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「ハルト、最近俺の事避けている?」
 あからさまなくらい、肩が揺れてしまった。
 なにを言われているのかとブリキのおもちゃよろしく首をゆきやの方へ向けると、あの無表情が珍しく不服そうな顔を貼り付けている。どこかわざとらしい顔だなとは思ったけど、多分こいつなりでオレに伝えようとしているんだと思う。
「別に、避けてないだろ」
 放課後の、人気がなくなった廊下。
 偶然顔を合わせたオレに、ゆきやは視線が合うなりずかずかと近づいてきた。
 月の双眸がじっとオレを見ていて、身体が思うように動かない。
「だってほら、屋上だって一緒に行くし」
「一緒に行っても、目が合わないのはなぜだ」
「オレだって、絵に集中しているし」
「最近筆の進みがよくないのは知っている」
「っ……その、ちょっと考えているというか」
「あれだけ感情に乗せて絵を描くハルトからは、想像しにくい言葉だ」
 こいつ、オレの事をよく見ている。
 ここまできてしまうと一周回って恥ずかしいと思ってしまうけど、そんな事も言っていられない。なんとかごまかそうと言葉を選んでも、それをゆきやは遮るように言葉を続けてきた。
「なにかもし、俺がハルトの気分を害するような行為をしたならば謝りたい……」
「ちげっ、そんなんじゃないって」
「なら、どうして避けるんだ」
 鋭い、裏のないまっすぐな言葉だった。
 けど、言えるわけがないだろう。この絵を描く行為が、もしかしたらお前の白さを汚すかもしれないって。それをなぜか躊躇っているオレがいるなんて、他でもないお前に言えるわけがない。
 なんとか言葉を絞り出そうとしても、上手い返しが見つからない。きっといつものオレなら適当にはぐらかす事ができるのに、それすらもできなかった。情けないくらいに、自分の眉が垂れ下がっているのがわかる。
「いや、オレは本当に……わ、わりっ、先行く!」
 若干無理やりだったとはわかりつつ、ゆきやの手を振りほどく。そのまま無我夢中で背中を向けて、オレはよそ見する事なく廊下を走り出した。
「ハルトっ!」
 遠くで、ゆきやの声が聞こえる。
 あぁ、やってしまった。拒絶をしてしまった。
 それがどんな意味なのか、オレだってわかっている。先に行くなんて言ったけど、もう二度ときてくれないのかもしれない。そんな不安を抱えながらも、オレは走る事しかできなかった。すべてから、逃げている気分だった。
 廊下の途中、階段を上がりながら浅い呼吸を繰り返す。
 衝動的に逃げたはずなのに、足は迷う事なく進んで行く。だってそこが、オレの逃げ場所だから。この色と言葉と形で溢れかえった世界からの、唯一の逃げ場所。
 立ち入り禁止のウェルカムボードを軽々と飛び越えて、ドアを強く開ける。横に隠すように置いてある用具に手をかけて、深く息を吐いた。あれから、下描きまではなんとか終わらせた。けれどもそこへ色を乗せる行為はやはり怖いと思えてしまい、上手く筆を持つ事ができない。
 情けなくて惨めで、けれどもなぜだか安心感がある。
 あいつを汚さなくていいんだと、そう思っているオレがいる。
「……あぁそうか」
 わかってしまった。
「オレは、そうか」
 オレはきっと、怖かったんだ。
 ゆきやがゆきやの色ではなくなってしまう気がして、オレの色になってしまう気がして。
 あの誰も足を踏み入れていない雪のような存在を自分で汚す行為が、きっとたまらなく怖かったんだ。
「……とは言っても、あいつもさすがに、ここにはもう」
「ハルト」
「っ……」
 ここにはもう、こないだろう。
 そんな言葉は、ものの数秒で消えてしまう。だってその声は、今まさに考えていた存在のものだったから。
「やはりここにいたか、ハルト」
「ゆき、や」
 慌てた様子で顔を出したゆきやは、肩で息をしながらも嬉しそうにオレを見ている。
「お前、そんな運動得意じゃないって」
「得意ではなくても走る事はできる……ハルトほど、体力があるわけじゃないがな」
 申し訳なさそうに笑った顔を見て、また胸が締め付けられる感覚があった。オレのせいで、こいつを走らせてしまった。
「ハルト、なぜさっきはあんな……ん?」
 なにかに気づいた様子で、ゆきやはこちらを覗き込んでくる。それがなにをしているのか、今のオレにはすぐに理解できなかった。できなくて、反応に遅れてしまう。
「下描き、できていたのか」
「あ、いやそれは、おいゆきや!」
「見てもいいだろ、俺のリクエスト、だし……」
 驚いたような仕草をしたゆきやは、すぐに頬を緩ませて嬉しそうにこちらを見る。
「これは、俺なのか? ……すごい、そっくりだ!」
「そりゃ、お前をモデルにしたわけだし……」
