――敬語だったから相手は年上、何をして修君を釣ったの。わたしから盗るなんてひどい女。
「どうしようかなぁ」
時間が無くて画像までは調べられず、桃子の顔が分からない。今の璃子にとってそれは些細なことだった。
時間はある。男に当てていた時間を修に捧げれば有り余る程にある。手始めに修の行動を調べることにし、今日の講義終わりに修と同じ車両へ乗り込んだ。
最寄り駅まで一本の電車を三十分、長い時間修を見つめることだけに徹する。メールが着たのか時間確認か、たまに携帯電話を見る。それ以外の時間を本に費やしていた。
本を読む習慣が無く、鞄に入っている紙といえば教科書かファッション雑誌の璃子にとって、異様な光景に思えた。思い起こせば、教室でも読書をしていたかもしれない。ということは、間違いなく本が好きなのだ。これは良いことを知った。
幸い、カバーをせずに読んでいるからタイトルは分かる。
全く知らない作者と作品名だが、読みたくて買うわけではないからこの際どんなものでも構わない。電車を降り改札を出る修の後を、一定の距離を保ちながら追った。自転車に乗られた時は焦ったものの、ほとんどスピードを出さずに漕ぐので何とか見失わずに済んだ。
コンビニで何を買うのか、誰かと連絡を取りながら歩いていないか、待ち合わせをせず民家に入った時はほっとした。こんな家に住んでいるのか、表札を見て愕然とする。
「山口……神田じゃないんだ」
まさか桃子と違う新しい女の登場かとも考えたが、山口は修のスマートフォンに登録されていた年配の女性らしき名前であった。やはり親戚かそれに近しい間柄らしい。それならば安心だと、今日のところは引き上げることにした。
普段から世話をしているのだとしたら、璃子の周りにいない純朴な青年と言える。
最初は見目から判断して、もっとクールな男だと思っていた。草食系と呼ばれる男には興味が無い。女に積極的な男がいい。何故、好みになんらかすらないはずの修を目で追ってしまうのか、知れば知る程意外な内面ばかり出てくるからなのか、もう理由はどうでもよくなった。
一日張ってみたが女の気配は無かった。取り越し苦労か、桃子も実は親戚というオチかもしれない。コトの家を離れ歩き出すと、ふいに横開きのドアが開く音と遠くから声が聞こえた。
「修君、もう来てたんだ」
振り返る。誰もいない。この辺りで古臭いドアの音など、今しがた璃子が見張っていた家しかあり得ないだろう。つまり、今の声は同名の他人ではなく、璃子の知る修に当てられたものだ。
誰だ。
薄壁の塀に耳をそばだてる。何か手がかりはないか、修にとってこの女の存在は自分より上だろうか。もしも上だったら許されない。
窓が開け放たれているらしく、修の低い声が璃子にまで届いてきた。
「コトさん、今日は天気が良いですね。横になっていて結構です。まずは本を読みますか? それとも世間話でも?」
「そうねぇ、それなら二人でしか出来ない話が良いわ。今日選んでもらった本に絡めて作家たちの一高時代の、もしくは帝国大の話はどうですか」
「いいですね、一高寮での話題も面白いものがありましたよ。例えば――」
漏れるのは、涼やかな風が凪ぐ穏やかな響き。話相手が家主だろう。二人の会話の内容など一つも分からないが、丁寧な話し振りに荒み切った心が表れた。
これだ。これが修の魅力。落ち着いた声は心を温め、相手に気配り言葉を贈る様はまさしく紳士だった。今までいない男だから、修だから惹かれた。話に区切りが付いて少しの間が空いてから、本の内容らしい言葉がつらつらすべらかに流れてくる。親の膝枕で聞く昔話を思い出し、目を瞑ってその場に座り込んだ。
いくらか過ぎた頃、声の調子が変わり話が終いになったことを理解する。さて、帰ろう模索していると修とコトの世間話に戻り、何となく続きが聞きたくて結局動けずにいた。
「それにしても、地獄変とは意外でした」
「読んだことはあるのだけれども、当時生娘でしたからどうにも怖くなってしまって。大人になっても買わなかったのです」
「他にも似た雰囲気の話はあると思うんですが……親子の、だからでしょうか」
目を細め、写真立てを眺めてから静かに頬を緩ませる。
「どうでしょう。ただやっと、自分以外の誰かと一緒であれば読めると思うようになりまして」
「僕でよければいつでも。他にも生活の中で見づらくて困っていることがありましたら、遠慮なく言ってください」
「では、さっそく。これは短編だったので、一緒に載っている話があればそちらも読んでもらえますか?」
「はは、欲が無いですね。承知しました、お嬢様」
「うふふ、俊彦さんお上手」
すでに修の言葉しか耳に入らない璃子は、一つ一つの物言いに感動し、年配者に優しい青年に尊敬の念すら抱いた。
――さすが修君! お年寄りに親切にするためにここにわざわざ来て。だから、遊びの誘いもノッてくれないし、忙しそうに帰っていくんだ。
自分もそうしたい。今までの自分を掻き消して、新しい命を吹き込んで。修の横を歩けるくらい身も心も綺麗な姿に。利己的な感情まで全て押し流してくれる修は、璃子の神様だった。
その時だ。例の女の声がした。
「修君、ご飯出来たよ。今日も食べてくでしょ?」
「はい、毎回すみません。いただきます」
一気に血液が沸騰した。会話が聞き取れたのはそこまでで、窓が閉められた室内からは時おり笑い声が届く程度であった。頭が空っぽになる。綺麗になりたいのに汚い何かで体中が埋め尽くされていく。右に左に、上へ下へ、考えがふらついて、どうしたらいいのか、何が自分だったのか、今ここに立っているのは誰なのか段々分からなくなり、やがて大きな霧に包まれた。
