昨日は、掃除しがてら久々にコトの家へ泊まった。全くと言っていい程、眠れなかった。原因はそう、年下の彼氏だ。

 コトの世話を始めて、自分にはもう縁遠いものだと思っていたのに。しかも、しかもだ。まさか、密かに気になっていたあの、「惣菜屋の彼」で。

「高校生か、私は!」

 布団の上で蹲る。初恋みたいな気持ちを持て余すのが、どうにも恥ずかしい。本当に高校生なら、悩むこともなかった。年上の、クールな彼だとみんなに見せびらかしただろう。現実はその逆で、彼にとって相応しいのか気が引けてしまう。

「でも、意外と羨ましがられるかも」

 昨今、女性が年上の結婚は珍しくない。五歳差なんて、十年経てば三十歳と三十五歳。もっとずっと先になれば、ほんの誤差だ。

 年齢がなんだ。気にしているのは自分だけだ。大切なのは、この人とともに生きるという誓いだけ。俊彦とコトがそうだったように、自分たちも、一生をかけて愛したい。

「はあ~……病院行こ」

 陽射しが眩しい。徹夜明けには厳しく、それでも爽やかな気分になるのは、ここ最近の悩みが一気に解決されたからだ。コトに関しては、もしかしたら一過性のものかもしれないので期待し過ぎるのは時期尚早だが、一年振りにコトの声色で聞いた名前は実に輝いていた。

 すれ違う通行人みんなに挨拶がしたくなるし、花や小鳥にもいちいち目を向ける。今まで、こんなことはなかった。気分が晴れるとは、こういうことかと実感する。

 病院に付き受付を済ませ、目を擦りながら病室へ入る直前、声をかけられた。

「こんにちは。コトさん、起きていらっしゃいますよ」

 前からたびたび世話になっている医師にそう告げられ、挨拶だけして病室へ入る。上半身を起こしたコトが、窓の外に見える花々へ眩しそうに目を細めた。

「あら、芽衣ちゃん」
「お、おばあ、ちゃん」

 ぎこちない言葉。コトが芽衣を芽衣として認識したのは、昨日たまたまであったと考えていた。よもや思い出してくれるなど、溢れそうになる涙腺に喝を入れてベッドへ近寄る。皺くちゃの、暖かい手のひらにぎゅう、と触れた。

「心配かけたねぇ、もう年だから、お医者さんも病院でゆっくりした方がいいって」
「うん、そうした方がいいよ。私、毎日来るから」
「無理はしないでね、芽衣ちゃんは昔から我儘言わない子だったからおばあちゃん心配で」
「もう!」

 話がしたかった。

 祖母と孫の、何の意味も無い、他愛のない話がしたかった。もう二度と来ることがないと思っていた。家族が戻ってきた。唯一の肉親が。

「あの子、修さんと言ったかしら。是非また連れてきてね、可愛い孫のボーイフレンドは大歓迎」
「ボ、ボーイフレンドって」

 昨日の今日で図星を突かれ、言い訳も思い付かず黙ってしまう。コトはそれ以上からかうことはせず、静かに笑っていた。



「また、夕方にでも来るね」
「はい、無理しないでね」

 病人であるコトに気を遣われ、恥ずかしそうに手を振って病室を後にする。すぐさま修に現状を報告した。スマートフォンを持つ手が汗に濡れる。

『おばあちゃんが、コトさんからおばあちゃんになってくれました!』

 先ほど、興奮のあまり後から読んで随分おかしなメールを送ってしまったと反省したが、意味をくみ取ってくれた修が『それは良いですね』と返してくれる。喜びもつかの間、頭を風が通り過ぎた。

――おばあちゃんが思い出してくれたってことは、修君が「俊彦さん」として過ごした時間は消えちゃうのかな。

 自分ばかりがはしゃいで、修たちの関係を無視していた。修とコトは元々俊彦という縁で出会ったのだ。俊彦と修が切り離された今、修との日々をどこまで覚えているのか。

 せっかく、図書館の奇妙なきっかけで知り合った二人が、あの日々が無くなってしまったら、口には出さずとも修は悲しむに違いない。たった数か月の出来事だけれども、大切な時間だった。

 陽が傾き始め、バイトが終わった修と待ち合わせる。遅れていないのに急いで来たのか、ラフな恰好の修が手を挙げて息を切らしながら走ってきた。

「元気なコトさんに会いたくて急いじゃいました」
「おばあちゃんは逃げないよ」

 可愛らしい面もあるのだと大きく息をする背中を擦ってやれば、修が少し屈んで芽衣の目線に高さを合わせた。

「それと、僕の芽衣さんと一秒でも長くいたくて」

「僕の」その一言だけで年下の男に降参する。計算で言っているのであれば、とんだ小悪魔だ。女のそれと違い、色香無しで来る球は余計な装飾品が無い分さらに相手を狂わす。純朴な、昔を思わせる真面目な青年だと思っていたのに、良い意味で裏切られた。とはいっても、修もそのつもりで言ってはいないのだろう。

