俺がアキラと初めて出会ったのは小学校四年生を目前に控えた春先。アキラの両親が離婚して、俺と親父が住む自宅近くのアパートに引っ越して来たのがきっかけだった。
当時アキラの母親は、俺の父さんも働くこの市内で一番大きい総合病院で看護師をしていた。離婚を機に勤め先の総合病院に近いアパートを探しており、たまたま俺の自宅近所に建つ年季の入った古いアパートに空き部屋を見つけたとのことだった。
アキラたち親子が引っ越して来た日、父さんとの外食帰りにアパートの前を通りかかると、偶然にも引っ越し屋のトラックから荷物を運ぶアキラ親子と遭遇した。
父さんがこの近くに住んでいることや総合病院で働いていることを話すと、アキラの母親からはぜひ息子のアキラと仲良くして欲しいと頼まれたのだった。
当時のアキラは両親が離婚したばかりということもあって、今より陰鬱で根暗な性格をしていた。数年後に知ったが、どうやらアキラの両親の離婚の原因というのが父親の浮気にあったらしい。この時のアキラは大好きな父親に裏切られたというショックが大きかったのだろう。
俺が通う小学校に転校して来ても、いつも陰気くさい顔で俯いており、加えて看護師の母親と質素で貧しい生活を送っていたようで、持ち物や洋服も親戚から譲ってもらったというお下がりを使っていた。そんなアキラをクラスのいじめっこたちが放っておくはずもなく、すぐにアキラがいじめの標的となった。
最初は見て見ぬふりをしていたものの、執拗に悪口を言われ、持ち物を隠され、砂や石を投げつけられても、ずっと黙っているアキラを見捨てることもできなかった。
ある日、とうとう俺はアキラをいじめっこたちから助けると、引っ張るようにして自宅に連れ帰ったのだった。
『どんな事情があるかは知らないけどさ。お前、悔しくないわけ? いつまでも暗い顔して、何も言い返さないから、アイツらが好き勝手やっているんだけど』
自分の部屋のクローゼットを開けながら、俺は部屋のドアの前でじっと縮こまっているアキラに話し掛ける。
父さんがいない時に誰かを家に上げたのは初めてだった。それもリビングじゃなくて二階の自室に案内したのも。
いつもは友達を連れて来ても、大体リビングで遊んでいた。家族以外を部屋に入れることを禁止されているわけではないものの、何となく自分のパーソナルスペースである自室を他人に見せるのは恥ずかしかった。父さんも滅多に入って来ないからと、お気に入りの特撮ヒーローのフィギュアや図工の授業で描いた動物の絵を飾っていたというのもある。子供っぽいって思われたらどうしようか。
『……君には関係ない。何不自由なく暮らしている君には、ぼくの気持ちなんて分かってくれない』
『分かるわけがないだろう! 何も喋らないで、ずっと泣きそうな顔をしている奴のことなんか。俺はただの人間なんだっ! 言われなきゃ分かんねぇだろう!』
それまでアキラが引っ越して来た日にアパートの前で初めて会った時も、いじめっこたちから陰湿ないじめに遭った時も、アキラはずっと唇を一文字に結んだままだった。そんなアキラがこの時になってようやく口を開いた。
この時はまだアキラが沈鬱な理由を知らなかったから、最初に発した言葉が拒絶だったことについかっとなって反射的に怒鳴った。だからこそ、後からアキラの事情を知って納得した。
この拒絶こそが、この時のアキラなりの精一杯の言葉だったのだと――。
そんなことを知らなかった当時の俺は、クローゼットからタオルとTシャツを取り出すとアキラに投げつけたのだった。
『でも、放っておけるわけもない! 目の前で困っている奴がいるのに見捨てること、それを助けることが出来るかもしれないのに見て見ぬふりをすること。そんな自分がどっちも許せないんだよっ! 俺がどんな気持ちでいつもお前のことを見ていたのか、いい加減に気付けよ。バーカ!!』
『ぶっ……』
力任せに投げたタオルとTシャツはアキラの顔に直撃する。当のアキラも『うわぁっ……』と引くように小さく声を漏らしながらも、怒るつもりは全く無いらしい。それどころか奇妙なものを見たように顔をしかめていた。
『変なプライド……。しかもバカって言ったし』
