それから、修の生活ががらりと変わる。図書館に行かなくなったのだ。
コトが読みたいと言う本を聞いた次の日、以前のように借りるのではなく、本屋で買うことにした。どうせ、散財する相手のいない毎日だったのだから、ちょうどいい使い道が出来たと思えばいい。大学の本屋で買うこともあれば、地元の駅で買うこともある。本屋は、図書館とはまた違う、馴染み深い匂いがした。
家に持ち帰り本を熟読してから、読み聞かせのためコトの家を訪れる。一冊、また一冊と新しい本棚に仲間が増えていった。そして、少しでも暇な時間をコトに当てるため、二つ目の習慣だった金曜日の惣菜屋も行かなくなった。
ずっと通い続けるつもりでいたのだが、行かなくとも桃子が買ってきた惣菜を食べることが出来るので全く問題無く、むしろ食事をしながらコトと話が出来るため実に良い変化だった。
金曜日は忙しいらしく、勤務先から近いのか決まってこの惣菜を買ってくる。大学とバイト、そしてコトの家、一週間の予定は三つで大抵埋まってしまうが、忙しく過ぎる新しい環境は毎日を充実させた。
「今日は先週の続きの巻ですね。聞き取りづらいところがあったら手を挙げてください。読み直しますから」
「はい」
座椅子で目を瞑って話を聞いている姿に頬を緩ませながら、練習の成果を見せる小学生のように緊張した面持ちで話を紡ぐ。たまにつっかえることがあっても、修が休憩の時間を取るまで決して目を開けない。寝ているのかと顔を近づけてみたが、話の流れで表情をやや変えることがあったので、しっかり聞いてくれているらしい。自分の声なんぞ大した魅力も無いものでも役立つことがある。一人の人間を笑顔に出来るなら、それだけで満足だった。
「人に読んでもらうのは初めてですけど、良いものですね。耳から入ってくる音が、話の風景も運んでくれます」
「それは良かった。僕も嬉しいです」
「きっとあなたが博識だからです。沢山勉強されているんでしょう? 大学も行かれていますし」
コトは時々修が「俊彦さん」ではないことを理解している節を見せる。
それは偶然なのかそう聞こえるだけなのか、記憶が今に引き戻されるのか。いつも俊彦の姿を探すのは、悲しい出来事に蓋をしているのではなく、好きな人を思い出しているだけなのかもしれない。
幸せだった、ほんの数年間を、何十年もかけて愛する彼女は確かに俊彦とともに生きている。
「次は何を持ってきましょうか」
「そうね、たまには童話にしようかしら」
「僕なんかよりコトさんの方がずっと勉強家ですね」
「え、それ修君が買って持ってきてるの? 図書館は? コトさんの利用カード渡してたでしょ」
コトと二人だけの約束をした日から数回の読書会が過ぎる。誰かに読み聞かせをすることはなかったが、二回三回と終われば慣れたもので、科白部分に抑揚を付けるまでに至った。
本を読んでいる時にたまたま桃子がやってきて、目ざとく本の背表紙に図書館のシールが貼られていないことを指摘した。秘密にするつもりはないのでありのまま伝えると、眉を下げて申し訳なさそうに尋ねられた。こちらが勝手にしていることで恐縮されると、いけないことをして怒られるのを待つ子どものように身がすくんだ。
「もう使わないので返しちゃいました。何かあって借りるようなことがあっても、僕のカードがあるから問題無いし」
「どうして、お金だって大変だし」
つい先日、約束通り買ってきた湯沸かしポットを使ってコーヒーを作りながら、心配な顔をされる。
このポットも安いから修が自分で金を出して買ってきた。本当は二人で買いに行くはずだったのだけれど、目が見えなくなってきたコトに無理はさせたくなくて、一人で決めてしまった。だからとは言わないが、安く済んだこともあって金をもらわずにいると、コトはもちろん、桃子にまで渋い顔をされた。「いつも本を自由に読ませてもらっているお礼だ」と言ってようやく納得してもらったことを頭の隅に思い出す。
「最近、本棚を買ったんです。ここの立派なのに比べればおもちゃみたいだけど。ほら、出会う前からコトさんのこと気になってたって言ったこと覚えてます? だから、コトさんが選ぶ本ならはずれが無いなって。本を増やすのにちょうどいい」
反対されてもこれを止めるつもりはなかった。桃子が言う通り、図書館で借りてきて読んでやれば金もかからず手っ取り早い。ただ、本棚の中身を増やしたくて、それならコトが持っていない本でありたかった。暇な大学生の新しい趣味と捉えてほしい。ここにある本ならば、買うまでもなくいつだって読むことが出来る。断られない限りはいつまでもこの家に来るなのだから。
「うーん、まぁ。修君がいいならいいけど、なんかごめんね」
「僕が好きでやってることなので。それに、買ってるのも文庫だから安いですし」
貧乏学生と言いつつも、サークルにすら入っていないので本を買う余裕はある。コト自身が読むために図書館で借りていた時はハードカバーだったけれども、修が代わりに読むのなら大きな本でなくとも構わない。文庫ならば、一冊数百円と安価で、思ったより手に取りやすく、修の部屋に置かれた可愛い背丈の新しい仲間との相性もよかった。
テーブルに置かれたそれを桃子がひょいと持ち上げる。
「へー」裏に返したり中をぱらぱらめくりながら時おり呻る真剣な姿に、何をしているのか聞くことは出来なかった。
