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「ゆきやって、そういえば何組だよ」
 そんな日が何日か続いた頃の休憩、ふとオレは売店で買った炭酸飲料を片手にそんな事を聞いた。
「俺……?」
「他に誰がいるんだよ、そもそもここにくるのはオレ達くらいだろ」
「まぁ確かに、それはそうだな」
 オレの横でお茶を喉へ流し込んだゆきやは、なにかをごまかすように目を伏せていた。これも、ここ最近見てわかるようになった挙動だ。
「うーん、何組だろうね」
「おい、ごまかすな」
 放課後を一緒に過ごすようになって、ゆきやの事は色々わかってきたつもりだ。
 たとえば、スナック菓子はあまり好きじゃない事。
 たとえば、運動音痴だけど頭がいいって事。
 たとえば、真面目と言うよりは感情が薄く色を知らないから言葉に裏がないってだけの事。
 たとえば、本人は気づいていないけど無意識に優しい笑みを向けてくる事も。
 この屋上で、どれも知った事だ。
「そうだな、俺は一年生だ」
「それは知ってんだよ、スリッパの色同じだろ」
「ははっ、確かにそうだね。ちなみにハルトの隣のクラスだ、一年二組」
「えっ、廊下で会った事ないけど」
「あまり教室には行かないからな」
「それってなんで、あっ……」
 ちょっとだけ、わかってしまった気がする。
 冬が服を着たこいつは、嫌でも目立つ。
 それはきっと、いい意味でも悪い意味でも。
 オレだって、最初会った時は驚いたし人間の目はすべてが好意的になるわけではない。もしそれが理由なのならと考えると、胸が鷲掴みにされたような息苦しさがオレにはあった。
 言葉にせずそんな事を考えていたはずなのに、ゆきやは首をこてんとかしげたと思えばハルト、とオレの事を呼ぶ。
「多分、ハルトの考えている事は半分正解」
「……そんなにオレ、顔に出てたか?」
「だいぶん、けど半分は不正解」
 表情は変わらなくても、なんだか楽しそうなのはわかる。多分だけどこいつは、感情を知らないのではない。感情がただ、少しだけわからなくなっているだけだ。
「元々俺はあまり運動とかが得意ではない……加えて色素が薄い事が相まって身体も弱いから、よく保健室にいるんだ。そちらの方が、変な目で見られないからな。それにあそこは、元々白い。色を羨ましくならないから好都合だ」
 淡々と話すゆきやは、まるで他人事のようだ。自分の事なのになにを言っているのだと思ったが、本当に本人からすればそれだけの話らしい。
「……けど、屋上にはきたんだな」
 つい、からかうように言葉を投げた。
 それにゆきやは少しだけ指先を揺らすと、すぐに強く頷く。
「あぁ、言ったはずだ……俺は、白い世界から逃げたかったと。逃げて、逃げた先にハルトの色に出会えた」
「っ……」
 ちょっとだけ、ほんの少しだけ。
 ここ最近だがこいつの感情が、よく目に見えるような気がした。
 本人に聞いてもそこまで気にしていないようで、としかしたらオレの勘違いなのかもしれない。それとも、こいつが気づいていないだけか。
 どちらにせよ目に見えてわかるようになったこいつの表情は見ていて面白く、つい時間を忘れて見てしまう事が増えたと思う。
「……ルト、ハルト?」
「え、あ、なにっ」
「なにって、ハルトが話を振ったんだろ、俺は何組だって」
「あ、えっと……そうだった、な」
 柔らかく春のような笑った顔と言葉達から見えるのは桃色と黄色で、心地よかった。混ざりあっていない、純粋な色。まだ薄いそれはあのキャンバスのように真っ白だった文字に、水張りした一面に水彩を落としたように広がっている。鮮やかに、こいつの感情を表すように柔らかく広がっていく。
「っ……」
 綺麗だなんて、ついそう思った。
 ゆきやはオレの描く世界を綺麗だなんて言ったけど、それはお互い様だと思っている。それどころか、オレの見ている世界よりゆきやの世界は美しい。どれも最初とは違う、ここにきてから変わったゆきや自身の感情達。
 これに本人が気づくのは、いつになるのだろうか。
「……そうだ、それがいい」
「ハルト?」
 顔を上げたオレを不思議そうに見るゆきやに、ずいと顔を近づける。
「ゆきや、この前のリクエスト、春の絵。多分すぐ描けるかもしれねぇ」
「それは、本当か……?」
「あぁ、もちろんだ」
 自分でも、ずいぶんと声が弾んでいる自覚はあった。
 ゆきやも同じで、乏しい表情筋は嬉しそうだとわかった。
「ならその絵を、俺は楽しみにしている」
「あぁ、もちろんだ」
 描くと言った以上、半端なものは描きたくないから。
 空になったペットボトルを捨てに行くゆきやの背中を眺めながら、気合を入れるように頬を軽く叩いた。
「……なんか、ゆきやの奴」
 初めて会った時よりも、ずいぶんと感情がわかりやすくなったと思う。
 本人はまだ自覚がないらしくても、横で見ているオレがそう思うんだ。こいつに色を教えるたびに、あの白い言葉のキャンバスは感情を覚えているように見えた。
 オレが悲しい色の絵を描いた時は、少しだけ嫌そうな顔をしていた。
 オレが好きな食べ物をテーマに描いた時は、言葉や顔には出ていなくてもなんだかそわそわしているように見えた。
 オレが花火の絵を描いた時は、驚いたように目を見開いていた。
 こいつの知らなかった世界が、オレの描いた絵で色になっていく。あの冬のような存在が、少しずつ雪解けをしているように思えた。
「あとは、どんな色を……」
 そこでふと、言葉が詰まってしまう。
 ある事に、とんでもない過ちに気づいてしまったから。
 こいつは、そもそも色を知らない。オレのキャンバスだけに広がる色が認識できて、これが今時点でこいつに取って唯一の色だった。なのに、それなのにオレは。オレの見ている色ばかりをこいつに教えている。この共感覚で目に写った世界だけを、こいつに見せてしまっている。それはつまり、ゆきやが本物の色を知らない事に繋がってしまう。
 はたして、その色がゆきやの見たかった色なのだろうか。オレの色を見せて、それはただオレの自己満足になっているのではないだろうか。
「……これで、オレは」
 これで、本当にいいのか?
 オレがこいつに……こんなにも真っ白な存在に、色をつけて本当にいいのか?
 突然押し寄せた不安の答えは誰も教えてくれず、ただ蒼い空に吸い込まれていくだけだ。