『何とでも言え! これ以上バカって言われたくなかったら、いつまでも砂まみれの服を着ていないで早くその服に着替えろ! 風呂も使っていいからさ!』
さっきからアキラが動く度に頭から白い砂が落ちてくるのが気になった。玄関前で落としたつもりだったけど、まだ残っていたのだろう。後で掃除するのが面倒だと憂鬱になる。
それでもアキラを助けたことは一切後悔していない。あのままいじめっこたちの好きにさせておく方が、もっとやるせない気持ちになっていたから。
『……勝手にそんなことをして怒られないの?』
『いいよ。どうせ父さんは夜勤だし、今夜は俺一人だし』
『お母さんは……?』
『俺は父さんと二人暮らしの父子家庭。母さんはいない。ずっと前から……』
物心ついた時には父さんと二人暮らしだった。何かの時に『母さんはどこにいるの?』と聞いたら、父さんはただ寂しげに笑った。
それだけで分かってしまった。俺の母さんは何かしらの理由で一緒に暮らせない存在なのだと。
これにはアキラも驚いたのか、何度も目をパチパチさせていた。
『寂しくないの? お母さんがいなくて』
『全然! だって俺には父さんがいるし、母さんの記憶なんて全く無いから、寂しいなんてちっとも思わないね! それにさ、俺がメソメソ落ち込んでいる方が父さんを悲しませるんだ。少しくらい我慢しないとな』
母さんのことに限らず、運動会で一着になれなくて悔しくて暴れたり、テストで良い点を取れなくて泣いていたりすると、父さんも同じくらい悲しんだ。昔はそれで良かったが、歳を重ねるにつれて罪悪感を持つようになった。父さんが俺に付き合って、わざと悲しんでくれているんじゃないかと。
アキラは『ふ〜ん』と意味深な返事をしたものの、俺が投げたタオルとTシャツを手放すつもりはないようだった。
『やっぱり君って変だね』
『好きに言ってろ。根暗』
『根暗じゃない。ぼくには暉って名前がある』
『知ってるよ。同じクラスだからな。転校生の淀江暉くん』
『暉くんって呼ばれるの、何か気持ち悪い……。アキラでいいよ。同じクラスの小邑祈里……くん』
『イノリでいいよ。なんだ。俺のことを知っていたんだな』
『君さ、自分で気付いていないだけで、結構目立ってるよ。授業中や掃除中はうるさくて、給食は食べるのが早くて、休みの人の牛乳ジャンケンにはいつも参加してるし』
『そうだっけ……?』
言われてみれば、授業中に飽きて近くの友達数人と机に落書きしていたことや、掃除の時間に箒をマイク代わりにして特撮ヒーローの主題歌を歌っていたことばかり思い出してしまう。昨日も今日も学校を休んだクラスメイト分の牛乳を巡って、給食の時間に希望者とジャンケンをして牛乳をお代わりしようとしたことも。
――今更ながら無性に恥ずかしくなった。穴があったら入りたい。
『その割には女子からは人気だし、男子の友達も多いし。これだから金持ちのモテ男は……。どうせバレンタインにはチョコをたくさんもらって自慢しているタイプだろう』
『うるさいっ!! バレンタインにチョコをもらったことなんて一度も無いし、チョコの自慢も……出来ることならやってみたいくらいだよっ!! 金持ちなのにモテなくて悪かったな、バカアキラ!!』
『またバカって言った……。イノリって、案外頭悪いんだね」
結局その日はアキラの母親も仕事で帰りが遅いということで、交互に風呂に入って、父さんが用意してくれていた一人分の夕食を二人で分け合って食べた。当然、食べ盛りの俺たちには足りなかったので、普段は禁止されているスナック菓子を勝手に戸棚から出してきて、それを摘まみながら当時気に入っていた特撮ヒーローの映画を二人で観た。
そのまま寝落ちするようにリビングで眠って、翌朝あらかじめ居場所を連絡していたアキラの母親が迎えに来るまで、一緒に明かしたのだった。
その日から自然とアキラと過ごす時間が増えた。いじめは高校に入っていじめっこたちと会わなくなるまで続いたものの、その頃にはアキラも本来の性格を取り戻したからか、俺と二人でいじめっこたちをやり返すようになった。
中学、高校と同じ学校に通い、大学までも同じ学校に決まった直後、アキラに大きな不幸が襲った。
