高灯台に点けられた火の明かりだけで照らされた清涼殿(せいりょうでん)
 薄暗い中では満ちてきた月の方が明るいと、弧月は弘廂(ひろびさし)に出て龍笛を奏でていた。
 軽やかでありながら迫力のある音色は、正に笛の名の由来となった龍の鳴き声のように夜の内裏に響く。
 感情のまま吹き鳴らした弧月は、待宵月を見上げてため息をついた。

(また月が一巡りしてしまったな……)

 この三か月、月を見上げるたびに考える。自ら連れて来た唯一の妻に会わずにいた期間を。
 毎日花を届けてもらっている時雨から元気にしているという話は聞いているし、小夜からも手習いの進捗など報告を受けている。
 穏やかに過ごしているようで良かったと思うが、その様子を自らの目で確かめられないことをもどかしく思ってもいた。
 儚げな美しさを持つ黒髪黒眼の人間の娘。多くいる平民の一人でしかない彼女を見つけたのは、偶然かはたまた運命か。

 碧雲の一派が怪しい動きをしていると聞いて、お忍びで大門の辺りを視察しているときに火事が起きた。
 火の回りの速さを見ても、火と風の力を操る碧雲らが放ったものに違いはないだろう。
 幸い自分と時雨がいたので人的被害は抑えられたが……。

 そんな火の海となった門付近で美鶴を見つけたのはやはり運命だったのだろうか。
 逃げ惑う平民たち、騒然とした火の中。たまたま見た方向に彼女はいた。
 多くの者が逃げ惑う大通りより離れた場所。小路の先に見つけた娘が今にも火のついた柱に押しつぶされそうになっているのを見て、考えるよりも先に体が動いた。

 駆けつけるのが間に合わないと見て取って、迷わず力も使った。
 助けた娘はみすぼらしいなりをしていたが、可愛らしい顔立ちをしていたし平民にしては粗雑な雰囲気がない。
 すぐに娘――美鶴に興味を持った。

 詳しい話を聞いて、珍しい異能持ちという事もあり自分の妻にしようと即決したのはすでに美鶴に惹かれていたからだろう。
 頭を撫でただけで恥ずかし気な表情をする彼女を可愛らしいと思った。
 牛車の中で戯れのように触れ合ったときも、腕の中に納まる小さな体に愛しさが込み上がり切なげな思いを抑えられなかった。

 美鶴が戸惑っているのを理解してはいたが、愛しいと思う娘の存在を確かめたくて抱き締めた。
 そのまま口づけたくなったが、こんなところで取って食ったりしないと言ってしまった手前抱き締める以上のことをするわけにもいかない。
 内裏に着いたら、と言い聞かせなんとか自制したのだ。

 その後内裏に着いて一度別れるときも名残惜しく、これほど一人の娘に執着する自分に内心戸惑いを覚えていた。
 だが、沸き上がる思いは止めどなく……妻となる娘の存在をもっと近くに感じたかった。

 身だしなみを整え小綺麗にした美鶴は思っていたより美しく、その謙虚さに更なる愛おしさで胸が詰まった。
 引き寄せられるように肌に触れ、彼女のすべてを求めた。
 無垢な美鶴はただただ可愛らしかったし、守りたいと思ったのだ。

 だから、こうして会わずに過ごしている。

 異能持ちとはいえ平民の人間である美鶴を妖帝の妻にするなどあり得ない。それならばたとえ子が出来ずとも自分の娘も妻として受け入れろとうるさい者もいる。
 子も出来ぬのに、寵を競うだけの姫を後宮に置くつもりなど無い。
 だから、美鶴はあくまでその能力を買って妻に据えたのだと見せる為にも頻繁に会いに行くことは出来なかった。

 臣下達の不満が悪意として美鶴に向かないためでもある。
 だが、ひと月経ったら……ふた月経ったら……と思っていても、周囲の厳しい目が中々弱まらずもう三か月が経とうとしている。

(美鶴は今どうしているのか……)

 同じ内裏の中にいても会いに行くことが叶わぬ妻を思い、深くため息を吐いた。

「……どうしました? ため息なんか吐いて。恋煩いですか?」

 そう言って宵闇から現れた時雨をじろりと睨む。
 近くに来ているのは分かっていたが、はじめにかける言葉がそれとは……。

「……否定はせんよ」

 もう一度、今度は諦めのため息を吐き答える。

「おや? 今夜は素直だな? そろそろ本当に限界が近いか?」

 断りもなく隣に座った時雨は軽く驚き笑った。
 口調も気安いものに代わり、弧月は許していないのだが……と少々不機嫌に眉を寄せる。

「美鶴様もそれくらい素直になればいいのに……いや、素直であれなのか。手強いな」
「ん? 何かあったのか?」

 今まさに思っていた者の名が出て、つい聞いてしまう。
 それをからかって来るかと思った時雨は、しかし困り笑顔を浮かべ肩を落として見せた。

「好いた女に会うのも我慢しているお前がいじらしくてね。彼女の方から『会いたい』と言ってもらえれば会いに行く口実になるかと思い聞いてみたんだよ」
「は?」

(こいつは何を勝手に)

