「もう一年以上前です。コトさんと本の整理をすることになって、多くの本を処分したことがありました。それが恐らくあの図書館に」

 なるほど、出所を知る以上に、修は「山口コト」が健在というところに安堵していた。寄付した理由がコト自身の行動によるところだと知り、とりあえずこの先コトの存在を忘れるまで会えない哀しみを背負うことはない。

「あの……差し出がましいことを言うようですが」
「コトさんに会ってみますか?」

 言い終わる前に提案され、頭の中を見透かされたようだった。これは、単なる誘いであると受け取っていいものか、図書館での出来事でやや疑り深くなった修は黙り込む。疑心の瞳を向けると、女性は両手を軽く挙げた。

「そう、怖い顔しないでください。何もしませんよ、ただ、私がコトさんと修さんを会わせたくなったんです」
「ほんとに……何も裏は無いですか?」

 修が俯き気味に問う。ややあって、控えめな笑顔が返ってきた。

「ええ、まあ、無いと言えば嘘になるかもしれません。一つ、頼まれごとをしてほしいんですよ」
「頼まれごと、ですか」

 物事が思い通りに上手く進むはずはない。むしろ、そうであれば綻びを探した方がいい。視界の外にあるだけで、必ずどこかに膿がある。あまり厄介なことでないといい、修は恐る恐る尋ねた。

「簡単なことです。私が借りた本を、今日これからコトさんに届けてほしいんです」

 無理難題をふっかけられて苦労した挙句コトに会えなかったら、残念でしばらく立ち直れなさそうだったので、すぐ解決しそうなお願いに安心する。しかしまた、奇妙な提案である。

「今まではあなたが届けていたんですよね? 会ったこともない男が突然尋ねたら拒否されませんか」
「大丈夫です。多分、すごく歓迎してくれると」

 もし、自分の訪問を喜んでくれて、一つ二つ好きな本の話でも出来たら嬉しいことこの上ないが、歓迎してくれる理由が思い付かない。見知った相手ならまだしも、普通だったら驚き、拒否をする。いまいち喜んでいい状態なのか分かりかねたまま、曖昧に了承するしかなかった。

 さっそく借りた本を届けると言われ、コトの家を目指すことになった。女性は介護ヘルパーをしており、コトを担当しているそうだ。以前はコトを連れて図書館に行っていたのだが、最近足を悪くして杖に頼っても長時間歩けなくなり、一人で借りに行くようになったという。

「そうだったんですね……ええと、お名前伺ってませんでした。僕は神田修です。お名前、教えて頂いても宜しいですか?」
「うっかりしてました。……遠藤桃子(とうこ)です」






「お庭が可愛らしいお家ですね」

 桃子からコトの話を聞くに広い和屋敷に住んでいるものかと思ったが、こじんまりした平屋の一軒家だった。何でも、それまでは築百年は下らない家に一人でいて、家の中に段差が多く転倒することもしばしばあり、生家だから離れたくないと渋るのをようやく一年前に売り払ったらしい。

――だから大量の本を寄付したのか。

 興味が薄れて手放したわけではないことが分かり、ほっとする。

 小さな庭には数種類の花が植えられていて、草花に疎い修でもほんのり香る匂いに心が癒された。

「あの家は思い出があるとしばらく駄々をこねられたのですが、いくらヘルパーが来ているといっても、夜は危ない上家中を毎日掃除出来るわけでもないので」
「それは大変でしたね」

 賃貸であるこの家も真新しくはないが、百年に比べれば孫程に幼い家だ。不釣合いな最新式のインターフォンを押し、家主を待つ。インターフォン越しに声はせず、いないというより使い方を知らないのかもしれない。少しして、かつかつ、ゆっくり杖の音が近づいてきた。

「どなた?」

 がらがら音を立ててドアが開く。上品な、髪の毛に桜をあしらった髪留めをした年配の女性が顔を出した。コトは、いきなり押しかける形になった修を見て、大げさ過ぎる程に驚いていた。そういえば、家に来るまで桃子がスマートフォンを取り出していなかったので、修がコトの家にやってくること自体知らないはずだ。年配者を脅かして喜ぶような曲がった性格はしておらず、おろおろ慌てて言い訳を考える。すると、突然右手がコトの両手に包まれた。

「俊彦さん!」

 見上げる瞳は、とても初対面の男に向けるそれではなく。修はさらに混乱し、右手を振りほどくことも叶わず、暑さからではない汗を垂らした。

 自分の名前と一文字も被っていないのだから他人と間違われているのは明確で、訂正したいのにコトの熱視線を無下にも出来ず、困惑するばかりだった。