アキラの母親が大きな病を発症して、その後手術と療養の甲斐もなく、初夏に入る前に絶息したのだった――。
当時アキラの母親は、俺の父さんも働くこの市内で一番大きい総合病院で看護師をしていた。離婚を機に勤め先の総合病院に近いアパートを探しており、たまたま俺の自宅近所に建つ年季の入った古いアパートに空き部屋を見つけたとのことだった。
アキラたち親子が引っ越して来た日、父さんとの外食帰りにアパートの前を通りかかると、偶然にも引っ越し屋のトラックから荷物を運ぶアキラ親子と遭遇した。
父さんがこの近くに住んでいることや総合病院で働いていることを話すと、アキラの母親からはぜひ息子のアキラと仲良くして欲しいと頼まれたのだった。
当時のアキラは両親が離婚したばかりということもあって、今より陰鬱で根暗な性格をしていた。数年後に知ったが、どうやらアキラの両親の離婚の原因というのが父親の浮気にあったらしい。この時のアキラは大好きな父親に裏切られたというショックが大きかったのだろう。
俺が通う小学校に転校して来ても、いつも陰気くさい顔で俯いており、加えて看護師の母親と質素で貧しい生活を送っていたようで、持ち物や洋服も親戚から譲ってもらったというお下がりを使っていた。そんなアキラをクラスのいじめっこたちが放っておくはずもなく、すぐにアキラがいじめの標的となった。
最初は見て見ぬふりをしていたものの、執拗に悪口を言われ、持ち物を隠され、砂や石を投げつけられても、ずっと黙っているアキラを見捨てることもできなかった。
ある日、とうとう俺はアキラをいじめっこたちから助けると、引っ張るようにして自宅に連れ帰ったのだった。
『どんな事情があるかは知らないけどさ。お前、悔しくないわけ? いつまでも暗い顔して、何も言い返さないから、アイツらが好き勝手やっているんだけど』
自分の部屋のクローゼットを開けながら、俺は部屋のドアの前でじっと縮こまっているアキラに話し掛ける。
父さんがいない時に誰かを家に上げたのは初めてだった。それもリビングじゃなくて二階の自室に案内したのも。
いつもは友達を連れて来ても、大体リビングで遊んでいた。家族以外を部屋に入れることを禁止されているわけではないものの、何となく自分のパーソナルスペースである自室を他人に見せるのは恥ずかしかった。父さんも滅多に入って来ないからと、お気に入りの特撮ヒーローのフィギュアや図工の授業で描いた動物の絵を飾っていたというのもある。子供っぽいって思われたらどうしようか。
『……君には関係ない。何不自由なく暮らしている君には、ぼくの気持ちなんて分かってくれない』
『分かるわけがないだろう! 何も喋らないで、ずっと泣きそうな顔をしている奴のことなんか。俺はただの人間なんだっ! 言われなきゃ分かんねぇだろう!』
それまでアキラが引っ越して来た日にアパートの前で初めて会った時も、いじめっこたちから陰湿ないじめに遭った時も、アキラはずっと唇を一文字に結んだままだった。そんなアキラがこの時になってようやく口を開いた。
この時はまだアキラが沈鬱な理由を知らなかったから、最初に発した言葉が拒絶だったことについかっとなって反射的に怒鳴った。だからこそ、後からアキラの事情を知って納得した。
この拒絶こそが、この時のアキラなりの精一杯の言葉だったのだと――。
そんなことを知らなかった当時の俺は、クローゼットからタオルとTシャツを取り出すとアキラに投げつけたのだった。
『でも、放っておけるわけもない! 目の前で困っている奴がいるのに見捨てること、それを助けることが出来るかもしれないのに見て見ぬふりをすること。そんな自分がどっちも許せないんだよっ! 俺がどんな気持ちでいつもお前のことを見ていたのか、いい加減に気付けよ。バーカ!!』
『ぶっ……』
力任せに投げたタオルとTシャツはアキラの顔に直撃する。当のアキラも『うわぁっ……』と引くように小さく声を漏らしながらも、怒るつもりは全く無いらしい。それどころか奇妙なものを見たように顔をしかめていた。
『変なプライド……。しかもバカって言ったし』
『何とでも言え! これ以上バカって言われたくなかったら、いつまでも砂まみれの服を着ていないで早くその服に着替えろ! 風呂も使っていいからさ!』
