本校舎の屋上に来たのは、ただの気まぐれだった。
 夏休みも明けたし、高校にも慣れてきたし、ずっと教室の中にいるし。たまには気分転換に外に出てみようと思った。
 でも失敗だったかもしれない。9月とは言え、まだ暑い。

 日陰でも暑いけど、ときどき吹いてくる風は心地いい。食後であることも相まって、眠たくなってきた。
 そのまま睡魔に負けそうになっていたとき、誰かに体を揺さぶられた。

 誰だろうと、重たい瞼を持ち上げる。目の前には見たことのない人物が立っていた。
 第一ボタンを開け、ネクタイを少し緩めている男の人だった。
 制服を着ているから、学生であることは分かる。だけどうちの高校は、体操服の色以外に学年を示すものがないため、相手が何年生だか分からない。

 私は欠伸を噛み殺しながら、相手の男子生徒を見上げた。
 何の用だろうと訊ねる意味を込めて、首を傾げた。

「……」

 早口なタイプの人なのか、何と言ったか分からなかった。表情からして、焦っているだけなのかもしれないが。
 もう一度首を傾げると、彼は私に顔を近づけ、今度はゆっくり口を動かしてくれた。

「大丈夫?」

 どうやら屋上で寝そうになっていたから、心配されてしまったようだ。
 私はこくりと頷いた。
 目を擦り、顔を隠して欠伸をする。
 とても眠い。このあとに午後の授業が控えていると考えるだけで帰りたい、と思うくらいには眠い。

「……」

 また何か言われたけれど、寝ぼけているせいもあるのか、よく分からなかった。
 彼は私の隣を指さしていた。ここに座りたいということだろうか。

 私は置いていた弁当を、反対の壁際に移動させてから、小さく頷いた。
 私はこの高校に入学して初めて屋上に来たけれど、もしかするとここは彼の特等席だったのかもしれない。となると、私がここにいるのは邪魔かな。
 教室に戻ろうかと思ったものの、体が動かなかった。まだ眠い、動きたくない、と訴えていた。

 私はフェンスに背中を預け、瞼を閉じる。
 一瞬で意識が落ちそうになる。
 だめだ。このままでは本気で寝てしまう。それはつまり次の授業の遅刻が確定するわけで……。
 先生に怒られてしまうな、と他人事のように考え、睡魔に抗うのを諦めた。

***

 体を揺さぶられている。
 誰だろう。
 徐々に意識が浮上し、瞼越しの眩しさに目を固く閉じた。

 うっすら片目を開けると、焦った顔が近くにあった。
 誰だろう。どこかで見たことある気が……と考え、さっきの男子生徒さんだと気が付いた。
 その表情はかなり狼狽えている。

「起きて!」

 彼が大きく口を動かしたおかげで、今回は1回で何と言ったのか分かった。
 彼は早口で何か言いながら、腕時計を指さしている。

 まだ覚醒しきらない頭で、彼の腕時計を覗き込んだ。文字盤が反対で見にくい。
 それに気が付いた彼が、腕を捻って見やすいようにしてくれた。

 授業の開始は1時40分。その5分前には予鈴が鳴る。そして時計の長針は37分を指していた。
 予鈴はすでに鳴り終えている時間だった。つまりこのままでは次の授業に遅刻だ。
 状況を把握した私は、一気に目が覚め、慌てて立ち上がった。
 起こしてくれたお礼と、時間を教えてくれたお礼の意味を込めて、彼に深々と頭を下げた。

 彼はとんでもない、と左右の手を振って笑っている。
 自分も時間ギリギリだろうに。いい人だ。
 私たちは急いで屋上を飛び出した。

 彼は3階で足を止めた。
 なるほど、多少時間がギリギリになっても、教室は近いのか。
 3階ということは、1年生だ。

 私は彼に小さく頭を下げると、さらに階段を駆け下りた。
 急がなければ。明美(あけみ)ちゃん先生に怒られてしまう。

 2階は2年生の教室。1階は3年生の教室。
 私はそのどこでも足を止めなかった。
 学年の教室がある本校舎を飛び出し、渡り廊下で繋がっている教科棟へ駆けこむ。

 教科棟は、音楽室や美術室、家庭科室、実験室なんかの特別教室が入ってる校舎だ。
 教科棟の1階の奥にある多目的室が、私の通う特別クラス。

 教室に駆け込んだ瞬間、クラスメイトが腕を水平に動かし、セーフと教えてくれた。どうやら間に合ったらしい。
 チラッと教壇を見ると、呆れた顔を隠しもしない先生と目が合った。

