「じゃあ、今日はこの辺で」
「あれ、食べていかないの?」

 夕食までいることが定番になっていたため、帰り支度を始める修に首を傾げてみせる。修の方はというと、伝え忘れたことに気が付き申し訳なさそうに頭を下げた。

「明日は急な早番になっちゃって時間がいつもより早いんで、適当に家にあるやつで済ませます。すみません、もし僕の分もあるならその分お金出すので持って帰ります」

「大丈夫、冷蔵して明日のお昼に回すから。あ、そうだ、金曜日の夕食代いつもくれるけどもういらないよ。これで修君のとチャラ。いい?」

 やはり気にしているらしく、しぶしぶ桃子の提案に乗ることにした。こちらは自分の好きなようにやっているだけなので構わない。それがもし、相手につまずきを与えているのであれば譲歩すべきだと思った。

「残念ねぇ」

 鞄に本を仕舞う修を寂しそうに見つめるコトに後ろ髪を引かれ、左手の先にちょんちょんと触れる。コトが見える位置まで距離を詰めてしゃがみ込む。

「大丈夫、また来ます。待っていてください」
「はい。待ってます」

 視線が合うと安心する。まだ見える。これなら、家の中での日常生活程度なら問題無い。もう一度手を触れてから、また来ることを伝え家を出た。



 翌日土曜日十一時、今週も桃子はレストランへやってきた。ケーキセットに文庫本、見慣れた光景だ。目配せをして、各テーブルを拭きながら自然な流れで桃子の席へ向かう。

「そういえば、まだ本屋か図書館行ってないですね」
「うん、いつでもいいよ」

 ちらりと手元を覗けばいつものブックカバーはしておらず、表紙が見えたそれはつい昨日修がコトへ読んだ本の第一巻だった。偶然、にしては出来過ぎている。昨夜桃子が本を眺めていたことを思い出した。

「その本……」

 言葉を選ぶ前に口を突いてしまっていて、口もとを押さえるが遅かった。桃子は修と本を交互に見遣り、困った笑いを浮かべた。

「へへ、真似してごめんね。コトさんのおすすめを修君が読んでるの見たら私も読める気がして、帰り際に開いてる本屋さん見つけて買っちゃった。だから読み始めたばかりだし、ブックカバーも付け忘れたしで」

「珍しい、いつも落ち着いているのに慌ててたんですね。もうそれ何回か読んだから、読みにくいところあったら聞いてください」

「ありがとう」

 ケーキが運ばれてくるのが見え、席を離れる。次々に入ってくる客の対応をしていたらすぐ一時間が経過した。今日も十二時少し前、桃子がレジに並ぶ。ちょうどレジ対応をしていた修がふと思い立った。

「そういえば、今日もお仕事なんですか?」
「……ええ、この後コトさんとお昼ご飯を食べるの」
「そうでしたか、毎日暑いですけど無理はなさらずに」
「じゃあ」

「あの!」踵を返す桃子を止める修の手が、強く腕を掴む。痛みからではなく驚きで固まった桃子が恐る恐る見上げた。焦った顔が桃子に相談を持ちかける。

「夜にでも電話していいですか」
「電話? 大丈夫だけど……」
「有難う御座います! 呼び止めてすみません、それでは夜に」
「うん」

 お互い震わせる程度に手を揺らせる。下ろす瞬間、手のひらに触れる風が心地良かった。ドアに当てた指先が、いつか修のそれに伝わって同じ風を感じられたら。桃子は不思議な感覚に囚われながら、現実の暑さへ舞い戻った。

 レストランを出ると、太陽はすでに真上に到達してアスファルトを容赦なく熱くさせる。日傘を差して誤魔化すけれども、足元は陽に照らされたまま悲鳴を上げた。夏が終わる頃には、足だけがサンダルの跡に焼けてしまうだろう。鞄の中には毎週感じる少しの重み、しかし先週とは違った温かみがあった。

 通い慣れた道を迷いなく進んでいく。角を曲がれば、こじんまりとした一軒家が見えた。安心感の中に焦燥と喪失が溶けていく。一度でも水に交わってしまえば失われることなく、いつまでも桃子を貫くのだ。

「期待しない期待しない。五歳も離れてたら、相手してくれないよね」





 十九時を過ぎた頃、帰宅してからテーブルに置いていたスマートフォンがようやく主張を始める。三コール待ってゆっくり耳に当てた。

「もしもし」
『今大丈夫ですか?』
「いいよ、急ぎのこと?」
『急ぎというか……コトさん、目が見えなくなってきたことご存じですか』

 力が抜けてスマートフォンがするりと下にずれ、寸でのところで何とか落とさずに体勢を立て直す。修の言うことがじわじわと恐怖を運んできて、背中を覆いつくしてしまう。

「……知らない」

 一言答えるのにどれだけ時間がかかっただろうか。自分が知らされないことを修に教えられたことが悔しい。何より、コトの異変に気が付かなかった自分が悪いのに、その責任を他人に押し付けなければ保っていられない弱い心が憎かった。

『僕は毎日行かれるわけではありません。お仕事を増やすようで申し訳ないんですが、コトさんが日常生活で大変そうにしている時はお手伝いして頂けますか』

「分かった、教えてくれてありがとう。多分、修君は俊彦さんだと思っているから教えてくれたのね。コトさんは俊彦さんがいつだって一番だから」

『あの、答えられないことだったら言わないでください。俊彦さんって……コトさんの旦那さんですか』

 いつか聞かれることと、いつも伝えなければならないと。逃げていたのはいつだって自分だった。修は真面目で、不器用で、素直だ。

「ええ、俊彦さんはコトさんの旦那さん……になるはずだった人」

 事実を知り、悪いことをしたわけではないのに何度も謝る修を宥めて電話を切る。喉が渇いて、冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップに水を注いだ。

「……ッ、うう……」

 呻る声を隠すことも出来ず、投げ捨てるようにコップを流しに置いて速足でリビングへ戻る。テーブルに突っ伏して時間が過ぎるのを待った。

 一年前に枯れた涙は懲りずに後から後から溢れてくるのに、コップを触っても慌てて腕を柱にぶつけても、震える手のひらは指先の先まで何も感じなかった。