さっきからアキラが動く度に頭から白い砂が落ちてくるのが気になった。玄関前で落としたつもりだったけど、まだ残っていたのだろう。後で掃除するのが面倒だと憂鬱になる。
それでもアキラを助けたことは一切後悔していない。あのままいじめっこたちの好きにさせておく方が、もっとやるせない気持ちになっていたから。
『……勝手にそんなことをして怒られないの?』
『いいよ。どうせ父さんは夜勤だし、今夜は俺一人だし』
『お母さんは……?』
『俺は父さんと二人暮らしの父子家庭。母さんはいない。ずっと前から……』
物心ついた時には父さんと二人暮らしだった。何かの時に『母さんはどこにいるの?』と聞いたら、父さんはただ寂しげに笑った。
それだけで分かってしまった。俺の母さんは何かしらの理由で一緒に暮らせない存在なのだと。
これにはアキラも驚いたのか、何度も目をパチパチさせていた。
『寂しくないの? お母さんがいなくて』
『全然! だって俺には父さんがいるし、母さんの記憶なんて全く無いから、寂しいなんてちっとも思わないね! それにさ、俺がメソメソ落ち込んでいる方が父さんを悲しませるんだ。少しくらい我慢しないとな』
母さんのことに限らず、運動会で一着になれなくて悔しくて暴れたり、テストで良い点を取れなくて泣いていたりすると、父さんも同じくらい悲しんだ。昔はそれで良かったが、歳を重ねるにつれて罪悪感を持つようになった。父さんが俺に付き合って、わざと悲しんでくれているんじゃないかと。
アキラは『ふ〜ん』と意味深な返事をしたものの、俺が投げたタオルとTシャツを手放すつもりはないようだった。
『やっぱり君って変だね』
『好きに言ってろ。根暗』
『根暗じゃない。ぼくには暉って名前がある』
『知ってるよ。同じクラスだからな。転校生の淀江暉くん』
『暉くんって呼ばれるの、何か気持ち悪い……。アキラでいいよ。同じクラスの小邑祈里……くん』
『イノリでいいよ。なんだ。俺のことを知っていたんだな』
『君さ、自分で気付いていないだけで、結構目立ってるよ。授業中や掃除中はうるさくて、給食は食べるのが早くて、休みの人の牛乳ジャンケンにはいつも参加してるし』
『そうだっけ……?』
言われてみれば、授業中に飽きて近くの友達数人と机に落書きしていたことや、掃除の時間に箒をマイク代わりにして特撮ヒーローの主題歌を歌っていたことばかり思い出してしまう。昨日も今日も学校を休んだクラスメイト分の牛乳を巡って、給食の時間に希望者とジャンケンをして牛乳をお代わりしようとしたことも。
――今更ながら無性に恥ずかしくなった。穴があったら入りたい。
『その割には女子からは人気だし、男子の友達も多いし。これだから金持ちのモテ男は……。どうせバレンタインにはチョコをたくさんもらって自慢しているタイプだろう』
『うるさいっ!! バレンタインにチョコをもらったことなんて一度も無いし、チョコの自慢も……出来ることならやってみたいくらいだよっ!! 金持ちなのにモテなくて悪かったな、バカアキラ!!』
『またバカって言った……。イノリって、案外頭悪いんだね」
結局その日はアキラの母親も仕事で帰りが遅いということで、交互に風呂に入って、父さんが用意してくれていた一人分の夕食を二人で分け合って食べた。当然、食べ盛りの俺たちには足りなかったので、普段は禁止されているスナック菓子を勝手に戸棚から出してきて、それを摘まみながら当時気に入っていた特撮ヒーローの映画を二人で観た。
そのまま寝落ちするようにリビングで眠って、翌朝あらかじめ居場所を連絡していたアキラの母親が迎えに来るまで、一緒に明かしたのだった。
その日から自然とアキラと過ごす時間が増えた。いじめは高校に入っていじめっこたちと会わなくなるまで続いたものの、その頃にはアキラも本来の性格を取り戻したからか、俺と二人でいじめっこたちをやり返すようになった。
中学、高校と同じ学校に通い、大学までも同じ学校に決まった直後、アキラに大きな不幸が襲った。
アキラの母親が大きな病を発症して、その後手術と療養の甲斐もなく、初夏に入る前に絶息したのだった――。