妖帝と結ぶは最愛の契り【長編】

 夢見をした夜から三日。
 弧月は今、紫宸殿(ししんでん)にて本日入内する莢子を迎え入れる儀式をしている。

 その間美鶴は自身の殿から出ず、儀式が終わるまで大人しくしている様にと言われていた。
 少し離れた場所にある紫宸殿から雅楽(ががく)の音がわずかに聞こえてくる。
 普段ならば雅な音色に聞き耳を立てたくなるが、今はそのような余裕は無い。

 何故なら。

「お初にお目にかかる、弘徽殿の中宮殿。……いや、まだ更衣だったか?」

 衣擦れの音すら密やかに、見知らぬ藍色の髪の男が酷薄な笑みを浮かべ美鶴のいる弘徽殿に侵入してきたからだ。

 検非違使(けびいし)達は何をしてるのか。儀式の警護に集中しているとはいえ、外部の者に侵入を許すとは。
 ……いや、この男は内裏にも味方がいるらしいので逆に招き入れた可能性が高い。
 おそらく、莢子の入内自体この男が侵入する隙を作るために仕組まれたことなのだろう。

 男は他にも頭巾を被った供を二人連れ、許可もなく縁から庇へと入って来た。

 一つ一つの仕草は洗練され、ゆったりとした物腰は貴族のそれだ。
 一見質素だが、よく見ると上質な絹の狩衣に身を包んでいる。
 無遠慮に母屋にまで入り込む男の迷いのなさは、勝手知ったるという様子。
 男にとって弘徽殿は慣れた場所なのだと知れた。

「何故ここに? 都を出たのではないのですか? 碧雲(へきうん)様」

 扇で顔を隠しながら、小夜が凛とした声で問いかける。
 男――碧雲は取り繕ったような笑みを消し、嘲笑するように鼻を鳴らした。

「都を出たのはあの忌々しい狐が治めている土地だからだ。妖帝には私の方が相応しいというのに」

 故妖碧雲。
 先帝の実子で、弧月が生まれその妖力の強さが知られるまではこの男が今代の妖帝となるはずの東宮であったと聞いた。
 妖狐の弧月が妖帝であることを良く思っていない筆頭で、その座を奪おうと虎視眈々と狙っているのだと。

 碧雲は鬼の証である金の目を細め、淡々と語り出した。

「少しづつ追い詰め確実にあいつの息の根を止めてやろうと思っていたというのに……まさか子を成すとは思わなかった。(つがい)の存在を知らないあいつに子が出来るとは思わなかったからな」

(番? どういうこと?)

「まったく忌々しい。あいつの子であれば次代の妖帝となり得てしまう。このままその腹の子が生まれてしまうのは私としては困るのだ」
「っ!」

 語りながら、目に宿るのは憎しみの感情。
 その視線が膨らんだ腹に向けられ、思わず美鶴は身を縮こませた。

「なに、腹の子さえ死ねばお前まで殺しはしない。今日のうちに弧月にも死んでもらうからな」
「ひっ⁉」
「させませぬ!」

 恐れる美鶴を守る様に小夜が間に入る。
 だが、男の力に敵うはずもなく簡単に押しのけられてしまった。

「きゃあっ」
「小夜っ⁉」

 倒れる小夜を心配する美鶴だったが、すぐに碧雲に捕まってしまう。
 首に腕を回され、顎の部分を乱暴に掴まれる。

「うぐっ」
「さあこれを飲め、堕胎薬としても使われているほおずきの根を煎じたものだ」

 頭を固定された状態の美鶴の口元に竹筒が近付けられた。

「確実に子が死ぬようにまじないも加えた。なに、通常であっても死産など珍しくはないのだ。気にすることでもなかろう?」

(なにを……勝手なことを!)

 あまりの言いように怒り以外の感情など吹き飛んだ。
 確かに流産も死産も珍しくはない。
 だが、だからこそ大事に産み育てるのだ。

(命を何だと思っているの!)

 美鶴は生まれて初めて、燃え上がるような怒りを感じた。
 でも、今はその怒りを声に出すわけにはいかない。

「そら、口を開け」
「ぐっ」

 口を開けたとたんにその堕胎薬を流し込まれてしまうだろう。
 グッと歯を食いしばり、唇が開かぬように力を込めた。

「まったく、手間をかけさせる」

 重くため息を吐いた碧雲は、美鶴の顎を掴む手にさらに力を込める。

「ぐぅっ」

 顎骨を締められ、閉じていられなくなった美鶴の口にはすぐに薬が流し込まれてしまった。
 飲みこまぬようにと吐き出そうとするが、今度は鼻も含めて大きな手のひらで口を塞がれてしまう。
 息も出来ぬ状態。
 飲みこまずにいることは無理だった。

 ごくり

 苦し気に呻く美鶴の喉が動く。
 嚥下したのを確認した碧雲は笑みを浮かべた。

「飲んだか。ふむ、念のためもう少し飲ませておくか?」
「止めなさい!」

 一先ず美鶴が堕胎薬を飲みこんだことで気が緩んだのだろう。
 小夜の叫びと共に放たれた風の刃に碧雲は反応するのが遅れた。

 ひゅっと風の切る音がしたと思うと、碧雲が持っていた竹筒が真ん中から真っ二つに割れる。
 中に残っていた薬が落ち、(しとね)に染み込んでいった。

「ちっ、まあいい。少しでも飲んだのなら効果はあるだろう」

 少々不服そうにしながらも目的は果たしたと碧雲は美鶴の拘束を解く。
 その隙を突くように、美鶴の手から(・・・・・・)青い炎が出現し碧雲を襲った。

「なにっ⁉」

 驚き、警戒した碧雲は青の炎に包まれながらも美鶴をつき飛ばす。

「かかりましたね! 残念でした。私は美鶴様ではありません!」

 してやったりと笑みを浮かべた美鶴は、直後狐の耳としっぽを持つ灯の姿になった。

 狐と狸の妖は化けるのが得意なのだそうだ。
 予知のことを話し、対策を練っていると灯が身代わりになると申し出た。
 そのとき初めて灯と香が変化するところを見たが、見た目だけは本当にそっくりで鏡でも見ているのだろうかと思ったほどだ。

 しかし身代わりは危険ではないかと美鶴は案じた。
 だが薬を飲まされることは分かっていたので、その薬さえ無くしてしまえば予知の未来は覆るはずだという双子の意見に小夜も同意したため、このような作戦になったのだ。

 一部始終を隠れて見ていた美鶴は、薬が使い物にならなくなったのを確認して安堵の息を吐く。

 予知は覆った。
 とにかく、これで腹の子が死んでしまうということは無さそうだ。

 だが、碧雲という脅威が去ったわけではない。
 もう一度気を引きしめようと息を吸い込んだ美鶴は、そのまま呼吸を止めてしまう。
 凍えそうなほどに冷たい感情が乗せられた金の瞳と、目が合ってしまった。

