「もう帰るんだ?」

 十五時になってすぐ帰り支度を始めた修に、休憩をしていた仲間が声をかける。いつもならば、だらだら休憩している人間と話してから帰るので不思議に思われたらしい。修は「用事があるから」と手を挙げて急いで荷物をまとめた。特にからかわれることもなく会話は終わり、裏口から外に出る。

 むわ、とした息をするのもためらう空気が覆った。十六時までは一番暑い時間だと言われるから仕方ないとしても、幼い頃は熱中症という言葉もあまり聞かなかった気がする。服に守られていない腕や足が太陽に照らされ、暑さと一緒にひりひりする痛みを感じながら自転車を図書館まで走らせた。

 中途半端な時間だからか、車も自転車もあまり置かれていない。入口近くの駐輪場に停めて中へ入る。エアコンの効いた室内が汗を急激に引かせていった。長時間いたら、体が冷やされて風邪を引いてしまいそうで、目的の本へまっすぐ向かう。室内と外の気温さが体によくないことを思い出しながら、見慣れた棚を上から眺めていった。

「うーん、志賀直哉……どうしよう。あっさり読める短編がいいな」

 ものの数分で一冊手に取る。カウンターでは女性が手続き中で、その後ろへ並んだ。視線が前にあるものだから、自然と女性の図書館の利用カードが目に留まる。

 修は目を剥いた。

「あのっ」

 不可抗力であろうと勝手にカードを覗き見してしまったとか、初対面の女性に突然声をかけるなど失礼なことだと、考える前に行動していた。見知らぬ、いや勝手に知っている女性をついに見つけた。

 何という偶然、予想の斜め上を遥かに超える衝撃を全身で浴びる。カードでは名前しか窺い知ることは出来ない。それで十分だった。そもそも、修が知っているのは名前だけなのだから。

「山口コトさん!」

 腕を掴まれ困惑した女性が振り返る。その顔を確認して、さらに仰天した。

 まさか、そんなはずはない。図書館に寄付した本の持ち主、コトはてっきり名前から察するに年配の女性だと思っていた。修の目の前にいるのは、若い女性。しかも、記憶が確かならば、午前中にバイト先のレストランで見た、あの窓際の席に座る女性だったのだ。

 名前を呼びかけられ零れ落ちる程見開かれた瞳のまま、修に向けて薄く色付いた口もとを緩める。修の緊張は躊躇なく最高点を軽々超えた。

「……いいえ、違います」



「そんな……」

 否定されるとは露程も思わなかった。万が一、修が知る裏表紙の女性と同姓同名の別人だったとしても、カードに書かれている名前は確かに「山口コト」だったのだから。何故、拒絶されたのか、自分がおかしな行動を取って怯えさせてしまったのか。

 聞きたいことは山程あったが、もうこちらが話しかけていい理由は無い。未だに腕を握っていることに顔を青ざめさせ、慌てて離しながら謝罪した。

「す、すみません! お名前が偶然見えてしまって、でもコトさんじゃなかったんですね」

 男が知らない女に後ろから急に腕を掴んで名前を呼ぶなど、一歩間違えれば、よくてナンパ、悪くて犯罪者まがいなことをしてしまった気がして、バツが悪く顔色は青どころか白に近い色にまで落ち込んだ。

 恥ずかしさに逃げ出したくなりながら、手の中にまだ借りていない本を思い出して足が動かない。カウンターに座る司書が困り顔で二人を見つめていたが、やがて女性が修の左腕にぽんと手を置いた。

「違うんです。いえ、私が山口コトではないことはそうなんですけど、コトさんの代理で来ていますので」

 灯りが差した。崖から突き落とされた相手にロープを投げられた心境だ。修は驚きのあまり頭を空っぽにさせたまま、コトの代理だという女性に手を引かれて図書館を後にした。

 次に気が付いた時には、女性と対面に座りコーヒーをすすっていた。本は無事借りられていたが、その記憶すら無い。一体どう歩いてきたのか、分かるのは自転車を図書館に置いてきてしまったことだけだった。閉館前に取りに戻らねば門が施錠されて自転車が檻に閉じ込められてしまう。不安気な修を見て、女性が柔らかに笑った。

「さて、私は確かにコトさんの知り合いなんだけれど、どうして知っていたのか教えてくれる?」

 暗に警戒されていることを悟り、今更ながら姿勢を正して一度頭を下げた。

「先ほどは失礼しました。嬉しくてつい……あ、僕は神田修と言います。実は、コトさんのことは名前しか存じ上げていませんで、図書館で名前が書かれているのを拝見しただけなんです」

「名前を? 何でまた」

「僕が借りようとする本の裏表紙に、たまに名前が書かれていることに気が付いたんです。きっと、図書館に寄付された持ち主のお名前だと、本の好みが似ているならお会いしてみたいと思っていたのです」

「その名前がコトさんだったってことね」

 納得がいった女性が頷く。思い当たることがあったらしい。