白田は再三忠告してくれたが、これといった嫌な出来事も起きていない。むしろ、修にいつも笑顔で話題を振って楽しませてくれる。
修にとって「女子」はこちらに醸し出す雰囲気や言動が全てで、裏表が正反対にあるとは思っていなかった。一瞬感じた違和感も、気のせいだと思い直すくらい璃子は素直だった。
「まあ、でも、家に来たいっていうのは唐突だな。何を思ってるかなんて分からないけど、男相手に何かしてくるなんてないだろうし、とりあえず気を付けてればいいか。実は嫌ってて嫌がらせをするために近づく……なんて回りくどいことはないか」
部屋の掃除をしながら昨日の会話を思い出す。
挨拶や用事があってのことでもなければ自分から女に近づくことはしないため、女の考えていることは本の中でしか知らない。脚色されたフィクションは当てにならず、経験したことで想像してみる。
璃子は何故いきなり距離を縮めようとするのだろう。何か得があるだろうか。面白い話は無く、平凡的で、語り合えるのは本や作家のことくらいだ。同年代の女にとってこれ程までに取っ付きにくい男も珍しいとさえ思う。自分の価値を見出せず、年上の女一人にやきもき彷徨う男に。
途端、璃子が夕闇に潜む恐ろしい妖怪に思え、残暑であるにも関わらず寒さに震える。そんな馬鹿な考えは掃除に没頭して吹き飛ばそう。まだ八時だから時間が十分にある。年末でもないのに、普段使わない掃除道具まで取り出して念入りに隅を磨き始めた。
「しまった」
今度は集中した所為で頭を空っぽにし過ぎて時刻を把握出来ておらず、気が付けば約束の時間が間近まで迫っていた。洗面台の下に道具を仕舞い込み、手を洗いばたばた足音を立てて出かける用意をする。
玄関先の棚に置きっぱなしの鍵に手を掛け乱暴にドアを開けた。忘れ物が無いか頭で整理するが簡単に確認するだけに留まり、戸締りだけしっかりして速足でアパートを飛び出す。
その直後だった、テーブルに置かれたスマートフォンが鳴り出したのは。二度振動し、すぐに治まった。もっと部屋の中を見回していればと、この時のことを修は今でも後悔するばかりだ。
『修君ごめんなさい。五分くらい遅くなりそうです。 桃子』
「ああ……やっちゃった」
駅前に来てようやくスマートフォンが無いことを知り、顔を青くさせる。桃子と約束しているだけであれば、ここで待っていれば大した問題は無い。
しかし、今日は璃子とも会うことになっていて、どちらかの予定が狂ったりして会えかったら迷惑を掛けることになる。
璃子と会えなければ、桃子から弁当を受け取った後探せばいいかもしれないが、逆であったら璃子と大学へ行かねばならないから、ここでいつまでも待っているわけにも行かない。
取りに戻ったら確実に十時を過ぎてしまう。迷っているところに璃子の姿が見えた。
「しゅー君、待った?」
「ううん、僕も今来たとこだよ」
――桃子さんと先に会ってお弁当受け取っておきたかったけど、とりあえず璃子と会えたから、十時までに会えれば……。
広場に立っている時計台を見上げる。時刻はちょうど十時だった。
「あれ、もう十時か」
弁当の受け渡しで桃子が遅れたことはない。時間にルーズな場面にも遭遇したことがないので、恐らく急な用事か何かがあったのだ。きっとスマートフォンに連絡が着ていることを思うと、何故外に出る時にもっと確認しなかったのか今更思ったところでここにスマートフォンが無いことは変わらない。
悪いことでも起きたのか不安に思う一方、璃子を待たせておくことも申し訳なく、早くこの場を切り抜ける方法を考える。すると、交番の横に公衆電話がぽつんと心許無げに佇んでいるのが見えた。
テレホンカードは無いが、小銭はある。修は考える間も無く足を向けた。
「ちょっと待ってて、電話してくる」
「いいよぉ」
修の後ろ姿を見つめながら、璃子は広場の待ち合わせに使われる銅像の前でふらふら辺りを観察する。こうして修を待っていると、すでに付き合いのある男女に思えて、周りからもそう見えていると考えて一人高揚した。向こうも断らないのならばまんざらではないはず。いつ二人を繋げる言葉を言ってくれるのか、毎日スマートフォンを握りしめては焦がれていた。
繁華街ではない住宅地の多いこの駅は、改札に吸い込まれず駅前で立ち止まる人間は少ない。今も銅像の前にいるのは璃子を含めて三人だけだ。そこに四人目が現れる。何気なく顔を眺めていると、女の口から呟きが漏れる。それは姿かたちは知らねど忘れもしない、憎き女の声だった。
「あー、やっぱいない」
――遠藤桃子!
