「散り落ちて 積もる紅紫(こうし)の 零れ萩 歩み進めん 宣耀の君」

 萩の花が散り、紅紫色の敷物の様な路が脳裏に浮かぶ。
 そこを宣耀殿の更衣である自分と歩きたいと詠んでくれているようだった。

 文字は読めなくとも、聞いて情景を思い浮かべることは出来るようになっていて良かったと思う。

(主上は、敷物のようになった萩の散り花を見たのかしら)

 実際に共に歩くことはないだろうが、こうして贈られた歌で同じ情景を思うことが出来る。
 それがまた、美鶴を幸福へと導いた。

「美しい歌ですね。返歌は……したためたいとは思っているのですよ? いつも」
「では何故?」
「……」

 率直に問うてくる時雨にまた言葉が詰まる。
 そんな美鶴へ助け舟を出すように小夜が声をかけた。

「美鶴様さえよろしければ私が代詠(だいえい)いたしましょうか?」
「いいえ、主上にはちゃんと私が詠んだ歌をお返ししたいわ」

 小夜に代詠してもらった方が雅で素晴らしい返歌になると分かっているのだが、毎日約束通り花を贈ってくれている誠実な弧月には自分で詠んだ歌を返したい。
 だからと言って上手い歌を詠めるわけでもなく、結局今まで返歌をしたためたことがなかったのだ。

「主上はどんな歌だとしても美鶴様からの返歌を喜ばれると思いますよ?」

 だからしたためて欲しいと暗に催促され、心が揺れ動く。

(喜んで頂けるというなら返したい。でも……)

 いまだ小夜から合格点を貰えていないのだ。
 そのような歌を返して逆に失礼になってしまわないだろうか。

「……では、試しに時雨様に聞いて頂いてはいかがですか?」
「え?」

 悩む美鶴に小夜が呆れ混じりに提案する。

「私は合格とは思えませんが、案外殿方には好評かもしれませんし」
「そう、かしら?」
「何より、時雨様は返歌を受け取るまで帰りそうにありませんもの」

 小夜の言葉から時雨に対する棘を感じ取り、彼女の呆れが優柔不断な自分へ向けられたものではないと知った。
 言葉だけではなく責めるような眼差しを時雨に向けている小夜。二人は気の置けない親しい間柄のようだ。
 そういえば、二人と弧月は三人で筒井筒の仲だと以前聞いた気がした。

「というわけですので、美鶴様。返歌を詠んでくださいませ」
「わ、分かりました」

 いつの間に詠むことが決まってしまったのだろうか。小夜の提案が催促に変わっていた。
 だが、彼女の言う通りもしかしたら殿方には好評なのかもしれない。
 できるだけ早く弧月に歌を返したいと思っていたこともあり、美鶴は初めて小夜以外に自分の作った歌を聞かせることにした。

(主上の歌は萩の落ち花が敷き詰められた場所を私と歩きたいというものだから……)

 しばらく無言で考えた美鶴は、意を決して口を開く。

「萩の枝 思い浮かぶのも 紅紫色 行けぬこの身は 狸となりて」

 貰った萩も紅紫色なので、情景が思い浮かびます。でも私は行けないので、代わりに狸となって向かいます。
 という意味の歌なのだが……。

「……っくは!」

 美鶴の歌を聞いた時雨は堪えきれないといったように吹き出した。
 そのまま大笑いすることはなかったが、笑いを耐えているのか肩が震えている。

「ふっ……と、途中まではまだ良かったのに、何故狸……くっ」

 笑われてしまったことが恥ずかしく、頬が熱くなる。

 ちらりと小夜を見ると、目蓋を閉じ額に手を添えていた。
 これは呆れを通り越してどう反応していいのか分からないといったところだろうか。

「上手い下手はともかく、伝えたいことは分かります。ですがどうして狸なのですか? 鶺鴒(せきれい)などの小鳥でもよろしいでしょうに」
「そ、それはその……あまり美しい動物だと身の丈に合わなそうで……それに狸ならば可愛らしいですし」
「……」

 恥ずかしいのでこれ以上話したくないが、教育係でもある小夜に問われては説明しないわけにもいかない。
 たどたどしく答えると、額に手を置いたまま黙り込んでしまった。

「いや、しかし主上しか読まない文なのだから良いのでは? おそらく主上なら可愛らしいとおっしゃって下さいますよ? た、狸でもっ」

 くはっと話しながらまた笑われ、本気で恥ずかしい。

「わ、笑わないで下さいましっ!」

 聞かせなければ良かったと後悔するが、後の祭りとはこのことだろうか。
 だが、一先ず返歌をしたためられない理由は理解してもらえたようで、時雨はそれ以上は言わず帰ってくれた。

(感性も、学ばなくてはね……)

***

 朝に時雨が訪ねて来たあとはもっぱら学びの時間だ。
 小夜はかなり優秀らしく、かな文字から漢文、歌の詠み方。内裏のことや国の成り立ちなど様々なことを教えてくれた。
 ときには貝覆いなどの雅な遊びも取り入れて、息抜きも入れてくれる。
 家の仕事の手伝いくらいしかさせてもらえなかった美鶴は学ぶということそのものが楽しく、三か月経った今でも新しい発見に心が躍った。

 今日は時雨に催促されたこともあり、早く返歌をしたためられるようにと歌の勉強に力を入れてもらう。
 だが、感性などそう簡単に身に着くものではなく……。

「……美鶴様、まずは文字をちゃんと読めるよう字を覚えましょうか?」

 いつものように歌の出来に頭を抱えた小夜に笑顔で学ぶ内容を変えられてしまった。


 そうして日も落ちてくると夕餉の時間だ。

「夕餉は美鶴様のお好きな粥にして頂きましたよ。ちゃんと食べてくださいましね」

 強めの口調で勧めるのは最近食が細くなってきている美鶴を心配してのことだろう。
 美鶴とて高級品である白米を残すような真似はしたくないのだが、どうしても受け付けないのだ。
 それでも少しでも食べないことには小夜を心配させてしまうと膳に向き合う。
 だが――。

 白米の粥と汁物の香りを感じた途端に「うっ」とこみ上げる。

(駄目、吐きそう……)

 なんとか耐えるために、即座に膳から顔を背け口元を押さえた。

「美鶴様?」

 流石におかしいと思ったのか小夜が近付いて来る。

「ご、めんなさ……どうしても、受け付けなくて……」

 目じりに涙を溜めながらもなんとか絞り出すように答える。

「一体どうなさったというのですか? これではまるで――」

 焦りを含んだ声で心配してくれた小夜は、途中でぴたりと言葉も動きも止めてしまった。

「……小夜?」

 今度は美鶴の方が彼女を心配してしまう。
 突然止まってしまうなど、一体どうしたというのか。

「……そういえば、美鶴様はここに来てから月のものがありませんよね? 初潮がまだ、という事はありませんよね?」
「え? ええ……初潮は済んでますけど……」

 流石にこの年齢でそれはない。ただ、不定期だったのであまり気に留めていなかったのだが……。

「……医師(くすし)を呼びましょう」
「え? あ……」

 小夜は唐突に真面目な顔で言うと、美鶴の返事も聞かず動き出してしまった。
 取り残された美鶴は待っていることしか出来ず、その後も小夜や医師に言われるままになる。
 そうして一通りの処置を終えた医師は、神妙な面持ちで口を開いた。

「おめでとうございます。ご懐妊でございます」

 と……。