 オレにとっての今近くにある春は、紛れもないゆきやだと思った。
 だからと描いた下描きまではよかったが、そこから先塗るかと言われればオレの中で話は別だった。
「しかしなぜ、ここまで描き込まれているなら色塗りを」
「……わかんねぇんだよ、もう」
「……わからない?」
 恐る恐る落とした、小さい言葉。
 それを聞き逃さなかったゆきやは、言葉の意味が理解できないと言いたげにオウムのような復唱をしてきた。けど、この感情を誰よりも今理解したいのはオレの方だ。
「お前に色を教えてやるって、最初はそんな感覚だった……けど、ゆきやと過ごしているとわからなくなったんだ。色を教えるだって思っていたオレの中に、お前に色を教えるのが怖いと思っているオレもいるんだ」
 もうここまでくると、暴露以外の何物でもない。
 堰き止めていた言葉は波のように溢れていて、頭は止めろと叫んでいるのに心を押さえつける方法はどこにもなかった。
「お前はこんなに白くて綺麗で、言葉だって裏がない……裏がないと言うよりは、感情の関係で裏を知らないだけかもだけど。それでも、それがオレにはわからなくて、怖いんだ……」
「怖い?」
「何色も知らない存在に、初めて色を乗せる。その行為が、どんなものなのか」
 もう戻せないのは、オレが一番よくわかっている。
 オレの手にいるパレットは、どれももう白を忘れてしまっている。一度染まった色は、洗っても落ちる事がない。最初からその色だったと言いたげに、その場所にずっと居座り続けるんだ。
 オレはそれを、他でもないゆきやにやろうとしている。
 その事に気づいてしまった時、思ったのは純粋な恐怖だった。
 この色を、嘘つきと言われた色達をゆきやに乗せていく。色を知らない純粋無垢な白色に、オレだけの色が乗せられてしまう。それがどうなるのか、ゆきやはわかっているのだろうか。
「ハルト……」
「オレが見ているのは、結局誰にも共有できないんだ。絵にしたところで、嘘つきって呼ばれたり誰かの色を塗りつぶしちまう……なら、それならいっその事、オレの中で消してしまう方がいいんだ」
「それは、それだけはだめだ……こんな綺麗な世界を」
「勘違いだろ、お前にとって初めての色がこれだから、きっとそう見えるだけで」
「俺が、綺麗だと思ったんだ」
 はっきりと言葉を投げつけてきたゆきやに、迷いはなかった。どこまでもまっすぐで、裏がなくて。オレなんかよりも芯の通った声で、淀みなく言われる。これじゃ、返す言葉が見つからない。
 どう言い返すべきなのか、どう言えばいいのか。
 ぐるぐる回っていく言葉はどれもせいかいじゃなくて、不自然なくらい言葉に間が空いてしまった。
 多分、ゆきやもそれに気づいたのだろう。
 感情はわからなくても、ここでの言葉選びをこいつはわかっているから。ハルト、とゆきやの呼ぶ声が鼓膜を揺らす。
「いいんだ、それで」
 ゆきやの言葉はいつもと同じはずなのに、どこか暖かかった。
「それは、他でもない俺の望んだ話だ。今まで色を知らなかった俺が、ハルトのキャンバス越しに色を見る事ができた……それならば、俺にとっての色は紛れもなくハルトだ。だから、俺がハルトの色を見たいと思っている」
「……けど」
「けどではない、のだが……案外ハルトは、頑固なんだな」
 少しだけ、わざとらしく考える仕草。
 ううん、と小さく唸ったと思えば、声とは裏腹に無感情は表情で首をかしげていた。
「あぁ、そうだ」
「そうだって、なにが」
「わかった、じゃあ俺からお願いって形にするのはどうだ」
「……?」
 いまいち、言いたい事がピンとこない。
 けど、ピンとこなくても嫌な予感はしていた。だってゆきやの表情が、それを物語っているから。感情がわからなくても、色がわからなくてもこいつを見ていれば考えている事はわかってしまう。やめろ、やめてくれ。それを言わないでくれ。
 何度願っても、言葉にならない。まるで、オレが求めているようで。
「ハルト、俺を色で染めてくれ」
 少しだけぎこちなく笑ったそれは、きっとこいつがオレといた中で導き出した一番の表情だろう。笑顔とそれから、どこまでも優しく残酷な言葉。
 優しくて獰猛な、呪いの言葉だと思った。
「……なに言ってるか、わかってんのか」
「あぁ、もし色がわかる日がきたとしても……それは、その時だ。けれどもハルトの色は、ハルトからしか教えてもらえない。ならば、オレにその色を全部教えてくれ。だって俺は、何色も知らない存在なのだろ?」
「おまっ……言う事言うよな」
 感情がわからないからこそ、ストレートに言う方法しか知らないのかもしれない。
 けど、ここまで言われてはオレだってどうにかできるわけじゃない。オレに頑固なんて言ったけど、本当の頑固者は引き下がらなかったゆきやの方だ。