「まったく……薬で穏便に済まそうとしてやったというのに」

 淡々と呟く碧雲は軽く腕を振り灯の幻火を払う。
 幻火は幻を見せるらしいが、碧雲には効果がなかったらしい。

「小賢しい。子狐の幻火など私に効くものか」

 淡々と告げる声からは怒りの感情などは伝わってこない。
 ただ、冷たい視線だけが美鶴に突き刺さる。
 その氷柱(つらら)の様な視線に凍らせられたように身動きが出来なくなった。

 碧雲はゆったりとした足取りで本物の美鶴がいる塗籠(ぬりごめ)へと近付いて来る。

「なりません!」

 小夜が身を起こして塗籠と母屋を隔てる御簾の前に立ちふさがるが、碧雲は「退()け」と軽く告げた。
 それだけで小夜の袿の裾に赤い火が点く。
 火はすぐに燃え広がり、小夜の衣を焼いて行った。

「ひっ」
「小夜!」

 流石の小夜も青ざめ、美鶴は思わず声を上げる。

 予知は、自分が碧雲によって薬を飲まされ死産となってしまうというもの。
 それ以外は視なかったため、少なくも酷い目に遭うことはないのではないかと思ってしまっていた。
 だが、碧雲が腹の子の死を願っている以上それだけで終わるはずがなかったのだ。

「小夜姉さま!」

 慌てて袿を脱ぎ捨てようとする小夜を手伝う灯。
 そんな二人の横を通り、碧雲は御簾にも火を点け焼いていく。
 上手い具合に御簾だけが焼き消えると、妻戸の裏に隠れていた美鶴の衣が見えてしまった。

「美鶴様!」

 反対側の妻戸に共に隠れていた香が美鶴を守ろうと出てくる。
 だが、ただでさえ大人と子供の差。簡単に押し飛ばされてしまった。

「香!」

 思わず駆け寄ろうと妻戸の陰から出るが、香の元に行く前に腕を掴まれてしまう。

「手間をかけさせるな」
「っ!」

 碧雲の強い手に、美鶴はそのまま母屋の方へ引きずり出されてしまった。

 どくどくと血流が早まる。
 これから一体どうなってしまうのか。
 恐怖に震えそうになるが、子を守るためにも冷静に見極めなくてはと叱咤した。

(大丈夫、少なくとも薬はもうないはずよ。今ここで御子が殺されてしまうようなことにはならないわ)

 腹の子以外の誰かが死んでしまうのであれば、予知はその人の死を視せるはず。
 だから、誰かが死んでしまうほどの酷いことにはならないはずだ。

 自分に言い聞かせるように考え心を落ち着かせる。
 だが、なんとか冷静な思考を取り戻した美鶴に碧雲はまたかき乱すような言葉を放った。

「薬が使い物にならなくなったのでは仕方あるまい……生まれたらすぐ殺してやろう」
「っ⁉」

 今は殺せなくとも、結局殺すつもりなのは変わりないということだ。
 我が子の命が奪われる危険が去ったわけではないことに動悸が激しくなる。

(だめ、落ち着いて。少なくとも今は大丈夫よ)

 呼吸を整え、気力を奮い立たせる。

 弧月は儀式のためこちらには来られない。
 だが、いざというときにはどれほど大事な儀式であろうとも放り出して助けに来ると言ってくれた。

(弧月様は絶対に来て下さる。だからそれまで冷静に対処しなければ)

 強く優しく愛しい夫を思い浮かべ、心を強く持つ。
 未だにあれほど素晴らしい帝の唯一の妻が自分で本当にいいのかと思うことはあるが、その素晴らしい妖帝が言うのだ。

『美鶴、俺の妻はそなただけだ』

 と。

 なればその妻に相応しくあろう。
 完璧にとはいかずとも、自身のすべてを持って弧月の隣に在れるよう尽力しよう。
 だから、恐ろしくとも負けるわけにはいかない。
 なにも出来ないか弱い赤子を殺そうなどとのたまう、卑怯な男などに!

 きっ、と冷たく恐ろしい金の目を睨み返す。
 そして怯まず声を上げた。

「この子は殺させなど致しません。この子は現妖帝・弧月様の御子。弧月様の妻として、御子の母として、何を置いても守り通します!」

 声は僅かに震えてしまったが、強い意志だけは貫き通す。
 足に力を込め、負けるものかと背筋をのばした。

「――っ」

 美鶴の凛とした様子に碧雲はわずかに息を吞む。
 だが、すぐに鼻を鳴らして吐き捨てた。

「ふん、平民がよく吠える。お前ごと殺してしまえれば話は早かったのだがな」

(それは、どういうこと?)

 まるで自分のことは殺せないというような言葉に軽く眉を寄せる。
 碧雲という男のことはよく知らないが、今見ただけでも平民の女一人を殺せない男だとは思えない。
 子を殺そうなどと言う男だ。妊婦だからという理由でもないだろう。

 美鶴の疑問に、碧雲は問いかけるまでもなく話し出した。

「内裏に入り込むために藤峰の娘・莢子の入内を推し進めた。入内の儀式の方に警備が集中している今の内に、その腹の子を殺すためにな」

 こうして身代わりを用意するくらいだ、勘付いていたのだろう? と碧雲は少々自虐気味に笑う。

「その莢子の入内に必要な品を用意すると協力を申し出た平民がいるのだ。協力する代わりに、お前を生きたまま渡してくれとな」
「協力した、平民?」

 誰のことだろう? と疑問に思う。
 自分のことを知る人物は今も昔もあまり多くはない。
 平民と聞いて真っ先に思い浮かぶのは家族だが、自分を必要だと思ってもらえるとは思えない。
 何より、大門の火事の後消息を絶ったのだ。死んだと思われてるに決まっている。

 なのに碧雲は楽し気な笑みを口元に戻し、連れてきていた頭巾を被った二人を見た。

 そういえばこの二人は来てからずっと庇に留まり動いていない。
 まさかこの二人がその平民なのだろうか?

 視線を向けると、背の高い方から男の声がした。

「……まったく、何故お前が妖帝の妻などに……帝とはいえ、妖にくれてやるつもりで育ててきたわけではないというのに」
「っ!」

 もう聞くことはないと思っていた声。
 だが、生まれてからずっと聞いてきた声だ。聞き間違えるとは思えない。

「本当に。大体生きていたなら帰って来なさいよ、姉さん」
「……はる、ね?」

 もう一人からは同じくもう聞くことはないと思っていた妹の春音の声がする。
 信じられない思いで見つめると、二人は頭巾を取り顔を晒す。

 そこには、二度と会うことはないと思っていた父と春音の姿があった。
***

 清められた神聖なる紫宸殿にて雅楽が響き渡る。
 琵琶や楽箏(がくそう)(そう)する拍子に合わせ、(しょう)の高く澄んだ音が天から降り注ぐ光のように広がる。
 主旋律を奏でる篳篥(ひちりき)が耳に心地よい。

 束帯に身を包み儀式を進めていた弧月は、しかし内心不満たらたらであった。

(このような茶番は早く終わらせたいものだな)