「どうしようかなぁ」
時間が無くて画像までは調べられず、桃子の顔が分からない。今の璃子にとってそれは些細なことだった。
時間はある。男に当てていた時間を修に捧げれば有り余る程にある。手始めに修の行動を調べることにし、今日の講義終わりに修と同じ車両へ乗り込んだ。
最寄り駅まで一本の電車を三十分、長い時間修を見つめることだけに徹する。メールが着たのか時間確認か、たまに携帯電話を見る。それ以外の時間を本に費やしていた。
本を読む習慣が無く、鞄に入っている紙といえば教科書かファッション雑誌の璃子にとって、異様な光景に思えた。思い起こせば、教室でも読書をしていたかもしれない。ということは、間違いなく本が好きなのだ。これは良いことを知った。
幸い、カバーをせずに読んでいるからタイトルは分かる。
全く知らない作者と作品名だが、読みたくて買うわけではないからこの際どんなものでも構わない。電車を降り改札を出る修の後を、一定の距離を保ちながら追った。自転車に乗られた時は焦ったものの、ほとんどスピードを出さずに漕ぐので何とか見失わずに済んだ。
コンビニで何を買うのか、誰かと連絡を取りながら歩いていないか、待ち合わせをせず民家に入った時はほっとした。こんな家に住んでいるのか、表札を見て愕然とする。
「山口……神田じゃないんだ」
まさか桃子と違う新しい女の登場かとも考えたが、山口は修のスマートフォンに登録されていた年配の女性らしき名前であった。やはり親戚かそれに近しい間柄らしい。それならば安心だと、今日のところは引き上げることにした。
普段から世話をしているのだとしたら、璃子の周りにいない純朴な青年と言える。
最初は見目から判断して、もっとクールな男だと思っていた。草食系と呼ばれる男には興味が無い。女に積極的な男がいい。何故、好みになんらかすらないはずの修を目で追ってしまうのか、知れば知る程意外な内面ばかり出てくるからなのか、もう理由はどうでもよくなった。
一日張ってみたが女の気配は無かった。取り越し苦労か、桃子も実は親戚というオチかもしれない。コトの家を離れ歩き出すと、ふいに横開きのドアが開く音と遠くから声が聞こえた。
「修君、もう来てたんだ」
振り返る。誰もいない。この辺りで古臭いドアの音など、今しがた璃子が見張っていた家しかあり得ないだろう。つまり、今の声は同名の他人ではなく、璃子の知る修に当てられたものだ。
誰だ。
薄壁の塀に耳をそばだてる。何か手がかりはないか、修にとってこの女の存在は自分より上だろうか。もしも上だったら許されない。
窓が開け放たれているらしく、修の低い声が璃子にまで届いてきた。
「コトさん、今日は天気が良いですね。横になっていて結構です。まずは本を読みますか? それとも世間話でも?」
「そうねぇ、それなら二人でしか出来ない話が良いわ。今日選んでもらった本に絡めて作家たちの一高時代の、もしくは帝国大の話はどうですか」
「いいですね、一高寮での話題も面白いものがありましたよ。例えば――」
漏れるのは、涼やかな風が凪ぐ穏やかな響き。話相手が家主だろう。二人の会話の内容など一つも分からないが、丁寧な話し振りに荒み切った心が表れた。
これだ。これが修の魅力。落ち着いた声は心を温め、相手に気配り言葉を贈る様はまさしく紳士だった。今までいない男だから、修だから惹かれた。話に区切りが付いて少しの間が空いてから、本の内容らしい言葉がつらつらすべらかに流れてくる。親の膝枕で聞く昔話を思い出し、目を瞑ってその場に座り込んだ。
いくらか過ぎた頃、声の調子が変わり話が終いになったことを理解する。さて、帰ろう模索していると修とコトの世間話に戻り、何となく続きが聞きたくて結局動けずにいた。
「それにしても、地獄変とは意外でした」
「読んだことはあるのだけれども、当時生娘でしたからどうにも怖くなってしまって。大人になっても買わなかったのです」
「他にも似た雰囲気の話はあると思うんですが……親子の、だからでしょうか」
目を細め、写真立てを眺めてから静かに頬を緩ませる。
「どうでしょう。ただやっと、自分以外の誰かと一緒であれば読めると思うようになりまして」
「僕でよければいつでも。他にも生活の中で見づらくて困っていることがありましたら、遠慮なく言ってください」
「では、さっそく。これは短編だったので、一緒に載っている話があればそちらも読んでもらえますか?」
「はは、欲が無いですね。承知しました、お嬢様」
「うふふ、俊彦さんお上手」
すでに修の言葉しか耳に入らない璃子は、一つ一つの物言いに感動し、年配者に優しい青年に尊敬の念すら抱いた。
――さすが修君! お年寄りに親切にするためにここにわざわざ来て。だから、遊びの誘いもノッてくれないし、忙しそうに帰っていくんだ。
自分もそうしたい。今までの自分を掻き消して、新しい命を吹き込んで。修の横を歩けるくらい身も心も綺麗な姿に。利己的な感情まで全て押し流してくれる修は、璃子の神様だった。
その時だ。例の女の声がした。
「修君、ご飯出来たよ。今日も食べてくでしょ?」
「はい、毎回すみません。いただきます」
一気に血液が沸騰した。会話が聞き取れたのはそこまでで、窓が閉められた室内からは時おり笑い声が届く程度であった。頭が空っぽになる。綺麗になりたいのに汚い何かで体中が埋め尽くされていく。右に左に、上へ下へ、考えがふらついて、どうしたらいいのか、何が自分だったのか、今ここに立っているのは誰なのか段々分からなくなり、やがて大きな霧に包まれた。