*
夢を見ているのだと、すぐに分かった。
孝慈の鞄を漁っている自分自身のことを、上から俯瞰して、見上げていたからだ。
「ない……ない……、なんで。……どうして、無いんだよッ――!」
夢の中の僕は、現実には開けなかった孝慈の鞄の中をしっかりと見ていた。
孝慈の鞄の中を調べる夢の中の僕。
でも、彼の正体が分かりそうなものは、どこにも見当たらない。
生徒手帳ならあった。だが、手書きの持ち主欄には住所も誕生日も書いていない。
だめだ。もっと、確実に彼の正体に迫れるもの。保険証とか。そういう肝心のものがない。この鞄じゃなくて、財布の中とかに、肌身話さず持ち歩いてるのか?
他人の持ち物を血眼になって漁る僕。
その後ろには、いつの間にか松野が立っていた。
「…………」
松野が、軽蔑したようなまなざしで僕を見つめる。
「……何をしているの?」
「ま、松野――。ちがうんだ、これは――!」
「……孝慈くんを、疑っているの?」
「だ、だって、あいつが病院で言ってたこと、なにかがおかしかったから……」
「そんなこと関係ないよ。……どうして、孝慈くんの鞄を漁っているの?」
「だって、分からないから……。あいつが鈴夏のなんなのか、結局最後まで分からなかったから……だから、こうするしか、無かったんだ」
夢の中の僕は、稲田先生に電話をかけていないらしい。
松野は僕の情けない言い訳なんて聞くわけもなく、哀しそうに言った。
「わたし、座敷わらしのおまじないっていう加澤くんの予想、ほんとうに心から信じてた。
あの時、鈴夏がコージくんに抱きついてるとこを見たけど、コージくんを疑う気持ちが晴れたのは、加澤くんの言葉を信じてこそだった。
――なのに、加澤くんはその気持ちを裏切るの?
わたしには都合の良いこと言っといて、自分ではその予想を信じてない。だからでしょ、コージくんの鞄を漁ってるのは」
「そういうわけじゃ――」
「座敷わらしのおまじないなんて、こじつけだったんだね。わたしを安心させるための嘘だったんだ」
――これは夢なんだ、松野の言葉じゃなくて、僕の推理に不安があるせいで見てる夢なんだ。それでも、苦しかった。
「……加澤くんのこと、信じてたのに」
松野は嗚咽まじりに言い捨てると、背を向けて駆け出した。
「……さよなら」
「松野! 待って……違うんだ! コージは、あいつは、ほんとうは――!」
あとの言葉が続かない。
孝慈とは、何者か?
その答えを知らない夢の中の僕は、駆け出した松野を立ち止まらせることができない。
松野の姿が遠ざかっていく。追いかけても、追いかけても、松野は遠ざかっていく。
そんな夢の中で、僕は思い至る。
ここだ。これは、間違いなく、あの未来写真のシーン。僕の推理の甘さが、松野を深く傷つけてしまったバッドエンド。
四つの不幸を解決するという一番の目的は達成したのに、最後の最後で大切な人と仲違いしてしまった、後味の悪い結末。
その時、
(……、……加澤くん)
誰かの口がそのかたちに動いたのが、薄目ごしに見えた。
「……ああ」
目を開ける。僕の顔を心配そうにのぞき込んでいるのは、松野だった。
他の二人も目の前にいる。
「急に倒れたので、心配しましたよ。ここはお祭り会場にある仮設の医務室です」
松野の隣にいた和歌子が言った。
「そうか」
僕は硬いベッドから体を起こす。
ここ一週間、孝慈の動向を追ったり、夜通し考え続けたりして、無理がたたったらしい。
そして今の夢。
きっとあの夢は、真実を知らなければ、本当のことになるんだ。
だけど、僕は今、その結末を回避するための真実を知っている。さっきの夢には無くて、今の僕だけが持っている鍵を。
「体は大丈夫なのか? もっと休んでたほうが――、」
心配する孝慈に、僕は首を振った。
そして、ゆっくりと松野に言う。
「――今から、コージのことを話そうと思う。それは松野が知らない話。そして、君が知らないこの不幸を解決する物語」
*
三人と共に移動したのは、歌扇野公園を登った場所にある高台だ。