 美鶴の予知のおかげでこれから起こることもある程度予測がついた。
 なればこそ、このような茶番に付き合いたいとは思わぬし、それならば美鶴の側にいて守りたいと思うのは当然のこと。

 何より美鶴以外の女を入内させるための儀式など茶番であろうともしたいとは思えなかった。
 むしろ美鶴にこそ正式に中宮となるための儀式を受けて欲しいと思う。
 身籠っている今は儀式などしていられないのだから仕方ないが、どうせなら美鶴のための儀式をしたかったという思いは無くならない。

 だが、そんな不満ばかりの儀式も半ばで終わりを迎える。

 藤峰が莢子を連れてくるはずの南庭へ出ると、明らかに物騒な様子の者達が紫宸殿を取り囲んでいた。
 その中には碧雲が都を出る際付いて行った者達の顔も見え、予測は確信へと変わる。

 南庭の中央には藤峰の姿があり、莢子が乗っているであろう牛車もある。
 嫁入り道具なども揃えているようだが、周囲の物々しい様子に戸惑いを見せていないことからも現状は藤峰にとってあり得ぬ事態というわけではなさそうだ。
 むしろ、藤峰こそが仕組んだことなのだろう。
 それが分かっていて、弧月はあえて問いかけた。

「さて、これは一体どういうことだ? 左大臣・藤峰、本日は其の方の娘が入内するのではなかったか?」

 問いに、藤峰はにこやかに答える。

「もちろん致しますよ。だが、莢子が入内するのは弧月様の後宮ではございません」
「ほう? では誰のだ?」

 さらに問いかけると、藤峰はすっと冷たく目を細め敵意を露わに声を上げた。

「碧雲様の後宮にです。莢子は碧雲様の中宮になるのだ!」
「はて? 碧雲は都を出たと思ったが?」

 美鶴の予知で碧雲がこの儀式の最中に内裏に忍び込んでくることは分かってはいたが、あえてすっとぼけて話しを続ける。

「お戻りになるに決まっているでしょう。妖帝となるのは碧雲様でなければならない。お前の様な狐に務まるわけがないのだ!」
「……口には気をつけた方がよいぞ?」

 妖帝である自分を“お前”などと呼ぶ藤峰に忠告する。……もう遅いかも知れぬが。

「構うものか。お前は本日をもって妖帝の座から降ろされるのだ、碧雲様の手によって!」

 話しているうちに興奮してきたのか、藤峰は面白いくらいに自らの悪事を話し始めた。
 左大臣として不本意ながら弧月に仕えていたこと。
 本心を隠し、碧雲が妖帝として都に戻れるように暗躍していたこと。

 美鶴と出会った大門の火事も、藤峰と碧雲で仕組んだことだと白状した。

「大門の火事はもっと燃え広がる予定だったというのに。大火事になりその対処にお前が追われている間に内裏を乗っ取る計画だった。だというのに火事は早々に鎮火されてしまうし……」

 徐々に愚痴になってきている辺り、相当鬱憤を溜め込んでいたらしい。

(全く、そこまで溜め込むくらいならば我慢せず碧雲に付いて行けば良かっただろうが。その方がこちらとしても助かったというのに)

 悪態をつきそうになるのをため息で流す。
 同時に、やはりあの火事も碧雲の仕業だったのかと納得した。

「しかも火事の後、お前はいつの間にか今まで持たなかった妻を娶り、あろうことか子が出来てしまった。これ以上放置は出来ないという碧雲様のお言葉で今回やっとお前を妖帝の座から引きずり下ろす計画に至ったのだ」
「……放置できぬから。そんな理由で美鶴と我が子に手を出すのか?」

 それまで淡々と受け答えしていたが、妻と子のこととなると感情を抑えてはおけなくなる。
 怒りを揺らめかせた低い声が自然と口から出てしまった。

「なんだ、気付いていたのか。そうだ、碧雲様のお言葉ではあの異能持ちの平民は目障りなのだそうだ。そして、腹の子は処分しなければならぬとな」
「……ほう?」

 藤峰の言葉に、自分でも制御出来ぬ怒りが湧き上がる。
 碧雲が美鶴と子を害そうとしていると知っただけでも怒りが湧いてきたが、第三者の口から実際に言葉として聞くと腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。

 おそらく、今まさに碧雲は美鶴のいる弘徽殿へ向かっているのだろう。
 自分の(めい)を受けた小夜たちがいる以上子が殺されてしまう事態は避けられるはずだ。
 生まれてもいないが我が子にも運命をねじ伏せる力があるようだし、美鶴が予知した未来は変えられる。
 だが、それでも碧雲が美鶴と子を害そうとしているという話を聞くだけで嵐のように感情が乱れた。

 大丈夫だと自分に言い聞かせるが、早くこの場を制して向かわねばならぬと気が焦る。

「それを聞いて俺が助けに向かわぬとでも思っているのか?」

 怒りが凍てつく視線となり藤峰を射抜く。
 藤峰はたじろぐが、自分の方が優位だと思っているのだろう。鼻を鳴らし嫌な笑みを浮かべる。

「ふ、ふん! だからこその我らだ。あちらのことが終わるまでお前を足止めしておくのが私の仕事だ」
「ほう? お前たちがこの俺を足止め出来るとでも?……舐められたものだな」

 軽く見回しただけでも数十人。族は紫宸殿を囲っている様なので百はいるかもしれない。
 こちらには時雨を含め数人の味方がいるが、普通ならばこの人数差で勝てるわけがない。
 だが、数ではないのだ。

「舐めてはおらぬ。仮にも妖帝となる妖だ、我らだけで倒せるとは思っておらぬよ。だが、碧雲様が勝ちやすいように力を削ることは出来るはずだ」

 藤峰は自分は慎重だと笑うが、何も分かっていない。

(そろそろ待つのも限界だ)

 怒りも頂点に達し逆に冷静になる。
 この愚か者たちにはしっかりと力の差を見せつける必要があるようだ。

「それを舐めているというのだ。……だがよかろう、そこまで思い上がっているのならば見せてやる。歴代最強と言われる現妖帝の力を」

 もはや抑える理由など無いだろう。

 そう判断した弧月は抑えていた妖力を解放する。
 以前美鶴に見せたときのように慎重に調整したりなどしない。

「え? なっ⁉ 主上⁉」

 今まで黙って成り行きを見守っていた時雨が慌てて止めようとする。
 だが、抑える気のない弧月はそのまま妖としての本来の姿を晒した。

 狐の耳と九本の尾を持つ妖狐――鬼をも凌ぐ、九尾の姿を。

「なっ⁉ ぐぁっ!」

 その姿を目にした瞬間、その場にいた者達は皆地に伏せた。
 九尾の妖力に文字通り押しつぶされたのだ。

 弧月の体から陽炎のように揺らめくのは本来見えないはずの妖力。
 可視化出来るほどの妖力は、その強さも表していた。

「なっ⁉ こんな……これほど、とは」

 流石は高位の妖とでも言うべきか。藤峰にはこの状態でまだ話せるだけの余力があったらしい。
 だが、それもすぐに尽きる。
 ぐっと呻き、顔も地面につく。

 地に伏した全ての者どもを睥睨(へいげい)した弧月は、側でかろうじて立ち膝で耐えている時雨にこの場を託した。

「時雨、俺は美鶴の元へ行く。お前はこの者どもを捕らえろ」
「くっ……全く、人使いの荒い……」
「頼んだぞ」

 短く頼み早々に去る。
 今の状態で長居すると、時雨も使い物にならなくなってしまうだろうから。

(美鶴、今行く)

