「あら」

 修がいたのが意外と見えて、桃子は修を見るや否や口に手を当てて声を漏らした。いくら本を届ける使命を請け負ったにしても、渡して二三言話したら帰ると考えていたのだろう。

「お邪魔しています」
「こちらこそ、わざわざ有難う御座います。大変じゃありませんか」
「いえ、そんなこと」

 社会人よりずっと時間のある学生であっても、負担を承知で承る程お人好しではない。これは、ずっと憧れに似た感情を持っていた名前だけの彼女にやっと会えたからで、コトでなければ自ら提案することはなかった。

「すみません、もっと早く帰るつもりだったのにうっかり。失礼しますね」
「よかったらお夕飯一緒にどうですか。出来合いの物がメインで申し訳ないですけど、すぐお出しします」

「そんな、そこまでご迷惑は」遠慮した修だったが、コトも喜ぶと言われては強い拒否を言えず、そのまますとんと座布団の上に逆戻りした。手持ち無沙汰の体はまた本に吸い込まれていき、集中するコトの横で続きを読み始める。数ページ読み終わったところで、ふと柔らかな匂いが鼻を擽った。

「お味噌汁だ。しばらく飲んでないなあ」

 若い男の一人暮らしに汁物は縁遠い。嫌いではないが、出汁を取ったり具材を切ったり想像するだけで面倒そうな物を作ることはもっての外で、買うにしても汁を零さずに持ち帰るのもストレスが溜まりそうで敬遠していた。そもそも作り方を知らないため、作るとなれば、まず料理本を買うことから始めねばならない。思いがけず家庭の味と再会して腹がうずうずし出した。桃子が居間に顔を見せたので、修も立ち上がる。

「運ぶの手伝います」
「有難う御座います。コトさんはゆっくりしていてね」
「はい、お姉さん」

 コトは二人分の本を床に置き、空になったテーブルを見てにこにこ笑った。次々に置かれる食器に、おや、と修が目を輝かせた。

「これ、もしかして図書館横の惣菜屋じゃないですか?」
「よく分かりましたね。金曜日は忙しくて作る時間が無くなっちゃうので、お味噌汁以外はそこで買ってくるんですよ」

「僕も毎週金曜日は行ってますよ! 実は今まで金曜日を図書館の日って決めて通ってたので、帰りは自動的に隣接する惣菜屋で……って。でも、他のところに行きたくなくなるくらい美味しいですよね」
「そうですね、全部手作りですから」

 料理に詳しくないので、ここの店がどれだけレベルの高い店なのか誰かに説明するのは難しいが、とにかく美味いことは舌が肥えていなくとも分かる。毎日ヘルパーとして料理をしている桃子はきっと料理上手で、その彼女が全部手作りだというのだからそうなのだろう。惣菜というものは、冷凍を温めている商品もあると思い込んでいたが、さすがに有り合わせの技術ではこの味は出せないらしい。毎週通う店が思った以上に素晴らしいことを知り、夕食時に図書館に行くことがなくなっても、あそこには通い続けようと改めて思った。

「そういえば、曜日が重なってるのに会ったことありませんよね?」
「私が買うのが五時半過ぎなので。でも、顔合わせたの先週が初めてなのに、お店で会ったどうかなんてよく覚えてますね」
「ああ、やっぱり気付いてなかった。僕、桃子さんのこと前から知っていたんです。顔だけですけど」

 大きく見開かれた瞳が修を射抜く。きっと頭の中で忘れ去られた記憶を、引き出しを、ひっくり返して探し回っている。

「分からなくて当然ですよ。こっちはお客さんだから顔を覚えちゃいますけど、お客側はいちいち店員の顔まで見たりしないでしょ」
「店員……あ、もしかしてレストラン?」
「ピンポン」

 正解に辿り着いて明るい笑顔を見せる桃子に、修は新鮮な気持ちを感じた。年上だろうに、笑うと幼くて可愛らしくて、妙に守りたくなった。きっと小さいのがいけない。平均を超える程度の身長である修を見上げる桃子、ふわふわ揺れる黒髪も頂けない。ざわつく心臓が五月蠅くて、誤魔化すように会話を終いにさせて後の時間をコトとの本談義に費やした。

「ごちそうさまでした」
「いえいえ、と言っても惣菜ですし」
「今日も美味しかったわ。それに、とても楽しかった。俊彦さんと一緒に食事をするのは久しぶりですから」
「それは……よかったです」

 曖昧な笑みでその場を濁す。桃子は二人の微妙な雰囲気を感じ取りながら、手早く食器を片付けていく。

「手伝います」
「いえ、私の仕事ですから。修さんはコトさんとお話していてください」

 仕事を出されてしまえば手を出すことは難しく思われ、大人しく見守る。食器を洗う姿からも、慣れている日常が垣間見られた。