医師から「長くはない」と告げられてから二か月、今日も穏やかな日が過ぎる。あまりに起伏が無くて、たまに今が現実か分からなくなるくらいだった。この分なら冬を迎えられるかもしれない。そう思った芽衣は、朝晩涼しくなり始めたこともあり、早めに冬服をタンスの奥から引き出した。

「うーん、ちょっと皺になってる。クリーニングに出した方がいいかなあ」

 先日の一件で、今より若い頃に着ていた服を懐かしむコトが見られた。ここ数年に購入した服と、芽衣が幼い頃着ていただろう見覚えのある服もハンガーにかける。そうしてみたら、父と母がいた記憶と混ざって、あの時の時代が戻ってきたように感じてしまい、慌てて畳の網目を指でなぞってみたりした。

「用事をしているところごめんなさい。写真立ての横にある木箱を持ってきてちょうだいな」

 いつも通り修が遊びに来て、寛ぎながらどの本を読もうか吟味しているところに、コトが芽衣に頼む声がした。

 芽衣は、すぐ上にある木箱を手に取る。修が顔を上げて確認すると、いつか見たことのある木箱を芽衣がコトに渡すところであった。手のひらサイズの、飾りが付いていないシンプルなものだ。

 コトは木箱を数回撫で慎重に箱を開けると、中には古びてあちこちこげ茶の染みが付いた指輪と、こちらも古くはあるけれども小奇麗な一回り小さい指輪が入っていた。両手で木箱を支え、頬に軽く当てる。瞳からは細切れの涙が一つ、また一つ零れ落ちた。

「ああ、これよこれ。俊彦さんとの大事な思い出。今はもう、指が痩せてしまって嵌められないけれど、失くさないようにずっと大事にしていたの」

 二人の証。夫婦の証。形はどうであれ、紙きれに記すことは出来なかったけれど、俊彦がコトと一緒にいたいと想った結果がここにある。

「俊彦さんの分もあるんですね」
「そう、あの人ったら買ってすぐに逝ってしまったから。ご両親にお願いして、指輪は私がもらえることになったのよ」

 そう言うと、蓋をすぐに閉じてしまう。「失くさないように元の場所に戻して」と木箱を渡されたので、修は緊張した面持ちで写真立ての横に置いた。コトが、焦点が定まらない瞳で木箱を見つめた。

「私がいなくなったら、この前お参りした俊彦さんの家のお墓と、私たちのお墓にも、そこにそれぞれ置いてください」

医師の言葉はコトに伝えていない。知るはずもないのにすでに準備を始めているように思え、否定も出来ず頷くに留まった。芽衣が、コトの肩を優しく揺する。

「もし、そんな日が来たらってことでしょ? もう、おばあちゃんてば。お茶淹れてくるね」
「ありがとう。じゃあ、温かいお茶でお願いね」
「はいはい」

 コトは温かい飲み物が好きで、真夏でも変わらない。本が好きで作家が好きで、物語を書くことも好きだ。俊彦を大切に想い、子どもも孫も大事に育ててきた。いつも笑顔を絶やさず、コト自身が芽衣の日向であった。

 本に視線を戻し、一冊を広げた。ちらりとコトを一瞥すれば目を閉じるところで、聴く体勢に入ったことを確認して読み始める。

「今日は、コトさんと出会った日に借りた記念の、僕が一番好きな本にしました」

 何十回と読んだことのある物語を、一行一行ゆっくり声に出す。言葉は、開いた窓から入り込む風とともに流れていき、やがて霧散した。数ページ進めたところで、芽衣が盆を持って戻ってくる。コト好みの温かい緑茶だ。コトの背中に手を置いた。

「おばあちゃん」

 反応が無く、眠ってしまったのかと思った芽衣がぽんぽんと軽く叩いて、もう一度声をかけた。

「おばあちゃん」

「おばあちゃん?」





 コトが息を止めた。

 痛みを感じさせない、穏やかな顔が二人へせめてもの慰めになる。

 大怪我をしたわけでも、大病を患ったわけでもない、皆におとずれる最期としては、恵まれた程安らかな。家族の芽衣に、修に見守られ、十分な物語。一ページが静かに閉じられ、コトの本はこれでお終い。