 同じ内裏の敷地内であっても、少々離れた場所にいる誰よりも愛しい存在の許へ急いだ。
***

 不機嫌そうな父と妹の表情。
 それは平民として生きてきた間ずっと見ていたもので……。
 一瞬、今までのことが全部夢だったのではないかと錯覚してしまう。

 心穏やかな日々。
 身籠り、愛されるということを知り、守りたいと強く思った。

 それらの大切なことが父と春音の顔を見ただけで夢幻のように儚く消えそうな感覚に陥る。

「とう、さん?」
「ふん、ちゃんと覚えているじゃないか。こんなところにいて、親の顔を忘れたのかと思ったぞ?」

 不機嫌に皮肉を口にする様はやはり父だ。
 美鶴を我が子とも思っていなかったことを棚に上げる傲慢さも、父そのものだった。

「何でもいいから、帰るわよ姉さん。姉さんがいなくなってから母さんが大変なことになったんだから」
「え……?」

 母のことを面倒そうに語る春音に、一体何があったのかと戸惑う。
 仲の良い母子であった二人。このようにうんざりした様子で語られるようになるとは。

「大門の火事の後、お前はいなくなった。死人はいないと聞いたが、状況的に死んだと判断した」

 淡々と語る父の様子を見るに、父本人はやはり自分が死んだとなっても特に何も思わなかったのだなと知った。
 それを寂しいと思うくらいには、かつての家族を美化していたのかもしれない。
 愛されていたときもあったのだ、と。

「父さんと私はまあ仕方ないなとしか思わなかったけれど、母さんは違ったわ。ずっと泣きながら『ごめんなさい』って謝り続けて、病んでしまった」
「っ!」

(母さんが?)

「その母さんの世話を私がしているのよ? どうして私がそんなことをしなきゃならないのかしら。姉さんが原因なんだから、姉さんが世話をすればいいのよ」

 父に続いて母のことを語る春音の様子もうんざりといった様子で、あれほど可愛がられていたというのに母を労わる様子が感じられない。
 父と春音は似ている。
 昔から度々思っていたが、ここまで家族の情に薄いとは……。

「だそうだ。そういうわけだからお前はこの者達に引き渡す」

 軽く呆れた様子で告げた碧雲は、美鶴の腕を強く引き二人の方へ差し出した。
 それを受け取る様に、今度は父が反対側の腕を掴む。
 碧雲以上に容赦のない力で引かれた。

「いっつ」

 その強さに、思わず顔を歪める。
 だが容赦がないのは手の力だけではなかった。

「その腹の子を無くしてから連れて行きたかったが、仕方ないな。碧雲様の言う通り生まれてから殺すしかない」
「なっ⁉」

 あまりな言葉に絶句する。
 たとえ望んでいなかったとしても、腹の子は父にとって孫にあたる。
 それを平然と『殺す』などと……。

「なんだその顔は? 利用することも出来ぬ妖の孫などいらんぞ。大体、お前の異能とて妖に勝手に植え付けられたものらしいではないか」
「え?」

(異能を植え付けられた?)

 父は何を言っているのか。
 理解出来ない美鶴に、今度は碧雲が語りかける。

「弧月に印を与えられただけの憐れな娘。その異能のせいで蔑ろにされ続けてきたのだろう? 自分を不幸にした男の子など産まずともいいのだぞ?」
「何を⁉」

 振り返り見た顔には先ほどまでとは打って変わって憐れみの色が見える。
 その変わりように言葉を続けられずにいると、碧雲は続けて話し出した。

「弧月のように強い妖力を持ってしまった妖には子が出来ぬ。その妖力を受けきれる姫がおらぬからな」

 弧月が以前話してくれた受け皿の話だろう。
 強大な妖力を受け止め子を成すために必要な妖力の器。

「だからそのような強い妖は、妖力を持たぬ人間に自身の力を分け与え(つがい)の印を刻むのだ」
「番の印……?」
「そう、それが異能として現れる」
「っ⁉」

 はじめて聞く話に、美鶴だけではなく小夜たちも驚きの表情で固まっている。
 妖の貴族の間でも知らぬ者が多いということだろう。

「で、でも、私と弧月様は大門の火事のときに初めてお会いしました。いつ印を刻んだというのですか⁉」

 有り得ないと反論しようとするが、碧雲は何でもないことのように答える。

「さて、いつであろうな? 大方お前が母の腹にいるときにでも牛車ですれ違ったのだろう」
「なっ⁉」

 あまりにも大雑把な答えに絶句する。
 だが、碧雲は別にふざけているわけではないようだ。

「この答えは不服か? だが実際そういうものだ。番の印は無意識に刻んでしまうものらしいからな」
「無意識に……」

 繰り返し呟きながら思う。
 無意識にというのであれば碧雲の言った通りすれ違っただけということもあるのだろう。

「帝や東宮にだけ語り継がれる話だ。奴が東宮になった頃は先代妖帝の父は病床であったし、私も話してはいないから弧月は知らぬはずなのだがな。よくまあ自力で見つけ出したものだ」

 少し呆れを含ませた碧雲の言葉を聞きながら、美鶴は呼吸を乱した。
 どくどくと、早まった脈の音が耳奥に響く。

(今の話が本当なら、私の異能は弧月様に与えられたということ?)

 異能があったせいで両親から愛されなくなり、周囲の人達からも異様なものを見る目を向けられていた。
 異能がなければと何度呪ったことか。

 その異能を与えたのが弧月だというならば、恨みを抱いてもおかしくはないだろう。

 だが弧月と出会い、必要とされ、愛されることで逆に異能を持っていて良かったと思うことが増えた。
 大切な子も出来て、幸福を知った。

 その幸せを与えてくれたのも弧月だ。

 恨みたい気持ちと愛しい気持ちが水と油のように混ざり合うことなく共に渦巻いている。
 どうしたらいいのか分からない。

 だが、続けられた碧雲の言葉にはっとする。

「お前を不幸にした男は始末してやる。腹の子も産まれたら処分してやろう。事情を知ったお前の父は前とは違いお前を必要としている。迷わずあるべき場所に戻るといい」
「っ⁉」

 憐みの言葉。
 だが、その言葉に美鶴は強い拒絶を覚えた。

(弧月様を始末する? 子も産まれたら処分する? 父さんが、私を必要としている?)

