「しばらくして、偶然出会ったのが修君。修君と会ってから、元気だった頃のおばあちゃんに戻ったのかなって思うくらい、よく笑うようになった」
白に囲まれた部屋の中で眠るコトに寄り添う。小さく口だけを動かす横顔が切なくて、彼女を慰めるには幼すぎる両手が恨めしい。
「私じゃ、無理だった」
服を握りしめる拳が色を失くす。芽衣が諦めてしまっては全てが終わる気がして、閉まりかかっている戸惑いの窓を叩いた。
「僕がすごいわけじゃないです。芽衣さんがいなければ、今のコトさんはいないですよ」
「適当なこと言わないで!」
口から漏れた声の大きさに、唇噛みしめてコトを見遣る。規則正しい息遣いにほっと胸を撫で下ろし、改めて修に向き直った。
「私は、私が芽衣だって言ってもらえなくなって逃げたの。ヘルパーのお姉さんの振りをして、仕事だって二十五なのにアルバイトを細々としているだけ。修君が思う程偉くないよ、私」
目の前にいる女性は、とても冷静で上品な、それでも、一人の人間であって。いつだって、心の内に押し込めて、誰にも言えずにいたのだ。ついこの前まで、自分もその中の一部であったことに、修は体が冷える思いだった。握った拳をゆるく開いて、大きく深呼吸をする。
「それでも、ずっとコトさんの傍にいたじゃないですか」
芽衣の体が大きく震え、ついに嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流して服を濡らしていった。芽衣へ向けた腕は背中を撫でることなく、服の裾を掴むに留まる。
「……僕の想像なので、もし違っていたら訂正してください。どこかの会社の社員じゃなくてアルバイトを選んだのは、コトさんに毎日顔を出して様子を確認したり、何かあった時に都合の付きやすいシフト制だからじゃないんですか。ちゃんと孝行してますよ、僕はそんな芽衣さんを尊敬してるんです」
「全部、全部私がしたかったことなの。でも……少しでも、私なんかの存在がおばあちゃんを繋ぎ止めていられてたかなぁ」
「大丈夫。コトさんは芽衣さんのことを忘れたって、それは表面的な出来事の一つで、ちゃんと芽衣さんを好きですよ」
面会の時間が過ぎ、状態の安定しているコトを残して病室を出る。家に帰ってもゆっくりする暇は無く、明日は朝から入院に必要な道具を持ってこなければならない。症状は軽いが、年齢を考慮して数日入院することになったのだ。
外に出ればすっかり夜は更け、見上げれば柔らかな光を放つ月がぽっかり顔を出している。ふと、修が思い付いた。
「月、出てますよ」
修に倣って芽衣も空を見つめる。
「ほんとだ、綺麗。修君、そんな素敵な話題出して「月が綺麗ですね」って言ってくれたりするの?」
「ううん」緩やかに首を振る。残念そうな芽衣を横目で確認して、再度上を向く。
「夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したと言われているけど、確固たる文献は存在しないし、二葉亭四迷が訳した「死んでもいいわ」なんてそもそも「I love you」を訳したものじゃなかったんです」
初めて知り得た事実に、芽衣が大げさにがっかりしたため息を吐く。それでも、視線はまろやかな曲線を描く月にある。
「何だ、そうなの。歴史って本当にあったことを記しているはずなのに、所々違ってたりするよね」
「でも、それを含めてドラマチックじゃないですか」
修の瞳に、月の代わりに芽衣が映り込む。修が芽衣の手のひらを両手で包み込んだ。芽衣はその手を、そのままに。
「昔も今も、言葉にしないと正しく伝わらない。でも、言葉にしたって時が経てば風化してしまう。だから、あなたの今が欲しい。僕の“今“を伝えたい。隣にいてもいいですか……出来たら、繋がれたこの腕が皺くちゃになるその時まで、ずっと」
一瞬にして頬が高揚する。修も同様だ。修に握られた手のひらから心臓の音が漏れてしまいそうで、一回深呼吸をして落ち着かせた。
「恋は罪悪なんでしょう。必死に守ってきたものを壊してしまう。私がおばあちゃんを大好きな気持ちが、いつか修君を想う気持ちで埋め尽くされてうずもれてしまう。忘れたくないのに!」
ふいに掴まれた手が引かれて体が修に吸い込まれていく。抱き留めた修は、柔く背中に手を回した。