 修が病院に連絡を入れると、間もなく家に医師がやってきた。その後は、医師から話を聞いたり葬儀場に行って説明を受けたり、慌ただしく一日が終わる。涙に顔を腫らす暇も無く、明後日にはもう、コトは小さな小さな白になってしまうらしい。

 ぽかんと頭ががらんどうになり、修と芽衣はコトが眠る布団をしばらく見つめ続けた。

「眠ってるみたい」
「本を読んであげたくなるね」
「お茶、飲めなかったね」

 最後に淹れたお茶は、誰が飲むこともなく排水溝へ流れてしまった。新しく淹れたものを、枕元に置く。コトはここにいるのに、骨と灰になって小さな壺に収まってしまうのかと思うと、少し、心臓が苦しくなった。

「芽衣さん、散歩に行こうか」
「こんな時間に?」
「うん」

 つい先ほど窓を眺めた時には明るさがあったのに、とうに陽は落ちて、暗闇にぽつぽつ街灯が佇んでいる。修が珍しく誘導するので黙って後についたけれども、数分歩いたところで意図に気が付いた。

「これ、おばあちゃんの散歩コース」
「うん、ちょっと行きたい所があるから」

 修の背中を見ていたが、ふいに左に曲がったため視線をそちらへ向ける。見慣れた公園が現れた。散歩コースでコトが一番好きだった場所だ。コトが座ったベンチに二人で腰を掛ける。公園の中はいくつかの灯りで照らされて、夜中だと思えない程周りがよく見える。ベンチから見える景色は、修がコトと語った日とは移り変わり、秋の花たちが咲き始めていた。

「同じ場所に座って同じ目線で眺めるのに、コトさんといた時とは全く違う。花も草の様子も、いつまでも同じものは無いんだ」
「そうだね」
「でも、同じじゃなくても変わらないものはある」

 芽衣を一瞬抱きしめて離れる。触れ合った鼓動は熱く、生きている証が芽衣を慰めた。芽衣が顔を両手で覆い、懺悔を始める。

「好きだよ、好き。ごめんなさい。好きで、ごめん。おばあちゃんがいなくなって、独りで旅立って哀しいのに、私はこんな時も好きな人がいる。私ばっかり」

 修を通して誰に伝えているのか。芽衣の哀しみは深く、たった二十年生きただけの修ではとても覆い隠せない程だ。それでも修は、芽衣を守ると決めていた。

「コトさんは一人じゃないよ。俊彦さんがついてる。あんなに何十年も想い続けていたコトさんを置いていくはずない」

 数センチの距離にいた手のひらを掴む。随分と冷たい。芽衣を温めたくて、指を絡めて繋がれた手に想いを乗せた。

 コトは沢山のことを教えてくれた。沢山の笑顔をくれて、俊彦への気持ちが修を通していくつ星へ流れただろう。コトが笑うと修まで嬉しくなり、その横で笑う芽衣はいつでもコトを見つめていた。

「ねえ、名前を呼んで」
「うん、芽衣さん」
「もういっかい」
「めい」

 ぎゅう、と手に力を込める。言葉でも、それ以外でも体一杯に想いを伝えていく。毎日、毎日、終わりが来るその日が来ても。

「僕はここにいるよ」

 芽衣の家族はもういない。名前を呼んで、両手を広げて芽衣を抱きしめてくれる家族はいない。手の届かない遠い場所で、皆肩を寄せ合って静かに眠っている。修の役割は、一人になった彼女を、一人きりにさせないこと。これから、時にはでこぼこの長い道のりを、明かりをともして道標になること。

「うん。傍にいて」

 灯りに照らされた影が伸びる。右に左に頼りなげに揺れ、やがて二つが一つに重なった。コトと俊彦、修と芽衣、形は違えど願うものは同じだ。

「きっとコトさんも、今頃は俊彦さんに会いに行ってる。今度こそ、二人は二人で幸せになるんだ」
「私たちはめいいっぱい遅くなろうね。おばあちゃんとおじいちゃんが待ちくたびれちゃうくらい」
「欠伸をしながら笑ってくれるよ」

                了