 弧月が死ぬのも、子が死ぬのも駄目だ。絶対にあってはいけない未来だ。
 それに、父が必要としているのは愛する娘ではなく病んだ母の世話をする道具としての娘だろう。
 腕を掴む容赦のない力強さからも、優しさなど欠片も感じられないのがその証拠だ。

(この子を守らなくては)

 迷いようもない子を守りたいという気持ち。
 その純粋な強い思いを自覚して、全ての迷いが吹き飛んだ。

 不幸の原因である異能を与えたのが弧月だとしても、死ぬ運命だった自分を救いあげ愛してくれたのも弧月だ。
 自分を不幸にしようという意図を持って番の印を刻んだわけではないのだから、そのことを責めても仕方のないこと。

 変えられぬ過去を思い悩んでなどいられない。
 大切なのは今と未来だ。
 今の自分は幸せであり、その幸せが未来まで続くための選択をする。
 そして今の幸せを形作っているのは弧月だ。
 彼の方無くして自分の幸福はあり得ない。

 水と油だった、恨みたい気持ちと愛しいという感情。
 恨みはやはり消えないが、小さくなり愛情が包み込む。

 そうして、美鶴は決意した。
 今の幸福を形作る全てのものを愛し守ろうと。

「いいえ……いいえ、戻りません。私の居場所はここです。帰る場所は弧月様のお側以外にありません」

 決意を言葉に込めて、足に力を入れる。
 天に引かれるように背を伸ばし、真っ直ぐ金の目を睨み返した。

 もう一時たりとも迷わない。

「私は妖帝・弧月様の妻にしてその御子の母。今の私を形作るものは、それが全てです」
「……愚かなっ!」

 途端、憐憫(れんびん)の情を張り付けていた碧雲の顔に憎しみの色が戻る。
 今この瞬間、碧雲にとって美鶴は憐れむべき弱き者ではなく敵となった。

「力を与えられただけの平民風情が……今すぐ腹の子ごと殺してもいいのだぞ?」

 地を這うような低い声に気圧(けお)されそうになる。だが、迷わないと決めた。
 美鶴は負けぬように顎を引き、揺るがぬ意思を視線に込める。

「そんな! それでは話が違います」

 叫んだのは父だ。
 碧雲の殺気を感じ取ったのかもしれない。

「ならばさっさと連れて行くのだな。目障りだ」
「は、はは! そら、早く行くぞ美鶴」
「いやっ!」

 慌てて引く父に抵抗すると、黙って見ていた春音も近付いて来た。

「我が儘言わないで姉さん! 本当に殺されるわよ? 私たちは家族として助けてあげようとしてるんじゃない」

 つい先ほど病んだ母の世話をしろと言った口で恩着せがましいことを言う春音に呆れる。
 生まれたときから見ているのだ。どちらが本音なのかは問い質さずとも分かる。

「これ以上失望させるな! 前までと違って今はお前を必要としてやっているんだぞ⁉」
「い、やっ!」

 抵抗するが、怒り出した父の力は強く春音も加わった。
 重い衣を纏っていても引きずられてしまう。

「美鶴様!」
「美鶴様を離しなさい!」
「おやめなさい! 連れてなど行かせません!」

 灯と香、そして小夜が叫ぶ。
 だが、三人の前には碧雲が立ち塞がった。

「お前たちこそ邪魔をするな。あまりに煩いと貴族の娘であろうと始末するぞ」
「くっ!」

 碧雲の圧に三人は動けない。
 このまま連れ去られてしまうのかと思いかけたそのとき、父と春音の袖に青い炎が突如現れた。

「ひっ⁉ 何だ⁉」
「やだっ、熱いっ!」

 炎に驚き美鶴を離した二人は床に伏し火を消そうとのたうつ。
 その様子を驚き見ていた美鶴の耳に、愛しい声が届いた。

「俺の妻をどこに連れて行くつもりだ?」

 静かで冷ややかな声音。
 怒りを内包した声はそれほど大きな声でなくともその場に響いた。
 直後に美鶴の身を包んだ腕は温かく、怜悧な声とは裏腹に優しい。

「弧月様……」

 必ず来てくれると信じていた存在の登場に、美鶴は安堵の息を吐いた。
(もふもふが沢山……)

 弧月の登場に余裕が生まれたからだろうか。
 美鶴は場違いにもそんなことを思ってしまった。

 だが仕方ないだろう。
 以前触れた絹糸の様な美しい毛並みのしっぽが三本から九本に増えているのだから。

(弧月様のしっぽは本当は九本だったのね……そういえば以前見せて頂いたときは力を抑えていると言っていたような)

 思い返しながらつい無意識にしっぽに手を伸ばそうとして、弧月の声に引き戻される。

「さて……この者達はなんだ?」

 軽く見回し、見知らぬ平民のことをまず問う弧月に慌てて答えた。

「あ、私の父と妹です。弧月様が来て下さったなら私はもう大丈夫ですから、炎を消していただけますか?」
「そうか。ならばやり過ぎるわけにもいかぬな」

 連れ戻されるのは困るし、変わらず自分のことを道具のようにしか思っていなさそうな父と妹にかける情は少ない。
 だが、酷い目に遭って欲しいとまでは思わないのだ。
 そんな美鶴の意図を汲んで、弧月は二人の袖についている青い炎を消してくれた。

 二人は炎が消えると、そのまま気を失ってしまう。
 その腕は少々火傷しており、やはり弧月の炎は普通の妖狐のものとは違うのだなと思った。

(幻火ではないということかしら? それに、この御姿も……)

「弧月様は、九尾だったのですね」

 軽い驚きと共に呟く。
 九尾の妖の存在は小夜から聞いていた。
 数百年に一度現れるかどうかという希少な妖狐だと。

 そんな珍しい存在のことを詳しく話す小夜を不思議に思っていたが、弧月がそうであったからなのだなと納得した。

「ああ、そうなのだが……美鶴は大丈夫なのか? 俺の妖力に当てられてはいないか?」
「え?」
「妖力の圧によって、普通の妖でも立っていられなくなる。人間なら気を失ってもおかしくはないのだが……」

 何故だ? と不思議そうに問われた。

 弧月の言っていることがよく分からない。
 確かによく見ると、弧月の体からは陽炎のように何かが溢れ出しているのが見えた。だが、気を失うような圧など感じない。

 大袈裟ではないかと周囲を見回すと、小夜が床に突っ伏すように倒れているのが見える。
 灯と香も「むきゅう……」と目を回していた。

「うっ、このっ……」

 苦し気に呻く碧雲は、床に突っ伏すことはなくともまともに立ってはいられない様子で……。
 何故? と疑問に思うが、一つ思い当たることがあった。

(私の異能は、弧月様の妖力で番の印として与えられたもの……)