「それなら僕は愛で許します。全てを壊すことが恋なら、それを許すのが愛だ。恋を愛することが恋愛、そうじゃありませんか。そうじゃ、だめですか。忘れたくないなら忘れなくていい。コトさんが大切なことは、素敵なことじゃありませんか。僕もコトさんが好きですよ。二人で、見守りながら生きていこう」
大きな瞳が今にも零れ落ちそうで、見当違いな心配をしながら結果を待っていると、片腕に芽衣の手が添えられ、そのまま芽衣の額が下りてきた。顔が熱い。手のひらも熱かったが、はたして自分が熱いのか芽衣なのか。「ふふっ」俯かれた顔から、微かな笑いの息が触れた。
「……私、すぐおばあちゃんになっちゃうよ。修君より五歳も年上だもん」
「そんなことない。あなたなら七十歳だって八十歳になったって可愛い」
「コトさんみたいになってほしい?」
「あなたは、あなたのままで」
修が手を差し出し芽衣が受け入れ、月に照らされ薄明るい道を二人きりで歩く。風が優しく祝福し、自分の足で進んでいいと背中を押してくれている。
「明日はバイト?」
「はい、午前中から。僕も病院行きたいんですけど」
「分かった。おばあちゃんの様子メールで伝えるよ。それにしても、修君こそおばあちゃんの孫みたい」
「孫じゃないですけど、僕は勝手に親友だと思ってます」
拳を胸に添えて自信たっぷりに宣言する。その通り、実際二人は家族の様であり親友だった。近くで見てきた芽衣が感じるのだから、誰が見ても思うだろう。強張っていた表情が徐々に緩んでいく。
「ねえ、修君、一つ告白していい?」
「なんですか? 良いことだといいなあ」
「悪いことじゃないと思うよ」
おもむろに投げかけられた言葉に耳を傾ける。他に秘密があることが純粋に気になった。意地悪な笑みを浮かべて芽衣が口を開く。
「私、本当は修君のことずっと前から知ってたの。金曜日の夜、いつも買いに来てたでしょ」
「え、何で、まさか」
「うん。あそこの惣菜屋で働いてるんだよ」
「じゃあ、店で見たことがないから厨房とかですか」
「そうだよ。声かけも「いらっしゃいませ」って言うだけで顔を出すことはないから、修君は知らなかっただろうけど。実は、厨房からも店内の様子は隙間から覗くことは出来てね。たまたま見かけてから気にするようになったの」
「あ……若い女の人の声聞いたことあります。あれが芽衣さんだったんだ」
もう行かなくなった惣菜屋での記憶を掘り起こす。
いつだったか、店の奥からレジにいる中年女性の声とは異なる声がして気になったことがあった。あれが芽衣だったとは、さすがに知り合う前の出来事なので出会って声を聞いても思い出すことはなかったが、珍しい年代の人が働いていると思ったことは覚えている。
「いつも決まった曜日と時間に来るから几帳面なのかなとか、一人分しか買わないから一人暮らしなのかな、彼女はいないのかなとか思ってた。最初は、写真でしか知らない俊彦さんにそっくりだって驚いたのがきっかけだけど」
「なんか、いつの間にか知られてて恥ずかしいですね。という僕も、勝手にバイト中芽衣さんのこと考えてましたけど」
芽衣が驚き、真ん丸にさせた瞳を修に向ける。五歳の年の差を感じない可愛らしさだ。
「常連さんって結構気になるもので、誰が何曜日に来るとか誰と一緒だとか無意識に覚えてたんです。それで、芽衣さんは土曜日の十一時にやってきてケーキセットを頼んで、外が見える窓際に座って本を読む……どんな本を読んでいるのか中身を知りたいって思ってました」
「さすが本好きらしいね」
「はは……すみません。カバーしてたからタイトルが分からなくて、余計気になったのかもしれません」
「窓際に座ってたのは」
「はい。それも意味があったんですか、外の景色を見たいから?」
「修君が、見たかったから」
言われた意味が理解出来ず、首を傾げて続きを待つ。芽衣と瞳がかち合って沈黙が二人を包み込んだ。
「窓を見てるとね、店内の様子が鏡みたいに映り込むの。もちろん、恥ずかしいから誰にも気付かれないように、そっと店員さんが通るたびに覗いてた。だから」
「だから……!」
ヒントが答えに変わり、修の顔中を熱くさせた。つまり、芽衣はずっと前から修を知っていて、修を見てくれていた。修がコトを気にしていたよりも、ずっと。
瞬間、導き出した頭が逆回転を始めたように何も考えられなくなる。ぐるぐると同じ場所を回って、まるで自分の尻尾を追いかけ回す犬だ。年上で社会人で、修には届かないものばかりで、諦める気持ちであると最初から覚悟していた。それがどうだ。どこをどう間違ったのか、まさか自分が想うよりも早く想われていたなど。
