「それでは、ごゆっくり」

――困った。

 簡単な説明を終えて桃子が去っていくのを見つめながら、何故まだ自分がコトの家にいなければならないのか理解が追い付かなかった。半歩後ろでにこにこ笑顔を見せるコトに何を言ったらいいのか分からない。

 会ってみたいとは思っていた。思ってはいたが、この状況に付いていかれず、路頭に迷った子犬のように震える手足を縮ませる。

「俊彦さん、お姉さんも帰られましたし、ゆっくりしましょう」

 コトは桃子を「お姉さん」と呼ぶ。桃子以外にもヘルパーが手伝いに来ているそうだが、いつの頃からか名前で呼ばなくなったらしい。修が思い付いた原因は、あまり想像したくないものだった。

 それにしても、可能ならば自分を置いて帰らないでほしかった。

 一度でいい、ささやかながら本の話が出来たら、そう夢想していたものだが、予想し得なかった事態に困惑した頭は早々に自室へ引っ込んでしまった。今も右腕にはコトの両手が控えめに添えられており、勇気の無い自分は玄関先から動くことすら難しく感じていた。

「あら! ごめんなさい、俊彦さんを立たせたままで」

 そして、修のことは変わらず「俊彦さん」と呼んだ。説明が欲しくて桃子に視線を送ったものの、「話を合わせてください」としか言われず、誰と間違われているのか分からずにいる。

 コトが申し訳なさそうに手を離し、杖を突いて案内を始める。居間に通された修は、おずおず座布団に腰を下ろした。

「本当は温かいお茶を出したいのだけれど」

 盆の上に載っていたのは、緑茶の入った細長い上品なグラスであった。表面に水滴を沢山付けさせて、うだる暑さの中を歩いた修にはとても魅力あるもので、正直冷たい飲み物で助かった。エアコンがあるにも関わらず電源を入れていないところや、この季節にホットを選ぼうとするあたり年齢のギャップを感じる。ともかく、先に用件を済ませようと鞄を漁った。

「コトさん、これ……」

 桃子から渡された時は気にせず仕舞ったので、今ここでタイトルを知った。一気に全ての血液が沸騰する。

「まあ、今日は俊彦さんが持ってきてくださったのね。久々に会えましたし、良い日になりました」

「これ、坂口安吾ですね」
「ええ、新しい作家さんですけれど、文体が好きで」

 テーブルに置いた本のタイトルをまじまじと見つめる。ここは目を細めるコトを見守ることが正解なのかもしれない。それでも、耐え切れず、机に両手を置いて前のめりになって距離を縮めた。

「僕、一番好きな作品が坂口安吾の「桜の森の満開の下」なんです! あれはタイトルの時点で良い、満開の桜という絶景の言葉に「森」を入れることで深さを、「下」を最後に足すことで闇が表れて、タイトルで一つの物語になっているんです。一瞬で心を奪われました! 一文字目から最後の最後までが一つの文のように繋がっていて、ちっとも穏やかではなくて激しくて、それなのに流れる文はまるで澄んだ水より透明で……あ! し、失礼しました」

 前から趣味が似ていると思っていた相手が大切に思う作品を好きだと知って、興奮したまま相手を無視して話し続けてしまう。コトの瞳が真ん丸に固まっているのを見て、恥ずかしさのあまりテーブルに頭を擦り付けて謝る。頭上から小さな笑いが零れた。

「ふふ、俊彦さんは元々読書をしていませんでしたから、てっきり私に付き合って本を読んでいると思っていたので、本が好きだなんて嬉しいです。私も好きですよ、桜の森の満開の下」

 顔が見えていないことを救いに思う。テーブルに埋もれた修は、耳まで赤くさせて身悶えた。嬉しくて申し訳なくて、もっと話をしてみたくなった。この女性は、一体何が好きで、どんな風に読書をするのだろう。昼頃お茶や菓子を片手に、もしくは夜寝る前に集中するのか。ゆっくり顔を上げる。

「……実は、この作品が強すぎて、恥ずかしながら安吾はこれ以外ほとんど読んだことがないんです。おすすめはありますか?」
「ええ、いいですよ。タイトルお伝えしますから、また今度借りてきてください。一緒に読みましょう」
「ぜ……是非!」

 数分前まで感じていた気まずさは、彼方の果てまで飛んでいっていた。