 ならばこの身の内に弧月の妖力と同じものがあるということだろう。
 今九尾となった弧月の妖力に当てられずに済んでいるのはそのせいかもしれないと思った。

「まあ、なんにせよ美鶴が大丈夫なら問題ない。早々にこの場を収めてしまおう」

 良かった、と安堵した弧月は優しく美鶴を見ていた紅玉の目をすっと細め、怜悧な眼差しを碧雲に向ける。

「さて碧雲。その様子ではまともに戦うことも出来ぬと思うが?」
「こ、げつ……お前、その姿は……」

 弧月の問いかけに、しかし碧雲はただ驚愕の色を見せる。

「ああ、東宮と定められ内裏に入ってからは本来の力を出すことはなかったからな……だが、見ての通りだ」
「くっ……九尾か。だが、所詮は狐だ……鬼こそが、最強なのだ!」

 弧月を映す金の目に燃え盛る炎を宿し、碧雲は足に力を入れ真っ直ぐに立つ。
 風もないのにざわりと藍色の髪が揺れ、額から二本の角が生える。
 そこには、怒りに燃えた鬼がいた。

「……俺の妖力に対抗出来るのは流石ではある。だが、忘れてはいないか? 俺が鬼の血も引いているということを」
「それがなんだ! 鬼の血を引いていようと狐であることに変わりはない。幻火しか扱えぬ狐に鬼の炎が劣るわけがなかろう!」

 叫び、碧雲はその手の平に赤い炎を出現させる。
 その揺らめきは大門の火事を思い起こさせ、美鶴は知らず身震いした。
 だが、その恐怖も弧月の手が払ってくれる。
 片手で優しく髪を撫で、安らぎを与えてくれた。

 敵である碧雲と対峙している最中(さなか)でも自分を気遣ってくれる弧月に、胸の奥が温かくなる。
 このぬくもりこそが自分の幸せ。
 やはり、弧月無くして自分の幸せはあり得ないのだと美鶴は再び思った。

「そう思うならば見せてやろう。鬼の血も受け継ぐ九尾の炎を」

 髪を撫でた手で優しく美鶴を抱いたまま、弧月はもう片方の手に青い炎を出現させる。

「良いだろう、その娘共々燃やし尽くしてくれる!」

 叫びと同時に碧雲の赤い炎が放たれ、対する弧月も青き炎を放つ。
 双方の手を離れた炎は真っ直ぐにぶつかり、拮抗し合うかに見えた。
 だが、押し合うことなく青い炎が赤を包み吞み込む。

「なっ⁉ なにが⁉」

 赤の炎を吞み込んだ青い炎はそのまま碧雲に向かって行き彼を包み込んだ。
 青い炎に包まれた姿は先ほど灯の幻火に包まれたときと同じ。
 だが、包まれた碧雲の様子はまるで違った。

「ぐあぁっ! 熱いっ! 何故だ? 何故たかが幻だというのに熱を感じる⁉」
「だから鬼の血も受け継いでいると言ったであろう?」

 叫びの中に戸惑いの言葉を混ぜながら膝を付く碧雲に、弧月は平坦(へいたん)な声で話した。

「確かに妖狐の炎の本質は幻を見せる幻火だ。それは九尾であっても同じ」
「ならば何故熱いぃ⁉」
「それは何度も言っているだろう? 鬼の血を受け継いでいるからだと。俺は自分の意志で炎の性質を変えることが出来るのだ」

 妖狐としての幻火と鬼の血を受け継ぐ者としての熱き炎。そのどちらも使えるのだと語る。
 そして腕を軽く振り、一度炎を消した。

「ぐっ……うぅ……」
「理解したならばもう良いだろう。後は取り調べまで大人しくしているがいい」

 淡々と告げると、弧月はまた青い炎を出し碧雲を包む。
 ただ、今度は熱いと騒がず朦朧とした様子でゆっくりと床に伏した。
 どうやら今回の炎は幻火だったらしい。

「余罪もありそうだ。藤峰共々しっかり調べ上げて罰しなければな」

 静かになった弘徽殿に弧月の呟きが響き、その姿が人のものとなる。
 ふさふさの耳としっぽがなくなり少々寂しく思った美鶴だったが、あのままでは小夜達が床にくっついてしまいそうだ。
 仕方がないと諦めた。

「美鶴、本当に大丈夫か?」
「え? はい、大丈夫ですよ」

 九尾の妖気に当てられなくとも襲われ連れ去られそうになったのだ。
 臨月の身では尚辛いだろうと心配されてしまう。

(確かに少し前から重苦しい辛さはあるけれど、臨月に入ってから度々感じたものと変わりはないし……)

 大丈夫だと思う。
 だが、少々休ませてもらった方がいいかもしれない、そう思ったときだった。

「うっ……」
「美鶴?」

 先ほどまでより強くなってきた辛さについ呻く。

「だ、大丈夫です」

 弧月に心配させないように笑顔を浮かべてみるが、また苦しい痛みにそれも歪んだ。

(まさか御子に何か?……いえ、この感覚は――)

「うっ……美鶴様? もしや、陣痛が始まっておられるのではございませぬか?」

 弧月の妖力の圧が無くなったことでなんとか体を起こした小夜に聞かれる。
 陣痛は月のものの痛みを強くしたようなものだと聞いた。そして、波のように一定の感覚を置いて起こるのだと。

「……そう、かもしれません」

 重い痛みは徐々に強くなっているし、一定の感覚を開けて痛む気がする。
 元々いつ生まれてもおかしくない状態だったのだ。今陣痛が来たとしてもおかしくはない。

「は? なっ⁉ う、生まれるのか? 一先ず横に――いや、まずは医師(くすし)か?」

 先ほどまで強き妖帝として引き締まっていた弧月の顔が少々うろたえた表情になる。
 その落差がどこか可愛らしく思えて、美鶴は「ふふっ」と笑ってしまった。

「そうですね、女医(にょい)を呼んで下さいまし。私は小夜と共に移動致します」

 出産では多くの血が出る。
 血は穢れのため、宮中で出産するわけにはいかないのだ。

 昔は貴族の娘も都を離れ山の中にある小屋で出産したようだが、数代前の妖帝があまり離れていては危険もあると言い出し都の端に専用の小屋を建てた。
 今は出産のために、白綾屏風などですべてを白にしつらえている。
 そこに移動しなければならない。

「そうか。……だがやはり心配だ、何故俺は立ち会ってはならぬのか!」



 ぐっと眉間にしわを寄せ嘆く弧月を愛おしく思う。

 出産時に多く出る血を苦手に思う殿方の方が多く、立ち会いたいなどと言ってくれる方は稀だ。

 こうして思い嘆いてくれるだけでもとても嬉しかった。

 だが、気力を取り戻し、しっかりと立ち上がった小夜がピシャリと告げる。



「そうやってうろたえているだけならばいても意味がないからです!」



 まなじりを吊り上げて、慌てる弧月の言葉をばっさりと切った。

 普段の丁寧な物言いが崩れているのは、小夜も多少は慌てているからだろうか。



「主上は女医を呼んだら族の捕縛を取り仕切って下さいまし。このままでは美鶴様が無事にご出産なされても安心して戻っては来られませぬ」

「わ、分かった」



 弧月から美鶴を奪うように引き離し、小夜ははっきりと弧月がするべきことを告げた。

 臣下であるはずの小夜にたじたじになっている弧月を見て、もしかしたら本当に最強なのは小夜なのかもしれないと美鶴は思う。



「灯! 香! しっかりおし! 美鶴様のご出産ですよ、準備を手伝いなさい!」

「ふぁ、ふぁいっ!」

「りょ、了解ですぅー!」



 小夜の叱責に双子も少々ふらつきながら立ち上がる。

 そんな三人に手伝われて白装束を身に纏った美鶴は、部屋に移動し出産に臨んだ。



 そして数刻後。

 陽も落ち人々が寝静まる頃に、宮中の端で元気な産声が上がる。



 美鶴は無事、男の御子を出産した。
 都の中ほどの小路を網代車(あじろぐるま)がゆったりと通る。
 牛飼童の他には質素な狩衣に身を包んだ公達が一人ついているだけの、都人には見慣れた風情の牛車だ。
 だが、見るものが見ればその網代車は日常的に使われているものではないと分かる。
 それに、供の公達もその物腰から下位の貴族でないことは知れたはずだ。