「……オレさ、多分ゆきやが羨ましかったんだ」
 だから、そんな言葉にほんの少しの恨みを込める。オレを呪ったように、オレだってゆきやの事を呪ってやる。
「何色にも染まっていない言葉を持ったゆきやが、羨ましかった」
「それは」
「ゆきやがそれで悩んでいるのは知っている……けどさ、一度色がついたらこういうのって、なかなか取れないんだよ」
 言葉だって絵具だって、どちらも同じだ。
 色がついたら、それはけっして落ちる事がない。
 一度言われた言葉は、心から落ちる事がない。
 感情も色も、根本にあるものは結局一緒なんだ。
「この言葉や色で、オレはこれからお前という存在を書き換えて殺すかもしれない……けどそれがお前の望んだ事なら、それは共犯だ」
 言い聞かせるように、言葉を選んだ。だって、全部本当だから。今からオレは、お前を殺す。手を差し伸べてくれた冬を、オレの色で殺してしまう。それをいいんだと言うのなら、それはゆきやだって共犯だ。
「だからこれは、最終通告だ……本当に、いいんだな」
 確かめるように、呪うように言葉を繰り返す。
「これでも本当に、色を教えてもいいのか?」
「なんだよ、いまさらだな……この白を、ハルトに殺してほしい」
 あまりにも熱烈で強烈で、物騒な誘い文句だ。
「俺は、ハルトに色を教えてほしいんだ。あの綺麗な世界を見ているハルトと、同じ世界を見たい……理由はそれだけじゃ、足りないだろうか?」
「お前、本当にさぁ……」
 よくそんな、かっこつけた事を言えるよな。
 ふざけて笑いながらも、それ以上胸を締め付けられる感覚はなかった。むしろ軽くて、今ならなんだって描けそうな気がする。
 落ち着くために呼吸を整えて、少しだけ目を伏せる。そのままもう一度瞼を持ち上げて、俺はキャンパスとイーゼルを並べ椅子を二つ引っ張り出す。
「ゆきや、そこ座って」
「俺が、なのか?」
「当然だろ、春を教えてやるんだから」
 キャンバスを挟んで、向い合うようにゆきやを座らせた。
「春の色、知りたいんだろ?」
「……あぁ、もちろん。ハルトが見ている、春の色を俺は知りたい」
 やけに強調するように言った言葉が、少し面白かった。
 そんなゆきやに笑いかけて、オレは絵筆を握りしめる。
「よし、とびっきりの春を見せてやるよ」
「じゃあ、未来の巨匠に全部お任せしよう」
「あぁ、任せろ!」
 ちょっとだけ買いかぶった言い方に笑い返して、絵具をキャンバスへ乗せていく。
 白だった世界が、少しずつ色をまとう。オレの見ている世界と同じ、鮮やかな世界を。
 なんだか、雪の上を歩いている時に似た気分だった。まだ誰も足を踏み入れていない、白い銀世界。
 オレ達の知っている雪よりも軽いそれは、一歩踏む事に足跡を残していく。オレが白いキャンバスに絵を描くように、一度踏んだら消えない足跡。
 そう考えれば、このキャンバスだって冬だ。
 ゆきやと同じ、なにも知らない純粋な冬。
「今からオレ、冬に色を付けるんだ」
「冬……俺のリクエストは春だが」
「あぁいいんだって細かい事は、そこで待ってろ」
 そうだ、こいつは冬だ。
 なにも混じる事のない、白く世界を知らない冬。この冬が溶けた先にある春の色はなんだろうと、そう考えてしまう。
 けどもしかしたらオレは、もう見ているのかもしれない。
 真っ白な言葉の文字に見える薄い色は、きっとこいつの感情達だから。
 なら、汚すなんて言葉ではない。オレがこの白色を溶かしてしまうのだと。そう考えると見方は自然と変わる気がした。
「……ハルト」
「なんだよ、今集中してるからあとで」
「俺に色を付けてくれて、ありがとう」
「っ……」
 こいつはこれから先も、オレに何度も感謝をするんだろう。
 けどそれはちょっとだけ違うんだと、オレは思っている。
「……だって、救ってくれたのはお前だろ」
 冬の先に、春はあるから。
 それは冬を消してしまう悲しい事だけど、きっと冷たい世界はいつか溶けるから。
 あの日、一人で屋上にいた時。
 オレに手を差し伸べて孤独を溶かしてくれたのは、間違いなく目の前の冬だった。
 服を着た冬は、今日も暖かな目でオレを見ている。
 この白さをいつか殺してしまうのも、もしかすると悪くないのかもしれない。その時こいつの言葉は何色になるのか、どんな形が見えるのか。
 そんな近い未来に思いを馳せながら、またオレはキャンバスへ絵具を乗せた。
 
 もうすぐ冬だ、羊雲が過ぎ去った後の、冷たい冬。
 そんな冬は、ひどく寒いはずなのに暖かいと思えてしまう。
 二人だけの世界で、誰も邪魔しない音と言葉から切り離された屋上で。
 あの時手を差し伸べてきた冬は無感情のまま、けれども嬉しそうにしながら春に殺されるのを待っていた。