 いじらしいなどと思われていたこともそうだが、勝手なことをする時雨に少し苛立つ。
 しかもあえてはっきりさせずにおいたというのに、美鶴を好いた女だと言ってのけた。
 それを否定出来ない以上、弧月は彼女を好きだと認めることしか出来ない。

「でも美鶴様はお会いしたいなど畏れ多いと言うばかりで……今のままで幸せだと言うんだ。本当に手強い」

 弧月の苛立たし気な様子を気にも留めず残念そうに続ける時雨。
 それを鼻で笑った弧月は、同時に今でも変わらぬ謙虚な愛らしさを持つ美鶴を愛おしいと思った。

「その謙虚さも、好ましいと思っているところだからな」

 そう簡単に時雨の思うようになるものか、と軽く嘲笑してやる。
 だが、時雨はそんな弧月の態度を気にも留めず、何かを思い出したかのように「くっ」と笑いを堪えて見せた。

「なんだ?」
「いや、少し今朝のことを思い出して……」

 くっくっく、と大きく笑いだしたいのを堪える様子に弧月はまた不機嫌になる。
 美鶴のことを話していて今朝のことというならば、毎朝ご機嫌伺いと称して自分の代わりに花を届けに行ってもらっているときのことだろう。
 時雨の様子に自分の知らない美鶴の姿を思いあからさまに顔を(しか)めた。

「なんだ? 何があった? 話せ」

 なにがなんでも聞き出してやろうと凄むと、「嫉妬か?」と目じりに涙を溜めた状態で問われる。

「ああそうだ。俺の知らない美鶴の姿を他の男が知っているというだけでその男をくびり殺したくなる」
「……冗談だよな?」

 流石に本当に殺したりなどしないが、それくらいの嫉妬心は実際にある。
 それを感じ取ってか、時雨は笑いも引っ込めてごくりとつばをのみ込んだ。

「口止めされてたんだが、妖帝に本気で命令されては致し方ないよな?」

 そう言って話された内容に、流石の弧月も目を瞬かせる。

「狸……」
「な? 面白いだろう?」

 話しているうちに今朝のことを思い出したのか、またくっくっと肩を揺らす時雨。
 それを軽く睨んでから、弧月は美鶴へと思いを馳せた。

 歌の良し悪しなどどうでも良い。
 自分の歌に返歌をしたためたいと思っていてくれたことが嬉しい。
 元は平民で、まともに歌を詠んだこともないだろう。
 文字すら読めず、今もまだ勉強中というところだ。
 返歌など、いずれもらえればそれで良いと思っていたというのに。

「面白いというより可愛らしいだろうが。狸も、上手な返歌をしたためたいという思いも」
「……」

 正直な思いを口にすると、笑いを堪えていた時雨はぴたりと止め何とも言えない微妙な表情をこちらに向けた。

「なんだ?」
「いや、お前なら可愛らしいと言いそうだなと思ったが……本当に言うとはと思ってな」
「……」

 今度は弧月が黙り微妙な顔をする。
 意見を変える気は無いが、時雨に見透かされているというのもいい気はしない。

 そのまま黙り込んでいると、時雨は気安い友の顔になり口を開いた。

「あとは美鶴様がお前に『会いたい』と言ってさえくれれば、妻の望みを叶えるという名目ですぐにでも会いに行けるだろうに」
「……謙虚なのも、美鶴の良いところだ」

(だが、そうだな……)

 美鶴が会いたいと一言口にすれば、きっと自分は何を置いてでも彼女の元へ行くだろう。
 おそらく自分は、それほどに美鶴への想いを抑え込んでいるのだ。

 無数の糸を使って抑え込んでいる想い。どれか一本でも切れてしまえば、怒涛の勢いで溢れてしまう。
 だが、溢れてしまっては二度と抑え込むことは出来ない。
 だから美鶴を守るためにも溢れさせるわけにはいかないのだ。

(……美鶴が妻としての本来の役割をこなせるのであれば、想いを溢れさせて堂々と守ってやれるのだが……)

 自分は相当こじらせてしまっているのだろうか。あり得ぬ未来を夢想してしまう。
 美鶴に限らず、自分の妻として本来の役割をこなせる者はいないというのに。

 そんなことを思っていたからだろうか。
 小夜からの密やかな知らせを幻聴ではないかと疑ってしまった。そのような都合のいいことがあるのだろうか、と。
 風に言の葉を乗せて伝達する小夜の力。
 その力が『主上』と呼びかけてきた。
 一方通行の伝達なため、口を閉じ耳を澄ませる。
 続いた言の葉は、想いを抑え込んでいた糸を断ち切ってしまうのに十分すぎるほどの力を持っていた。

『美鶴様が、主上のお子を身籠りました』