。文化祭デートしないの?』

 こいつ、どこからでも恋バナにしやがる……。
 私はもう否定もツッコミも諦めることにした。椚君に迷惑かからなければ、もうなんでもいい。

『そんなことより、2人は今年も文化祭行かないの?』
『わー、スルーされたー』

 言葉のわりに、嫌そうな顔はしていない。いつもの飄々とした態度で笑っていた。

『オレは休む予定』
『僕もかなー。でも体調は崩さずに休みたいよねー』

 新も巴も文化祭は来ないのか。
 文化祭の日なんて絶好の補習日和なのでは? と思うけど、2人の話を見ると補習もないのかな。
 そう思って訊ねると、ずっと私の隣に座っていた明美ちゃん先生が話しに入ってきた。

『文化祭の日は、授業はないわよ。このクラスだけ補習ってこともないわ。もちろん文化祭を回るために来てもいいけど。そもそも、この教室で補習なんてできっこないけどね』

 そこまで言って、明美ちゃん先生は苦い顔をした。
 言葉を選んでいるのか、黙っている明美ちゃん先生に代わり、新が口を開いた。

『人通り多くなるし、この教室にいると変に注目集めるかもよって話。文化祭に参加しないなら、休んだ方がいいぞ。欠席扱いにはなるけど』

 皆勤賞を狙っているわけでもないし、休むのは別に構わない。
 たしかに何も知らない人からすれば、この教室に私たちがいたら気にもなるか。

『まぁ、そういうことよ』

 明美ちゃんが諦めたように笑った。
 だったらやっぱり、私も休むことになるのだろうか。他人事のように考えていると、新が私の目の前で手をヒラヒラと動かした。

『文化祭、やっぱ気になる?』

 ぼーっとしていたからか、また訊かれてしまった。違う、と首を横に振って否定した。

『チャイムが鳴ったわ。ほら、補習プリントの続き、頑張んなさい。やったら宿題減るわよ』

 明美ちゃん先生に言われ、私たちは不貞腐れながら補習プリントと向き合った。