 とはいえこの辺りの路を歩くのは平民ばかり。
 貴族の屋敷も中級以下の下位のものばかりなため、気付くものはいなかった。

「……着きましたよ」

 とある中級貴族の屋敷脇に並ぶ長屋。その中でも一回り大きな小家の前で止まった網代車に、供の青い髪の公達が声をかける。
 すると屋形の中から衣擦れの音がして男が一人現れる。
 明らかにお忍びといった風情の繁菱柄(しげびしがら)の狩衣に身を包んだ公達。
 立烏帽子の中に隠れる髪は白金色で、その洗練された佇まいからも只者ではないと知れた。

 通常ならばその公達だけが降りるものだろう。
 だが、屋形の中からはもう一人おくるみを抱いた娘が降りてきた。
 美しい顔立ちをしているが、貴族の姫が人前に出ることはない。
 身なりも平民と同じように小袖のみであった。
 だが、その小袖は明らかに上質な絹で、艶やかな黒髪も良く梳かれ手入れが行き届いている。
 しかも先に降りた公達が娘をとても大事そうに気遣っていた。
 何とも不思議な光景である。


「大丈夫か美鶴、俺が抱こうか?」

 牛車から下りるのを手伝ってくれた弧月が美鶴の抱くおくるみを受け取ろうと手を伸ばす。
 だが、美鶴は柔らかく微笑みそれを断った。

「いえ、ちゃんと私から見せたいので」
「そうか」

 美鶴の思いを汲み取り、弧月は歩きやすいように支えるに留めた。
 そのまま二人で目の前の小家――大家と言った方が良さそうな平民の家へと入る。

(まさか、またここに来ることになるとは思わなかったわ)

 土間に入りながら、一年と少し前までいた実家を見回す。
 そうして思い出すのはやはりお世辞にも幸せとは言えない出来事ばかりで、少し物悲しい気分になった。

「美鶴……?」

 だが、今の自分を幸せにしてくれる愛しい夫の呼びかけに悲しい思いがすくい上げられる。
 笑みを向けると、同じく愛情に溢れた笑みが返って来て、嬉しくも少々気恥ずかしくなった。

「主上、美鶴様。お待ちしておりました」

 表室にて見知らぬ女性が膝を付き頭を下げていた。
 平民の、人間の女性。
 美鶴は初めて会うが、この者は自分が弧月に頼み手配してもらった女性のはずだ。

 この間父と春音が内裏へ侵入してきたとき、彼らは母が病んでいると言っていた。
 もうこの家とは関わらないと決めていたが、美鶴が死んだと思い病んでしまったと聞いては知らぬと突き放すことも出来ない。
 それでも戻るわけにはいかないため、弧月に母の世話をしてくれる者を手配してもらったのだ。
 ……家族の情が薄い春音ではまともな世話をするとは思えなかったから。

 その父と春音は今この家にはいない。
 あの後、美鶴の親族ということで特に罰を受けることはなかった二人だが、代わりに二度と美鶴の前に姿を現さないことを約束させられたらしい。
 なので二人のいないときを選んで美鶴はここに来た。

 最後に、もう一度だけ母に会うために。

「顔を上げてください。母を見て下さって、ありがとうございます」
「いいえ、仕事ですので。お気になさらないでください」

 顔を上げた女性は思ったよりも若く、真面目そうな顔をしていた。
 少し厳しそうな人に見えたが、逆に仕事ならばそつなくこなしてくれそうだ。

「それで母は……」
「寝室におります。今日は少し調子がいいのか、朝から起きて待っていましたよ」

 そう話す世話人の女性は僅かに笑みを見せた。
 その顔を見て彼女は母の世話を嫌々しているわけではないことが分かり、美鶴は安心する。

 彼女の話では、母は初め完全に寝たきり状態で、生きようという気力がまるでなかったのだそうだ。
 だが美鶴が生きていると知り、少しずつ回復に向かっているのだという。

 案内されるまま弧月と床に上がり、寝室へと入る。
 敷かれた褥の上で、記憶よりやせ細った母が額を床に擦り付けそうな状態で頭を下げていた。

 何と声をかけようか。
 考えてきたはずなのに言葉が出てこない。
 近付き、膝を付いて薄くなった母の頭髪を見下ろした。

「……母さん」
「っ!」
「顔を見せて? 本当なら私はもうここに来てはいけないの。それを一度だけという約束で母さんに会いに来たのよ?」

 元は平民であっても、今は妖帝の妻で貴族と同じ扱いを受けている。
 子も産み、弧月の妻としての地位も確かなものとなってきている美鶴は平民のように人前に出ることはもうあってはならないのだ。
 それを無茶を言って会いに来た。
 時間もあまり取れない。

 だから顔を見せて欲しいと乞う。

「あ、ああ……」

 すると母は震えながら顔を上げる。
 回復してきたと聞いてはいたが、美鶴の記憶と比べると頬はこけ目も少々落ち窪んでいる。
 美鶴と同じ黒い目には、すでに涙が滲んでいた。

「み、つる……本当に、生きてっ」

 震える唇は「良かった」と言葉を紡ぎ、滲んでいた涙が零れ落ちる。
 涙と共に止めどなく零れた言葉はやがて懺悔となった。

「ごめんなさい、ごめんなさい美鶴。いなくなるまで、あなたが大事だと忘れてしまっていた……ごめんなさい」
「私も、ごめんなさい。愛されていないと決めつけて、生きていたのに便りも出さずに……ごめんなさい」

 繰り返し謝る母に、美鶴もつられるように謝罪した。
 だが、今日は互いに謝るために来たわけではない。
 もう二度と会えなくとも、自分はちゃんと幸せを得たのだと知らせるために来たのだ。
 自分は幸せだからもう大丈夫だと。だから気に病まず、母も生きることを諦めないで欲しいと伝えるために。

「……母さん、私も子を持つ母になったのよ?」

 だから、その幸せの証を見せる。
 大事に抱いていたおくるみ。
 包まれた衣の隙間から、まだ小さい赤子の顔が見える。
 額に小さな角が見える、妖の赤子。
 弧月が受け継いでいる鬼の血が強く出た鬼の子だ。