コトが読みたいと言う本を聞いた次の日、以前のように借りるのではなく、本屋で買うことにした。どうせ、散財する相手のいない毎日だったのだから、ちょうどいい使い道が出来たと思えばいい。大学の本屋で買うこともあれば、地元の駅で買うこともある。本屋は、図書館とはまた違う、馴染み深い匂いがした。
家に持ち帰り本を熟読してから、読み聞かせのためコトの家を訪れる。一冊、また一冊と新しい本棚に仲間が増えていった。そして、少しでも暇な時間をコトに当てるため、二つ目の習慣だった金曜日の惣菜屋も行かなくなった。
ずっと通い続けるつもりでいたのだが、行かなくとも桃子が買ってきた惣菜を食べることが出来るので全く問題無く、むしろ食事をしながらコトと話が出来るため実に良い変化だった。
金曜日は忙しいらしく、勤務先から近いのか決まってこの惣菜を買ってくる。大学とバイト、そしてコトの家、一週間の予定は三つで大抵埋まってしまうが、忙しく過ぎる新しい環境は毎日を充実させた。
「今日は先週の続きの巻ですね。聞き取りづらいところがあったら手を挙げてください。読み直しますから」
「はい」
座椅子で目を瞑って話を聞いている姿に頬を緩ませながら、練習の成果を見せる小学生のように緊張した面持ちで話を紡ぐ。たまにつっかえることがあっても、修が休憩の時間を取るまで決して目を開けない。寝ているのかと顔を近づけてみたが、話の流れで表情をやや変えることがあったので、しっかり聞いてくれているらしい。自分の声なんぞ大した魅力も無いものでも役立つことがある。一人の人間を笑顔に出来るなら、それだけで満足だった。
「人に読んでもらうのは初めてですけど、良いものですね。耳から入ってくる音が、話の風景も運んでくれます」
「それは良かった。僕も嬉しいです」
「きっとあなたが博識だからです。沢山勉強されているんでしょう? 大学も行かれていますし」
コトは時々修が「俊彦さん」ではないことを理解している節を見せる。
それは偶然なのかそう聞こえるだけなのか、記憶が今に引き戻されるのか。いつも俊彦の姿を探すのは、悲しい出来事に蓋をしているのではなく、好きな人を思い出しているだけなのかもしれない。
幸せだった、ほんの数年間を、何十年もかけて愛する彼女は確かに俊彦とともに生きている。
「次は何を持ってきましょうか」
「そうね、たまには童話にしようかしら」
「僕なんかよりコトさんの方がずっと勉強家ですね」
「え、それ修君が買って持ってきてるの? 図書館は? コトさんの利用カード渡してたでしょ」
コトと二人だけの約束をした日から数回の読書会が過ぎる。誰かに読み聞かせをすることはなかったが、二回三回と終われば慣れたもので、科白部分に抑揚を付けるまでに至った。
本を読んでいる時にたまたま桃子がやってきて、目ざとく本の背表紙に図書館のシールが貼られていないことを指摘した。秘密にするつもりはないのでありのまま伝えると、眉を下げて申し訳なさそうに尋ねられた。こちらが勝手にしていることで恐縮されると、いけないことをして怒られるのを待つ子どものように身がすくんだ。
「もう使わないので返しちゃいました。何かあって借りるようなことがあっても、僕のカードがあるから問題無いし」
「どうして、お金だって大変だし」
つい先日、約束通り買ってきた湯沸かしポットを使ってコーヒーを作りながら、心配な顔をされる。
このポットも安いから修が自分で金を出して買ってきた。本当は二人で買いに行くはずだったのだけれど、目が見えなくなってきたコトに無理はさせたくなくて、一人で決めてしまった。だからとは言わないが、安く済んだこともあって金をもらわずにいると、コトはもちろん、桃子にまで渋い顔をされた。「いつも本を自由に読ませてもらっているお礼だ」と言ってようやく納得してもらったことを頭の隅に思い出す。
「最近、本棚を買ったんです。ここの立派なのに比べればおもちゃみたいだけど。ほら、出会う前からコトさんのこと気になってたって言ったこと覚えてます? だから、コトさんが選ぶ本ならはずれが無いなって。本を増やすのにちょうどいい」
反対されてもこれを止めるつもりはなかった。桃子が言う通り、図書館で借りてきて読んでやれば金もかからず手っ取り早い。ただ、本棚の中身を増やしたくて、それならコトが持っていない本でありたかった。暇な大学生の新しい趣味と捉えてほしい。ここにある本ならば、買うまでもなくいつだって読むことが出来る。断られない限りはいつまでもこの家に来るなのだから。
「うーん、まぁ。修君がいいならいいけど、なんかごめんね」
「僕が好きでやってることなので。それに、買ってるのも文庫だから安いですし」
貧乏学生と言いつつも、サークルにすら入っていないので本を買う余裕はある。コト自身が読むために図書館で借りていた時はハードカバーだったけれども、修が代わりに読むのなら大きな本でなくとも構わない。文庫ならば、一冊数百円と安価で、思ったより手に取りやすく、修の部屋に置かれた可愛い背丈の新しい仲間との相性もよかった。
テーブルに置かれたそれを桃子がひょいと持ち上げる。
「へー」裏に返したり中をぱらぱらめくりながら時おり呻る真剣な姿に、何をしているのか聞くことは出来なかった。