まさか会えるとは思っておらず、この機会を逃すまいとじりじり距離を詰める。
「どうしよう……返信も無かったし、もう電車乗っちゃったかな」
左腕にされている時計を見ながら独りごちる。憎い相手だろうと一方的に知っている関係なのだから、ただの待ち合わせなら突っかかることは無意味な面倒事だ。問題は彼女が持つ荷物だった。恐らくあれは弁当袋であり、柄は数日前に修が大学で食べていた弁当の横に置かれたものと同じ。
最初は親が作っていると考えたが、修が一人暮らしだったことを思い出してからは誰が犯人かやきもきしていた。まさか、一介のヘルパーだったとは。これはいいところに出くわした。
「ねぇ、お姉さん」
「……はい?」
訝し気に見てくる桃子に腹を立てながら、穏やかに話しかける。腹の底では煮えくり返った怒りの波で自ら溺れそうだ。右手で件の袋を指差した。
「誰かと待ち合わせ? 今電車行っちゃいましたけど」
「あ……えと、実は。学生っぽい男の子改札通ったか分からないですよね」
白々しく聞いてくる桃子に、苛立ちはとうに限界を迎えた。とりあえず、桃子が待っているのは修で間違いないらしい。自分より少し早く出会ったからといって、こうも開け広げに距離が近しいことを示されると、今すぐ弁当袋をひったくって投げ捨てたくなった。
思わず侮蔑のため息が出る。
「もしかして、遠藤桃子?」
あまり顔を覚えられるのは得策ではないのだが、我慢を出来る程神経は落ち着いておらず、滑る口を早々に諦めた。
「何で、私の名前……」
桃子のリアクションはもっともであったが、何気ない仕草すら璃子の心を乱す。自分を制御する頭はこれっぽちも残っていなかった。悪い部分全てが口から外に溢れ、桃子へ一直線に攻撃する。
「そんな顔で修君をたぶらかしたの? 何で、何の魅力も無いじゃない。年下の学生釣り上げて自分も若くなったつもりぃ? そのお弁当も家庭的を装ってるのか分かんないけど、勘違いしない方がいいですよ」
「な……ッ」
言い返せない。名前や修との関係を知られていることよりも、自分の気持ちを暴露されたことに驚き慌てふためく。明らかな動揺が見て取れて、璃子の心がようやく波を引いた。
反対に、桃子の心が荒波を立てた。
誰にも仄暗い心を見せたことはない。確かに桃子は修に好意を抱いている。けれども、弁当を作ることは喜ぶ顔が見たいだけで、全く下心など、璃子が言ったことなどあり得なかった。それなのにこの場を切り抜けられないのは、心うちを見抜かれたからではないか。そう思ってしまえば、羞恥が込み上げてきて大声で泣いてしまいたくなった。
「そんな、つもりじゃ」
反論すら思い付かずやっと一言紡ごうとしたところで、遠くに修の影が見えた。
こんなところにいたくない。また璃子に言われる。また醜い自分に気付かされる。桃子は逃げ出した。
「どこ行くの?」
返事を期待しない問いかけを、背中へ乱暴に投げる。口もとがだらしなく頬を揺らした。
――勝った!