「可愛いでしょう? 私の、大事な子よ。この子と夫の弧月様のおかげで、私は今とても幸せなの」

 だから、自分は大丈夫だと……穏やかに微笑んだ。

「母さん、私を産んでくれてありがとう。……おかげで私は幸せを知ることが出来たわ」
「あ、ああ……美鶴……幸せにしてやれなくて、ごめんねぇ」

 泣く母は、尚も謝る。
 だが、赤子の顔を覗き込みその可愛らしさにフッと表情が緩んだ。

「可愛いねぇ……美鶴、幸せになってくれてありがとう……」
「うん……」

 そうしてしばらく黙り込み、二人はただただ赤子を見続ける。
 だが、元々長居は出来ない。
 控えめに「美鶴……」と弧月の呼ぶ声がして、もう時間だと知らせてくれた。

「……じゃあ母さん、どうかお元気で。もう会うことは出来ないけれど、私はちゃんとこの黎安京(れいあんきょう)で生きているから」

 だから心配するなと告げ、美鶴は立ち上がり弧月のもとへ戻った。
 寝室を後にする前にもう一度母を見ると、眩しそうに自分たちを見て「ありがとう」と礼を伝えられる。
 名残惜しくはあるが、美鶴は最後に笑みを返し「さようなら」と家を出た。
***

 帰りの牛車では、弧月は当然のように美鶴を背中から抱くような形で座り支えていた。
 少々照れるが、赤子も抱いている状態なので支えてもらえるのは助かる。

「……良かったのか?」

 牛車が動き出し暫くして、弧月がぽつりと零した。
 問いの意図が分からずただ見上げると、寂し気な表情が見える。

「そなたは俺といて幸せだと言ってくれるが、本当に良かったのか?……俺が番の印をつけなければ普通の平民として幸せになれただろうに……」

 碧雲が語っていた番の話。
 美鶴は特に伝えていなかったが、誰かから聞いたのかもしれない。

「小夜から聞いた。……無意識とはいえ俺の番の印のせいで異能が現れたのだろう? そなたはそのせいで家族から蔑ろにされていたのだろう?……俺のせいで――」
「弧月様」

 無礼ではあるが、弧月の言葉を途中で止めた。
 だが仕方ないだろう。それ以上を口にさせるわけにはいかぬのだから。

「確かに、異能があったから家族からは(いと)われておりました。異能がなければと何度も思いました」

 その恨みは未だ美鶴の中にある。
 おそらく完全に消え去ることはないだろう。
 だが。

「でも、弧月様はちゃんと見つけて下さったではありませんか。無意識につけた印で、どこの誰が番になっているのかなど分からないというのに」

 しかも弧月は番の印の存在を知らなかったのだ。
 異能がその印の証と知らぬのに、ちゃんと見つけてくれた。

「私を見つけ、愛を教えてくださいました。そして、家族まで与えて下さったではありませんか」

 紅玉の瞳から赤子の寝顔へと視線を移す。
 安らかに眠る子の目は鬼の証である金だ。だが、髪は父親譲りなのか弧月と同じ白金である。
 柔らかな、口づけをしたくなるような頬を指先でちょいとつつき、幸せから自然と笑みが零れる。

「私を幸せにしてくださったのは弧月様です。“弧月様のせい”ではありません“弧月様のおかげ”で私は今幸せなのです」

 大事なのは今とこれからの未来なのだと美鶴は告げる。
 だから気に病まないで欲しい。
 気にせず、これからも自分と子を愛して欲しい。
 そんな願いを込めてまた美しい紅玉の目に視線を戻した。

 赤い瞳を縁取る睫毛が震え、喜びが込められた柔らかな表情が浮かぶ。
 眩しそうに細められた目の奥に映るのは憧憬の思い。

「美鶴は、強いな。……愛らしいとばかり思っていたが、強いそなたも愛おしい」

 弧月の大きな手が美鶴の髪を撫で、頬を包む。

「番の印を刻んだのが無意識だったとしても、きっとそなたの魂に惹かれ選んでいたのだろう。愛しい運命の相手を……」

 愛を囁きながら、白磁の肌がゆっくりと近付く。
 目を閉じると、唇に柔らかいものが触れた。

 愛しさと幸福を胸に宿しながら、そういえば口づけの仕方も弧月に教わったのだったなと思い出す。

 唇が離れ目を開くと、弧月は微笑みながら「口づけも上手くなったな」と呟いた。
 自分と同じように初めてした口づけを思い出していたのだろう。

「そ、そうですか?」

 言葉を返しながらなにやら恥ずかしくなった美鶴は、照れ隠しのように赤子にまた視線を移した。
 すると美鶴の頬にあった手が移動し、赤子の頭を壊れ物を扱うように優しく撫でる。
 その指先が小さな角に触れた。

「それにそなたはこんなに立派な(おのこ)を産んでくれた。かわいい我が子……鬼の血を強く受け継いだこの子が生まれたことで、小うるさい者達も静かになった。本当に喜びしかない」

 襲撃してきたような過激派はあのとき捕えることが出来たが、まだ不満をくすぶらせている輩はいたらしい。
 だが、生まれた子が鬼だったことで弧月には確かに鬼の血が入っているのだと本当の意味で理解し大人しくなったのだとか。
 小夜や時雨から伝え聞いた話を思い出して、凄いなと思った。

 泣くか眠るかしか出来ない赤子だというのに、生まれてきただけで父を助けるとは。
 自慢の我が子である。

 だが、美鶴にとっては種族の問題など大した意味はない。

「ですが私は妖狐の子でも嬉しいですよ? もふもふの耳としっぽのある赤子も可愛らしいでしょうし」
「……では二人目も作るか? 次は妖狐の子が生まれるかも知れぬ」
「え?」

 どんな子でも可愛いという話をしたのに、斜め上の言葉が返って来て少々驚く。
 だが見上げた顔は子供のように無邪気で幸せそうで……。

(この方の子ならばまた産みたい)

 そう素直に思えた。

「次は娘でもいいな。もちろん息子でも嬉しいが」
「ふふっ」

 楽し気に語る弧月は本当に嬉しそうで、美鶴は思わず笑ってしまう。

「そうですね、弧月様が望まれるなら何人でも。あなたの子を産めるのは私だけなのですから」

 産みの苦しみや、その後の体の回復など辛いことはある。
 だが、その後の幸せが辛さを上回るのだ。
 そう思わせてくれる弧月の子ならば、何人でも産みたいと思った。

「……それは、凄い殺し文句だな?」

 意表を突かれた様に軽く驚いた弧月は、また美鶴の髪を撫で流れるように顎を捕らえる。

「可愛い我が妻……愛している、美鶴」
「私も愛しております、弧月様」

 愛の言葉を紡いだ唇が触れ合う。
 その口づけは、未来の幸せを守るための誓いの様であった。


【妖帝と結ぶは最愛の契り】 了

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