『コトさんはいつも本を読んでいますね』

 待ち合わせの五分前、必ず約束より早く俊彦はやってくる。だから、コトはそれよりも前に着いて、こうして今日の気分に乗る本を読みながら待った。彼が来ることを思いながら読み進める話は、一人家で読むよりもずっと気分が良い。本を閉じて鞄に仕舞い、すぐ隣に座った俊彦の涼やかな顔を見つめる。

『ええ、だって物語は、幼い少女にして時には恐ろしい殺人鬼にして、色香を放つ淑女にして、いつだって私を驚かせてくれるのです。こんな間近な冒険は他に無いわ』

 彼とは物心付いた頃からの付き合いで、幼馴染というものであった。一歳年上の彼は、知的で、鋭い瞳はいつもコトの前で柔らかに細まり、その顔を見ただけでコトの心は舞い上がってしまう。言葉は相手を思いやる優し気な雰囲気で包み込まれていて、十代であるのに年齢よりずっと上に思える落ち着いた大人の男だった。

『嬉しそうですね。僕も読んでみようかな』
『そうして! 私のでよかったらお貸しします』

 鞄ごと前に突き出すコトに、両手を胸の前に出して横に振る。

『いえ、僕は僕で買うよ。だから、良い本があったら教えてください。一緒にここで読んで、感想を言い合いましょう』

 秋が葉の色を変えて、でこぼこの道を一つまた一つと塗り広げていく。木々の傍に置かれたベンチも同じで、俊彦とコトを赤や黄色が祝福した。明日も二人はここで会う。ベンチに座り、穏やかな、ゆっくり流れる時を楽しむだろう。

 こんな日が続けばいい。

 何が欲しいとは言わない。今あるこの時があれば。
 一年後も、十年後も、五十年経ったってここで手を取り合って。

『では、私はこのベンチがいつまでもここにいてくれることをお願いしますね。私たちのとっておきの場所だもの』
『それはいいですね。是非、そうしてください』

 触ると木の温かみを感じ、俊彦の心と同じでそのまま横になって眠ってしまいたくなる。大切な逢瀬の場は二人だけの秘密に思え、この先誰と座ろうとも隣に俊彦を思い浮かべるのだろう。たとえ家族であっても、やはり俊彦に敵う者はいないのだ。

『ずっと一緒に』

 俊彦が手のひらをコトのそれに重ね、一回り小さなコトの手はすっぽりと覆われて見えなくなる。

『ええ、私は毎日あなたを想っています』

『僕だって、想わない日はありません。未来の気持ちを証明することは出来ませんが、何年経ってもコトさんが僕の一番であり続けることは確かです』

 贅沢な物はいらないから、ずっと未来で、痛くなった腰や足をお互いに支えて、孫が走る姿を眺めてみたい。

『何か形に残る物が欲しいですね』
『え?』

 思いがけない誘いにコトが見上げる。俊彦の顔は眩しく、コトを一直線に貫いた。

『僕たちの想いは言葉だけでは表しきれない。そして、何処にいても二人を繋げる物があったら良いと思いませんか』

『それなら……日本でもすでにされている方もいらっしゃいますが、西洋では結婚する男女が指輪を贈り合う習慣があるのです。先日読んだ本にも書かれていまして、左手の薬指に付けるそうですよ』

『指輪ですか。いいですね、きっとコトさんに似合う。でも、贈り合うということは僕も付けるのですよね。この指に似合うかなぁ』

 手のひらを空に翳して左右に振る。何気なく言ってみたことをさっそく真剣に考えてくれる様子に、鼓動が速くなるのを感じながら自分の左手も隣に並べる。

『平気です。俊彦さんは繊細で、それでいて少し骨ばった男の人らしい素敵な手をしていますから』

 並んだ手のひらが重なり一つになる。コトは心臓の音まで聞こえてしまうのではないかと、嬉しさの中で恥ずかしさを一杯にさせた。

『有難う御座います。家に挨拶を済ませたら、二人で買いに行きましょう』
『はい』

 将来の約束を交わす。

 幸せというものは、環境ではなく気持ちの問題である。人からしたら不幸に思えても、気の持ちようで幸せになれるものだ。しかし、今この瞬間は、誰に話しても幸せだと手放しで認めてくれるだろう。それくらいコトにとって奇跡の瞬間であった。

――幸せ過ぎて怖いというのは、こういうことをいうのね。

 握られた手のひらの温かみがコトを真綿に包み込む。運命の相手に出会えたのだ、明るい未来しか思い描けない。コトは想いを噛みしめながら目を閉じた。

 俊彦に召集令状が下ったのは、翌年のことだった。