腹の底で歓喜に満ち溢れながら、修に振り返る。ちょうどこちらへ戻ってくるところだった。
「修君」
これで、修は所有物となった。
これで、いつも通り。
いつも、通り。
修にとって「女子」はこちらに醸し出す雰囲気や言動が全てで、裏表が正反対にあるとは思っていなかった。一瞬感じた違和感も、気のせいだと思い直すくらい璃子は素直だった。
「まあ、でも、家に来たいっていうのは唐突だな。何を思ってるかなんて分からないけど、男相手に何かしてくるなんてないだろうし、とりあえず気を付けてればいいか。実は嫌ってて嫌がらせをするために近づく……なんて回りくどいことはないか」
部屋の掃除をしながら昨日の会話を思い出す。
挨拶や用事があってのことでもなければ自分から女に近づくことはしないため、女の考えていることは本の中でしか知らない。脚色されたフィクションは当てにならず、経験したことで想像してみる。
璃子は何故いきなり距離を縮めようとするのだろう。何か得があるだろうか。面白い話は無く、平凡的で、語り合えるのは本や作家のことくらいだ。同年代の女にとってこれ程までに取っ付きにくい男も珍しいとさえ思う。自分の価値を見出せず、年上の女一人にやきもき彷徨う男に。
途端、璃子が夕闇に潜む恐ろしい妖怪に思え、残暑であるにも関わらず寒さに震える。そんな馬鹿な考えは掃除に没頭して吹き飛ばそう。まだ八時だから時間が十分にある。年末でもないのに、普段使わない掃除道具まで取り出して念入りに隅を磨き始めた。
「しまった」
今度は集中した所為で頭を空っぽにし過ぎて時刻を把握出来ておらず、気が付けば約束の時間が間近まで迫っていた。洗面台の下に道具を仕舞い込み、手を洗いばたばた足音を立てて出かける用意をする。
玄関先の棚に置きっぱなしの鍵に手を掛け乱暴にドアを開けた。忘れ物が無いか頭で整理するが簡単に確認するだけに留まり、戸締りだけしっかりして速足でアパートを飛び出す。
その直後だった、テーブルに置かれたスマートフォンが鳴り出したのは。二度振動し、すぐに治まった。もっと部屋の中を見回していればと、この時のことを修は今でも後悔するばかりだ。
『修君ごめんなさい。五分くらい遅くなりそうです。 桃子』
「ああ……やっちゃった」
駅前に来てようやくスマートフォンが無いことを知り、顔を青くさせる。桃子と約束しているだけであれば、ここで待っていれば大した問題は無い。
しかし、今日は璃子とも会うことになっていて、どちらかの予定が狂ったりして会えかったら迷惑を掛けることになる。
璃子と会えなければ、桃子から弁当を受け取った後探せばいいかもしれないが、逆であったら璃子と大学へ行かねばならないから、ここでいつまでも待っているわけにも行かない。
取りに戻ったら確実に十時を過ぎてしまう。迷っているところに璃子の姿が見えた。
「しゅー君、待った?」
「ううん、僕も今来たとこだよ」
――桃子さんと先に会ってお弁当受け取っておきたかったけど、とりあえず璃子と会えたから、十時までに会えれば……。
広場に立っている時計台を見上げる。時刻はちょうど十時だった。
「あれ、もう十時か」
弁当の受け渡しで桃子が遅れたことはない。時間にルーズな場面にも遭遇したことがないので、恐らく急な用事か何かがあったのだ。きっとスマートフォンに連絡が着ていることを思うと、何故外に出る時にもっと確認しなかったのか今更思ったところでここにスマートフォンが無いことは変わらない。
悪いことでも起きたのか不安に思う一方、璃子を待たせておくことも申し訳なく、早くこの場を切り抜ける方法を考える。すると、交番の横に公衆電話がぽつんと心許無げに佇んでいるのが見えた。
テレホンカードは無いが、小銭はある。修は考える間も無く足を向けた。
「ちょっと待ってて、電話してくる」
「いいよぉ」
修の後ろ姿を見つめながら、璃子は広場の待ち合わせに使われる銅像の前でふらふら辺りを観察する。こうして修を待っていると、すでに付き合いのある男女に思えて、周りからもそう見えていると考えて一人高揚した。向こうも断らないのならばまんざらではないはず。いつ二人を繋げる言葉を言ってくれるのか、毎日スマートフォンを握りしめては焦がれていた。
繁華街ではない住宅地の多いこの駅は、改札に吸い込まれず駅前で立ち止まる人間は少ない。今も銅像の前にいるのは璃子を含めて三人だけだ。そこに四人目が現れる。何気なく顔を眺めていると、女の口から呟きが漏れる。それは姿かたちは知らねど忘れもしない、憎き女の声だった。
「あー、やっぱいない」
――遠藤桃子!
