「芽衣さん、すみませんでした。友人が芽衣さんに変なことを言ってしまったようで、僕は詳しく聞いていないんですが、二人の様子を見る限り相当なことがあったんだと思います。友人も反省していました。実は先ほど会っていて、芽衣さんに謝っておいてほしいと伝言も受け取ってます」

「そんな……私もいけないところがあったの」

 璃子の言葉には棘があり、確実に攻撃を目的としていた。それでも否定しきれなかったのは、自分でも年下相手に甘えている自覚があったからだ。悪者がいるとしたら、璃子一人だけではない。

「それと、僕も気まずいからと距離を置いてすみません」
「私の科白だよ! いい大人がダメダメで」
「芽衣さんはダメなんかじゃないですよ」

「ダメじゃないです」芽衣の手を取り、コトへ導く。二人でコトが寝かせられる傍まで寄ると、ちょうど目が開いた。

「コトさん」
「おばッ……コトさん」

 瞳が揺れ、徐々に光が宿り、やがて見守る二人へ顔を動かした。

「芽衣さん、「おばあちゃん」と言ってみてはどうですか? こんな時だからこそ、家族の存在は大きい」
「だって」

 まだ混濁しているのか、きょろきょろ辺りを窺うだけで言葉を発しないコトを見て、修が芽衣に促すが、芽衣は顔を歪ませるばかりだ。

「無理だよ。おばあちゃんって言っても、「私はあなたのおばあちゃんなんかじゃない」って突き放されるの!」
「芽衣さん……」
「もう嫌だ、嫌だよぉ……」
「相変わらず泣き虫だねぇ」

 コトの指先が芽衣の頭に触れ、優しく揺れる。顔を上げると、コトが確かにこちらを見つめて静かな笑みを贈っていた。芽衣は口をぱくぱくと上下させるが、驚きのあまり一向に言葉が出てこない。

 コトの瞳にはしっかり芽衣が映り込んでいて、今日までのそれとはまるで違っていた。もしかして、今なら。

「名前を呼んで」

 もう叶わないとばかり思っていた願いを口にしてしまう。「お姉さん」と呼ばれる一年は苦痛でしかなく、何度も諦めそうになっては立ち止まっていた。

「私は、芽衣なの。おばあちゃんの孫なの! おばあちゃん、おばあちゃん」
「分かってるよ、芽衣ちゃん。泣かないのよ、おばあちゃんがスイカ切ってやるからねぇ」

 優しい手つきが、芽衣を認めてくれる。芽衣を「芽衣」だと、山口コトの孫であると。何故突然記憶が戻ったのか分からない。もしかしたら今、この一瞬だけの奇跡かもしれない。芽衣は縋り、コトは抱き留め、ただひたすらに頭を撫で続けた。

「あなた……名前は何だったかしら」

 ふと、芽衣の後ろに立つ修を見遣り、名前を問う。記憶が戻ったのだから、俊彦は過去となり、当然修とは別人として切り離される。複雑な面持ちをさせながら、初めて会う気持ちで名前を告げる。考えてみれば、自己紹介すること自体初めてかもしれない。

「……神田修です」
「修さん、良いお名前ね。もうちょっと近いてもらってもいいかしら、よくお顔を見せてちょうだい」

 言われるがまま、ほんの数十センチまで近づいてコトを見つめる。コトは目尻に皺をたっぷり増やして花を綻ばせた。

「あら、まあ……こんなおばあちゃんに言われても嬉しくないだろうけれど、修さん私の大好きな人にとても似ているの。だからきっと優しい人ね、芽衣ちゃんを宜しくお願いします」
「……はい」

 どこまでが彼女で、どこからが彼女だったのだろう。いや、きっと全部彼女だ。俊彦と過ごした日々を、芽衣と暮らした日々を、修と語り合った日々を彼女は生きてきた。忘れてしまっても覚えている。コトの心が、覚えている。





『コトさん、あなたとは結婚出来ません』
『私は大丈夫、気にしていないわ』

 俊彦に縋るコトを愛おしく背中を撫でようとして、寸でで手を止める。手を触れることすら今の自分には許されない気持ちになり、コトへ申し訳の立たなさに手のひらを地面に付いて恥じた。

『僕は! ……もう、死ぬのです。醜く生きて帰ってきた挙句妻をめとって死ぬなど、コトさんを苦しめるだけです。結婚してすぐ未亡人になって、あなたに良い事一つとて無い』
『そんな』

 言い返す術が無い。

 命を落とさず帰ってきたくれた俊彦だったが、片手を失い、腹に受けた傷が膿んで痛々しい姿は、確かに人々から良く思われなかった。「それならば、お国の為に」と影で言う者がいたことも知っている。きっと俊彦の耳にも入っているだろう。全てはコトを想っての為。しかしながら、俊彦が世界のコトには、世間の目からどう映ろうと、俊彦と離れることが一番の苦しみであった。

 一年が過ぎた。果たしてどう朝が来て夜を迎えたのか、瞳を涙に濡らして悲しみにもがいた一年だった。

 俊彦は生きた。しばらくは痛みに十分な休息が取れず、目の下にこしらえた隈が可哀想で、コトは一人きり涙に濡れた。看病に訪れてもそっけない態度を取られ、本心ではない心の痛みがコトにまで伝わってくるようだった。

――神様は、ずるいお方。

 試練は乗り越えるためにあるのだろう。それならば、辛くとも辛くとも、這いつくばって食いしばって耐えるしかない。コトは俊彦の傷も痛みも、分け合えることの出来ない苦しみにもがき続けた。

『もう、お腹は痛くありませんか』
『はい、お陰様で大分良くなりました。いつまでもご迷惑をかけて申し訳ありません。こんな情けない僕ではありますが、ご両親にもう一度挨拶に伺っても宜しいですか』
『……こちらこそ、不束者では御座いますが、宜しくお願いします』

 コトがどれだけ待ちわびていたか知っている両親は、片手が無くなった俊彦を歓迎した。すぐに式を挙げよう、子どもも早く欲しいものだと二人と毎日語り合った。



「俊彦さんの葬儀もとっくに終わった頃だったみたい、子どもがお腹にいるって分かったのは。式が決まっているから、俊彦さんは長男だったし跡継ぎを急がれたのかも、あの時代だしね。未婚の母というものはとても邪険に扱われて、親戚にも挨拶に行かれず随分肩身の狭い思いをしたらしいわ。でも、全然子どもに当たらなかったし、孫が生まれる頃にはその頃の親戚はいなくなったから、私は両親やおばあちゃんと暮らした時間はいつも幸せだったけど」