 (みなと)明美先生。お酒が大好きな、特別クラスの先生だ。通称、明美ちゃん先生。
 ミディアムヘアの毛先を巻いていて、メイクもばっちり。オシャレには手を抜かない人だ。

 先生はスマホを出すと、そこに向かって何かを喋る。
 その画面を見せられ、私は教卓に近づいた。

秋波(あきなみ)さん。またスマホ置いてったでしょ』

 ビクッと肩を震わせて顔を上げると、先生はジトっとした目で私を見ていた。
 先生がさらに口をパクパクと動かすと、スマホに文字が入力された。

『チャイム聞こえないんだから、時間が分かるものくらい持ちなさい』

 私は自分の席に行き、机に置きっぱなしだったノートをパラパラとめくった。
 新しいページを開くと、『すみません』と書き込み、先生に見せた。

『次はちゃんと持っていくのよ』

 どうせ持って行かないんでしょうけど、と言いたそうな顔で言われてしまった。
 私はヘラヘラと笑って頭をかいた。

『まったく。他人事じゃないんだからねー』
『はーい』

 席に着くと、視界の端でヒラヒラと何かが揺れるのが見えた。
 クラスメイトの(あらた)の手だった。
 三木(みつき)新は2年生で、生まれつき足が悪く、車椅子で生活をしている。
 車椅子で自分のクラスまで上がれないから、ここに登校している。
 制服はきっちり着るタイプ。
 このクラスのムードメーカーでもあり、お兄ちゃん的存在だ。私がこの教室に馴染めたのは、新がいてくれたおかげ。

 私は机に置きっぱなしだったスマホ画面を開き、音声入力アプリを起動する。
 その様子を見ていた新が、口をパクパクと動かした。

『屋上、楽しかったか?』

 私は笑顔で頷いた。
 ノートに、『いい感じの昼寝場所を見つけた』と書いて見せる。

『屋上で寝てたの? よく起きれたねー』

 私が読み終わるのを見計らって、新がもう1人のクラスメイトである(ともえ)を指さした。
 巴が言ったってことか。
 私は巴のほうを見て頷いた。

 新と同じ2年生の佐藤(さとう)巴は、1年の時に留年しているから、年は3人の中で一番上だ。
 生まれつきの心臓の病で、1年の時に体調が悪化したせいで長期入院。それで出席日数が足りなくなったらしい。
 いつも飄々としていて、掴みどころのないイケメン。音声入力アプリに入力される文面を見るに、間延びした話し方をする人だと思う。
 制服は、どうせこのクラスの人以外は見ないから、と着崩すタイプ。ネクタイすら付けない。明美ちゃん先生はネクタイくらい付けなさいとは言うものの、そこまできつく注意するのは諦めているらしい。

『ちょっと、ひとりで起きれない場所で寝ないでよ?』

 新も巴も喋っていないのに、文字が入力された。
 新が教卓のほうを見る。声の主は明美ちゃん先生らしい。

『気を付けます』

 私が先生にノートを見せていると、新に肩を叩かた。その手が私のスマホを指さしている。

『ほんとに1人で起きたの?』

 巴が口を動かす。動きが止まってから、スマホに入力された文字を読んだ。
 私はノートの新しいページにペンを走らせた。

『たまたま屋上に生徒がいて、起こしてくれた。予鈴が鳴ったのも教えてくれたよ』
『なるほど。男かー?』

 巴は突然楽しそうな笑みを浮かべて訊いてきた。
 頷くと、『ふーん』と返された。
 なんでニヤニヤしてるのか気になるところだが、触れないほうがいい気がした。

 私は1年だけど、新と巴とは上下関係はない。むしろ同級生の友人のような関係だ。
 耳が聞こえない私は、通常クラスで授業を受けるのが難しいため、ここに通っている。
 ちなみに制服は、第一ボタンくらいは開けるけど、概ねきっちり着るタイプ。

 生徒はこの3人。先生は明美ちゃん先生1人。これが特別クラスの全員。
 黒板に向き合うように窓際から私、新、巴の席が少しカーブを描いて並んでいるだけの、簡素な教室が私の居場所だ。

『チャイム鳴ったわよー。授業よー』

 明美ちゃん先生の言葉で、授業が始まった。