白に囲まれた部屋の中で眠るコトに寄り添う。小さく口だけを動かす横顔が切なくて、彼女を慰めるには幼すぎる両手が恨めしい。
「私じゃ、無理だった」
服を握りしめる拳が色を失くす。芽衣が諦めてしまっては全てが終わる気がして、閉まりかかっている戸惑いの窓を叩いた。
「僕がすごいわけじゃないです。芽衣さんがいなければ、今のコトさんはいないですよ」
「適当なこと言わないで!」
口から漏れた声の大きさに、唇噛みしめてコトを見遣る。規則正しい息遣いにほっと胸を撫で下ろし、改めて修に向き直った。
「私は、私が芽衣だって言ってもらえなくなって逃げたの。ヘルパーのお姉さんの振りをして、仕事だって二十五なのにアルバイトを細々としているだけ。修君が思う程偉くないよ、私」
目の前にいる女性は、とても冷静で上品な、それでも、一人の人間であって。いつだって、心の内に押し込めて、誰にも言えずにいたのだ。ついこの前まで、自分もその中の一部であったことに、修は体が冷える思いだった。握った拳をゆるく開いて、大きく深呼吸をする。
「それでも、ずっとコトさんの傍にいたじゃないですか」
芽衣の体が大きく震え、ついに嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流して服を濡らしていった。芽衣へ向けた腕は背中を撫でることなく、服の裾を掴むに留まる。
「……僕の想像なので、もし違っていたら訂正してください。どこかの会社の社員じゃなくてアルバイトを選んだのは、コトさんに毎日顔を出して様子を確認したり、何かあった時に都合の付きやすいシフト制だからじゃないんですか。ちゃんと孝行してますよ、僕はそんな芽衣さんを尊敬してるんです」
「全部、全部私がしたかったことなの。でも……少しでも、私なんかの存在がおばあちゃんを繋ぎ止めていられてたかなぁ」
「大丈夫。コトさんは芽衣さんのことを忘れたって、それは表面的な出来事の一つで、ちゃんと芽衣さんを好きですよ」
面会の時間が過ぎ、状態の安定しているコトを残して病室を出る。家に帰ってもゆっくりする暇は無く、明日は朝から入院に必要な道具を持ってこなければならない。症状は軽いが、年齢を考慮して数日入院することになったのだ。
外に出ればすっかり夜は更け、見上げれば柔らかな光を放つ月がぽっかり顔を出している。ふと、修が思い付いた。
「月、出てますよ」
修に倣って芽衣も空を見つめる。
「ほんとだ、綺麗。修君、そんな素敵な話題出して「月が綺麗ですね」って言ってくれたりするの?」
「ううん」緩やかに首を振る。残念そうな芽衣を横目で確認して、再度上を向く。
「夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したと言われているけど、確固たる文献は存在しないし、二葉亭四迷が訳した「死んでもいいわ」なんてそもそも「I love you」を訳したものじゃなかったんです」
初めて知り得た事実に、芽衣が大げさにがっかりしたため息を吐く。それでも、視線はまろやかな曲線を描く月にある。
「何だ、そうなの。歴史って本当にあったことを記しているはずなのに、所々違ってたりするよね」
「でも、それを含めてドラマチックじゃないですか」
修の瞳に、月の代わりに芽衣が映り込む。修が芽衣の手のひらを両手で包み込んだ。芽衣はその手を、そのままに。
「昔も今も、言葉にしないと正しく伝わらない。でも、言葉にしたって時が経てば風化してしまう。だから、あなたの今が欲しい。僕の“今“を伝えたい。隣にいてもいいですか……出来たら、繋がれたこの腕が皺くちゃになるその時まで、ずっと」
一瞬にして頬が高揚する。修も同様だ。修に握られた手のひらから心臓の音が漏れてしまいそうで、一回深呼吸をして落ち着かせた。
「恋は罪悪なんでしょう。必死に守ってきたものを壊してしまう。私がおばあちゃんを大好きな気持ちが、いつか修君を想う気持ちで埋め尽くされてうずもれてしまう。忘れたくないのに!」
ふいに掴まれた手が引かれて体が修に吸い込まれていく。抱き留めた修は、柔く背中に手を回した。
「それなら僕は愛で許します。全てを壊すことが恋なら、それを許すのが愛だ。恋を愛することが恋愛、そうじゃありませんか。そうじゃ、だめですか。忘れたくないなら忘れなくていい。コトさんが大切なことは、素敵なことじゃありませんか。僕もコトさんが好きですよ。二人で、見守りながら生きていこう」