まさか会えるとは思っておらず、この機会を逃すまいとじりじり距離を詰める。
「どうしよう……返信も無かったし、もう電車乗っちゃったかな」
左腕にされている時計を見ながら独りごちる。憎い相手だろうと一方的に知っている関係なのだから、ただの待ち合わせなら突っかかることは無意味な面倒事だ。問題は彼女が持つ荷物だった。恐らくあれは弁当袋であり、柄は数日前に修が大学で食べていた弁当の横に置かれたものと同じ。
最初は親が作っていると考えたが、修が一人暮らしだったことを思い出してからは誰が犯人かやきもきしていた。まさか、一介のヘルパーだったとは。これはいいところに出くわした。
「ねぇ、お姉さん」
「……はい?」
訝し気に見てくる桃子に腹を立てながら、穏やかに話しかける。腹の底では煮えくり返った怒りの波で自ら溺れそうだ。右手で件の袋を指差した。
「誰かと待ち合わせ? 今電車行っちゃいましたけど」
「あ……えと、実は。学生っぽい男の子改札通ったか分からないですよね」
白々しく聞いてくる桃子に、苛立ちはとうに限界を迎えた。とりあえず、桃子が待っているのは修で間違いないらしい。自分より少し早く出会ったからといって、こうも開け広げに距離が近しいことを示されると、今すぐ弁当袋をひったくって投げ捨てたくなった。
思わず侮蔑のため息が出る。
「もしかして、遠藤桃子?」
あまり顔を覚えられるのは得策ではないのだが、我慢を出来る程神経は落ち着いておらず、滑る口を早々に諦めた。
「何で、私の名前……」
桃子のリアクションはもっともであったが、何気ない仕草すら璃子の心を乱す。自分を制御する頭はこれっぽちも残っていなかった。悪い部分全てが口から外に溢れ、桃子へ一直線に攻撃する。
「そんな顔で修君をたぶらかしたの? 何で、何の魅力も無いじゃない。年下の学生釣り上げて自分も若くなったつもりぃ? そのお弁当も家庭的を装ってるのか分かんないけど、勘違いしない方がいいですよ」
「な……ッ」
言い返せない。名前や修との関係を知られていることよりも、自分の気持ちを暴露されたことに驚き慌てふためく。明らかな動揺が見て取れて、璃子の心がようやく波を引いた。
反対に、桃子の心が荒波を立てた。
誰にも仄暗い心を見せたことはない。確かに桃子は修に好意を抱いている。けれども、弁当を作ることは喜ぶ顔が見たいだけで、全く下心など、璃子が言ったことなどあり得なかった。それなのにこの場を切り抜けられないのは、心うちを見抜かれたからではないか。そう思ってしまえば、羞恥が込み上げてきて大声で泣いてしまいたくなった。
「そんな、つもりじゃ」
反論すら思い付かずやっと一言紡ごうとしたところで、遠くに修の影が見えた。
こんなところにいたくない。また璃子に言われる。また醜い自分に気付かされる。桃子は逃げ出した。
「どこ行くの?」
返事を期待しない問いかけを、背中へ乱暴に投げる。口もとがだらしなく頬を揺らした。
――勝った!
腹の底で歓喜に満ち溢れながら、修に振り返る。ちょうどこちらへ戻ってくるところだった。
「修君」
これで、修は所有物となった。
これで、いつも通り。
いつも、通り。