「あれ……璃子?」

 はっと顔を上げたら、すぐ近くに修の顔があるではないか。嬉しさと同時に顔が冷えるのを感じた。しまった、ここには内緒で付いてきたのに見つかった。言い訳を考えて置けばよかったと、窮地に追い込まれた状況でやっと後悔する。

「え、えと」
「買い物かなんか? 僕、この辺に住んでるんだよ、偶然だな」
「そう! 偶然だねぇ!」

 まさか修の方から助け舟が出されると思っておらず、勢い良く首を縦に振って話を合わせる。強引であるが、ここで体勢を立て直さないと元も子もない。初めて来たから迷ったと言ってみれば、駅まで送ると言ってきた。やはり、気があるのか。思わせぶりな科白に一喜一憂しながら二人で歩き出す。

 並んでみると、背丈も璃子と比べれば大分上にあり、男らしい体つきに感動し、璃子の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる優しさに癒された。

「服でも買いに来たのか? 璃子って大学の近くに住んでるって言ってたし、ここはそんなに店多くないけど」
「う、ううんっ。ちょっと参考書探して何軒か回ってただけで」
「そうか。もう遅いから帰り道気を付けるんだぞ」
「あははっ先生みたい」

 自然な流れの会話に安心し、ふと口から漏れてしまう。

「さっき修君が出てきた家に女の人いたけど、親戚か何か?」

 せっかく誤魔化すことに成功していたところを自ら蒸し返してしまい、焦りから身振り手振りが多くなる。情けない。以前ならもっと上手に演技をこなしていた。

「あ、見かけて何となく思っただけだから! 全然怪しくないし!」
「ヘルパーさんだよ」
「ヘルパー?」

「そう、あそこの家におばあさんが一人で住んでて、そこに出入りしてる人。まあ、午前中に来てるヘルパーさんは挨拶くらいしかしたことないけど」
「へ、へぇ」

――なんだ。

 心配して損をした。勝手に彼女だと思い込んで、エイプリルフールに嫌な出来事を言われて後で嘘だったとばらされた気分になる。よかった、これであれば付け入る隙は十分にある。

 修の懐に入って、並んで歩いて、自分も綺麗な心になるのだ。見目は十分に気を付けているから、これで内面まで磨かれればもう怖いものは何一つ無い。





 目的のものを探す方法はもっぱらインターネットで、聞き慣れない単語を必死に辿っていく。勉強は好かないけれども、修に限っては別だった。

「あれ……」
「どうしたの?」

 知らない振りをしてさり気なく主張する。昔の文豪はおろか現代小説すら高校の授業で触れた経験しかないため、とりあえず先日覗き見して知った作家の本を大学の図書館で借りて、教科書と一緒に机に置いた。簡単に修が引っかかる。

「それ、芥川の短編集」
「芥川? あ、ああ! 出しっぱなしだった」

 我ながらわざとらしいと腹を抱えて笑い出すところを、隠すように短編集を鞄に仕舞って上辺の笑顔を張り付かせる。

「えへへ、恥ずかしいね」
「ごめん、ちょっと見せてくれる?」

「いいよ」もう一度取り出して修に渡す。まじまじと見つめる様は、璃子の作戦が合っていることを明示していた。感情が直接浮き出ない頬の筋肉もこの時ばかりは別で、ゆるゆると緩まる顔が非常に幼く、これをさせているのが自分だと思えば誰よりも近くにいると錯覚した。

「これ、璃子が借りたのか。誰かのお使いとかじゃなくて?」
「う、うん。そうだけど」
「興味あるのか?」
「あー、うん。つい最近読んでみたんだけど」
「そっか」

 愛くるしい表情に母性がくすぐられる。

 こちらが糸を垂らしてみると、すぐさま飛びつき短編集の説明を始めた。「有名どころを集めているから、読み始めるのにちょうど良い」「羅生門は高校でやっただろ」「地獄変はつい最近僕も読み直した」次々に情報を与えてくれ、一気に距離が縮まった気がした。

 読書が趣味の女は少ないのか、修が予想以上の反応をしてくれ、また、見目では決して靡かなかったのにこれくらいで近づいた修に落胆もしていた。まるで自分自身には魅力が無く、取って付けたまやかしにも負けたのだと宣告されたようだ。

「ね、今度家に遊びに行ってもいい? また用事で修君のとこの駅行くんだけど」
「家?」
「そう、別に外でもいいんだけど、用事のついでに遊んでほしいなって」
「まあ、それならいいけど」

 危機感というものが頭からすり抜けている修は、本好きならその話題が出来るだろうと軽い考えで了承する。この出来事により璃子は修にとって男の友人と大差無く、女の友人よりは近く、しかし恋人よりずっと遠いところに着地した。

「修君の家って三十分くらいかかるから実家?」
「いや、一人だよ。安いからそこにした」
「へー……一人なんだぁ」