大きな瞳が今にも零れ落ちそうで、見当違いな心配をしながら結果を待っていると、片腕に芽衣の手が添えられ、そのまま芽衣の額が下りてきた。顔が熱い。手のひらも熱かったが、はたして自分が熱いのか芽衣なのか。「ふふっ」俯かれた顔から、微かな笑いの息が触れた。
「……私、すぐおばあちゃんになっちゃうよ。修君より五歳も年上だもん」
「そんなことない。あなたなら七十歳だって八十歳になったって可愛い」
「コトさんみたいになってほしい?」
「あなたは、あなたのままで」
修が手を差し出し芽衣が受け入れ、月に照らされ薄明るい道を二人きりで歩く。風が優しく祝福し、自分の足で進んでいいと背中を押してくれている。
「明日はバイト?」
「はい、午前中から。僕も病院行きたいんですけど」
「分かった。おばあちゃんの様子メールで伝えるよ。それにしても、修君こそおばあちゃんの孫みたい」
「孫じゃないですけど、僕は勝手に親友だと思ってます」
拳を胸に添えて自信たっぷりに宣言する。その通り、実際二人は家族の様であり親友だった。近くで見てきた芽衣が感じるのだから、誰が見ても思うだろう。強張っていた表情が徐々に緩んでいく。
「ねえ、修君、一つ告白していい?」
「なんですか? 良いことだといいなあ」
「悪いことじゃないと思うよ」
おもむろに投げかけられた言葉に耳を傾ける。他に秘密があることが純粋に気になった。意地悪な笑みを浮かべて芽衣が口を開く。
「私、本当は修君のことずっと前から知ってたの。金曜日の夜、いつも買いに来てたでしょ」
「え、何で、まさか」
「うん。あそこの惣菜屋で働いてるんだよ」
「じゃあ、店で見たことがないから厨房とかですか」
「そうだよ。声かけも「いらっしゃいませ」って言うだけで顔を出すことはないから、修君は知らなかっただろうけど。実は、厨房からも店内の様子は隙間から覗くことは出来てね。たまたま見かけてから気にするようになったの」
「あ……若い女の人の声聞いたことあります。あれが芽衣さんだったんだ」
もう行かなくなった惣菜屋での記憶を掘り起こす。
いつだったか、店の奥からレジにいる中年女性の声とは異なる声がして気になったことがあった。あれが芽衣だったとは、さすがに知り合う前の出来事なので出会って声を聞いても思い出すことはなかったが、珍しい年代の人が働いていると思ったことは覚えている。
「いつも決まった曜日と時間に来るから几帳面なのかなとか、一人分しか買わないから一人暮らしなのかな、彼女はいないのかなとか思ってた。最初は、写真でしか知らない俊彦さんにそっくりだって驚いたのがきっかけだけど」
「なんか、いつの間にか知られてて恥ずかしいですね。という僕も、勝手にバイト中芽衣さんのこと考えてましたけど」
芽衣が驚き、真ん丸にさせた瞳を修に向ける。五歳の年の差を感じない可愛らしさだ。
「常連さんって結構気になるもので、誰が何曜日に来るとか誰と一緒だとか無意識に覚えてたんです。それで、芽衣さんは土曜日の十一時にやってきてケーキセットを頼んで、外が見える窓際に座って本を読む……どんな本を読んでいるのか中身を知りたいって思ってました」
「さすが本好きらしいね」
「はは……すみません。カバーしてたからタイトルが分からなくて、余計気になったのかもしれません」
「窓際に座ってたのは」
「はい。それも意味があったんですか、外の景色を見たいから?」
「修君が、見たかったから」
言われた意味が理解出来ず、首を傾げて続きを待つ。芽衣と瞳がかち合って沈黙が二人を包み込んだ。
「窓を見てるとね、店内の様子が鏡みたいに映り込むの。もちろん、恥ずかしいから誰にも気付かれないように、そっと店員さんが通るたびに覗いてた。だから」
「だから……!」
ヒントが答えに変わり、修の顔中を熱くさせた。つまり、芽衣はずっと前から修を知っていて、修を見てくれていた。修がコトを気にしていたよりも、ずっと。
瞬間、導き出した頭が逆回転を始めたように何も考えられなくなる。ぐるぐると同じ場所を回って、まるで自分の尻尾を追いかけ回す犬だ。年上で社会人で、修には届かないものばかりで、諦める気持ちであると最初から覚悟していた。それがどうだ。どこをどう間違ったのか、まさか自分が想うよりも早く想われていたなど。