「私だって……修君といたいよ」

 甘酸っぱい空気に水を差してしまうことに頭で謝り、病院で行く道すがら、桃子は先ほどの疑念を正直に話した。

「あのさ、おばあちゃんが私のことを思い出してくれたんだけどね」
「はい」
「……そしたら、修君との思い出や私がヘルパーの振りをしていた一年間は、おばあちゃんの中でどうなってるのかなって」

 気まずさに押し潰されそうで、やや言葉を濁して伝える。修の顔が見られなくて俯かせていたが、隣の影が消え顔を上げて様子を窺うと、立ち止まった修が頬を掻いて困ったように笑っていた。

「僕なら平気です。芽衣さんに比べたら、家族ではない上まだ出会ったばかり。もし忘れてるならまた始めればいいし、俊彦さんとの思い出として消化されているなら、良い思い出になっててくれたらそれで。ちょっと残念ですけど。コトさんがいて芽衣さんがいて、僕がいる。それで笑っていられたら最高じゃないですか」

「うん……素敵だね」

 思いは言葉にしないと伝わらないと言われたが、言の葉に乗った瞬間、何倍もの力となって相手へ駆け抜けることを知った。修の思いに救われる。今までコトにしてきたことも、決して無駄ではなかったと自分を認められた。

「こんにちは」
「はい、こんにちは。昨日はどうもありがとう。そうそう、いつも本を読んでくださった方よね。お世話になっているのに、ご迷惑まで掛けてしまって」

 思いがけない科白に、修が目を丸くさせる。

「……いいえ、とんでもない。お世話になっているのは僕の方です。また、本を読みに伺っても構いませんか」
「それはもちろん。私一人ではもう読めないから。是非お願いします」

 コトの中でどう整理されたのか、良い方向に記憶が残っていてくれた。覚えていないかもしれないと思っていた二人には嬉しい誤算で、心の中で喜びに浸りながら何でもない振りをして返事をする。詳しく聞けば、ヘルパーも二人いて食事を作ってくれたと言うので、桃子として過ごした日々も残っているらしい。

「顔色良くなりましたね」

 修が見たのは救急車から降ろされるところが最後だったので、それに比べると色味が差して表情も柔らかく安心する。コトとはもっと沢山のことを話して、芽衣と一緒に毎日を過ごしたい。これからは、俊彦としてではなく、神田修として、また始める。

「本当、これならすぐ退院だね。帰りに先生に聞いてみようかな」
「そうだといいねぇ」

 時間も時間なため、挨拶だけで終いにして廊下に出る。二人で歩いているところに後ろから声がかかった。

「ちょっといいですか」
「先生」

 ちょうど担当医に呼ばれ付いていく。空いている個室に案内され、揃って腰を下ろした。退院の時期について教えられるとばかり思っていた芽衣は、準備された部屋に少々戸惑いを覚える。その予感は的中し、無情な科白に全身勢いよく水を浴びせられた気分であった。

「もう、長くない……って」

 あまりの言葉に気持ちが追い付かない。全身が拒否をする。冗談だと、間違いだと訂正してほしくて、聞きたくもない続きを促してしまう。

「何故ですか。軽い熱中症だって」
「今回のことはそうです。ただ、足腰が弱くなり、目の方も前に診た時より大分進行しています。機能が低下していて、風邪などで体調を崩されなくても近い内に……なので、覚悟はしておいて頂けると」
「先生! どうにかならないんですか!」
「芽衣さん!」

 掴みかかる勢いで詰め寄る芽衣を修が制止する。病気でも何でもなく、加齢によるものであるから、どうにもならないことは隣で生きてきた芽衣が一番よく分かっていた。むしろ、老衰で迎えられたらコトにとっては嬉しい最期といえよう。

「芽衣さん」

 修の呼びかけを受けて、だらんと両手が下に垂れる。これが事実なのか。

「すみません、先生にはよくして頂いているのに失礼しました」
「平気です。……コトさんは素敵な家族がいらして幸せですね」

「私なんか」もう、それ以上一言でも言ったら決壊したダムのように嫌なものが飛び出してきそうで、唇を噛んで仕舞い込む。医師は察して、修に問いかけた。

「それで、もう明日には退院出来るのですが、このままここで入院されてもいいですし、ご自宅に戻られても構いません。入院していれば体調を崩された時にすぐ対応出来ますが、ご自宅でゆっくり過ごされた方が元気に過ごせるかもしれません。どちらが良いということはないです。ご本人に都合の良い方を選んでください」

 修と芽衣は顔を見合わせた。大した治療も無く、どちらにいても変わらないのであれば、コトには好きなものに溢れていてほしい。相談しなくてもすでに結果は出ていた。「それなら、自宅へ帰らせてください」

 手続きを終え、病室へ舞い戻る。今日だけで三回目の訪問になってしまうが仕方ない。驚くコトの手を握り、芽衣が明るく言った。

「おばあちゃん、お家帰れるよ!」