「ごちそうさまです」
「あら、もう帰られるの」

 湯呑を流しに片付ける修を、コトが引き留める声をかける。申し訳なさが募るけれども、これからヘルパーである桃子が来るのだから、コトの安全に関しては保障されるので失礼させもらう。

「すみません。また来ますから」
「楽しみにしています」

 コトは決して無茶を言わない。こちらが来られないと言えば「大変ですね、無理をなさらないで」と答え、明日は来ると伝えれば「嬉しい」と頬を緩ませる。男の三歩後ろを歩く女房のように、まことに慎ましい、美しさ際立つ女性だ。先日の璃子の様子を相まって、さらにコトの良さが心に滲む。

 璃子はどうしているのだろう。一度、話し合いたいと思う。彼女が原因で桃子と拗れてしまったことは許せない。しかし、仲良くなれた友人をただ一回の捻れで失いたくもなかった。

 自宅へ戻るために自転車を押して歩く。日中の茹だる熱が嘘のように、すでに秋を思い起こさせる風に体が喜ぶ。まだ夏は終わらないものの、そろそろ夜くらいは暑さに悩まされる日々ともお別れかもしれない。鞄に入れてあるスマートフォンが震えた。

『あの、修君』
「璃子……どうした?」

 いじらしい声が耳元をくすぐる。いつもの軽快な彼女は鳴りを潜めて、別人に思える控えめな音だ。

『この間のこと謝りたくて』
「こっちも聞きたいことがあるんだ、だから」
『修君……』

 耳元の声とは別に後ろから同じ声がした。振り向くと、すでに涙を浮かべる璃子がいた。








――今回は苦戦したけど、いつだって私の勝ち。

「って思ってたのに、なんでぇ」

 修が怒る顔を初めて見た。多少の我儘をしても、困った風で終わらせてくれる彼の。璃子は分からなかった。
 せっかく服を新調したのに、修はあの女のことばかり。どこからが間違いだったのか。

「お姉さん。一人? 俺、暇なんだけど」
「え~~?」

 ほら、小奇麗な化粧をして可愛らしい恰好をしていれば、それ以上の努力は必要無い。中身なんて、あって無いようなものだ。それなのに、それなのに。

「どうする? 暇でしょ?」

 大学がある。しかし、代返を頼めるし、プリントも誰かにもらうことが出来る。修と遊べないなら、暇に決まっている。

「ううん、これから学校なの。ごめんねぇ」
「じゃあ、連絡先は」
「スマホ持ってないの~」

 ざわつく気持ちをお金で落ち着けてもらおうとも思ったが、それをしてしまったら、もっとイライラが増しそうで、有り難い誘いを珍しく断り電車に乗った。大学へは行かなかった。

 翌日、することもなく大学へ行ったら修に会った。

 当然だ、同じ授業を受けているのだから。昨日の修は見間違いだった。そう思い込んでも、話しかけることが難しく、目が合っても不自然に逸らしていた。

 嫌われた、だろうか。

最初は、新しい種類の男だと興味を持った。親しくなって、新鮮な体験が出来るのではないかと。今までの男とは違うのでは、と。気が付いたら、「男」ではなく「修」として見つめていた。修ではないと、意味が無くなっていた。

 狭い視界が、さらに狭くなっていたのだ。つまり、告白させることも告白することもなく、振られたわけだ。

 なんだろう。

 分からない。涙が出る。

 分かるのは、もうダメだということだけだった。

「嫌われたくないよ」

 唯一だと気付いたのは、全てが済んだ後で。


「どうしたら」

 大教室へ入り、一番後ろへ座る。すぐに友人の奈々がやってきた。決して多くない、璃子に文句を言いながらも付いてきてくれる友人だ。

「璃子、最近神田君と話さないね。飽きた?」
「えっう、うん。そう! そうなの、ちょっと距離置いてみようっていうか」

 奈々の顔が曇る。彼女はしばしばこういう顔をする。

「ね、璃子さあ。もういいでしょ、これまでも何度もあったよ。よくない、もてあそぶみたいな態度」
「そんなこと。あ、もしかして奈々も修君狙い?」
「あんたね……悪気が無いから、なんて一番タチ悪い。小さい子どもじゃないんだから、そろそろちゃんとしないと。バカな男ですら璃子の本音に気付いちゃうよ」

 言うだけ言って、教室を出ていってしまった。授業は出ないらしい。残された璃子は、大勢の学生が室内にいるというのに、世界に独りになった気がして指先が凍えた。

 良いと思う相手に媚びを売って、女の視線なんか無視してこられたのに。一緒にいてくれる友人の言葉は痛かった。

 全てが手から零れ落ちていく。

 失敗、という言葉だけでは済まされない。

 いつも、自分が正しいと思っていた。正解は自分で決めるものだから。しかし、世の中は自分とその他ではなく、一人一人が主人公で、その他大勢だ。いつの間にか、自分を中心に世界を回している間抜けな王女になっていた。

「修君やあの人の気持ちなんて、考えたことなかった」

 間に合うとは到底思えない。そのまま無かったことにした方が楽ではないか。修がいる席を見つめる。あの優しい瞳に、もう一度自分を映してほしい。

 たとえ、後ろが崖だとしても。