下の祭りの賑わいに覆い隠されて、自分たちの他には誰もいない場所。
ここに二年前、僕と鈴夏がいた。
今、この思い出の場所で、最後の秘密を話そう。
「コージ、きみは誕生日を隠してたらしいね。2月が誕生日だって、嘘をついてたとか。
歌高にも瀬奈中での知り合いや松野がいるから、仕方なく、中学時代に引き続いて嘘をついてた」
僕の言葉に、孝慈は落ち着いた口調で答えた。
「――何を言い出すかと思えば、そんなことか。俺が誕生日偽って、何の得があるわけ? 仮にそうだったとして、証拠はあんの?」
「それは……」
推理はあるけど、証拠はない。僕は言葉に詰まる。
成り行きを、松野と和歌子が見守っている。
沈黙が訪れようとする。僕は深呼吸をして、再び口を開きかける。
「コージ、きみは中学時代――、」
その時、普段はマナーモードにしている携帯の、聞き慣れない着信音が、僕のポケットの中から鳴り響いた。
稲田先生からの電話だった。
「――もしもし?」僕は飛び上がるように応答した。
「ああ、加澤。昨日の話なんだけど、もう孝慈の誕生日は聞けたか?」
「……いいえ」
答えると、電話口の奥で先生がため息をつく。
「今どきこういう個人情報は誕生日すら厳しいから、いくら加澤の頼みとは言え、目的の分からない電話だけで教えるわけにはいかない」
やっぱり、ダメか……
しかし、先生はそのまま続けた。
「答えるかどうか迷ったが、誕生日ってのはクラスメイトには周知の事実だろうから、教えられると思う。あ、これはあくまでも俺の裁量だからな。おおかた、グループワークで何かあったんだろ」
「…………」
「これを答えれば小野寺との何かが良くなる、それで昨日、加澤は俺に電話をくれた」
稲田先生は一呼吸置いてから一気に言う。
「これは特別だぞ。――小野寺は、六月二十二日生まれだよ」
「……! ありがとうございます」
僕は先生との通話を終え、孝慈に向き直る。
「鈴夏の誕生日は六月二十二日なんだ。そして、コージのほんとうの誕生日も、六月二十二日」
「…………」
これが、松野の未来写真を解決するための、鍵だ。
孝慈と鈴夏との関係性に、思い至っているかどうか。
僕の推理、座敷わらしのおまじないには足りないものがあった。
それは、鈴夏と孝慈との関係性。
おまじないをかけるために、鈴夏は絆創膏に名前を書いて、孝慈にも抱きついた。
じゃあ、鈴夏にとって、孝慈は何者なんだ。
告白のためにうやむやになっていたが、もしかして、と思っても確信するまでに至らない僕に対して、松野の中ではその疑問が晴れずにいた。
足りないピースはけっきょく松野の不信感を呼んで、ケンカになってしまう。
あのおまじないの推理はこじつけじゃないかっていうちょっとした疑問から、お互いに仲違いしてしまう。
それがあの未来写真の不幸。
あの夢も、あながち間違いじゃなかったんだと思う。
孝慈と鈴夏の関係性さえ推理できていれば、僕は稲田先生に電話をして、孝慈のほんとうの誕生日を聞く。折り返しの電話を待って、最後まで鞄を開けまいともがく。
だから、二人の関係性に思い至っているかどうか。
ここが、未来写真と現実との分岐点だった。
「――コージは鈴夏の、双子のきょうだいだったんだね」
僕の最後の解答に、孝慈はゆっくりと答える。
「……その通りさ。俺は彼女の――、星野鈴夏の、双子の兄だった」
夕焼けが、すぐそこまで迫っていた。
孝慈は高台の手すりに寄りかかり、遠くを見て語る。
「――鈴夏がさ、往来のど真ん中で、とつぜん俺に抱きついたことがあって」
松野が目撃した、手紙を渡せなかったきっかけの出来事だった。
「こんなとこ誰かに見られたら、俺たちが兄妹だってばれるかもしれない、親がいなくて施設育ちっていう過去のことも、掘り起こされるかもしれない。そう思って、慌てたよ」
「松野が瀬奈の商店街で見たのは、その時のことだったんだね」
僕は松野が目撃したことを話すと、孝慈はため息をついた。
「まさか、松野が見ていたなんてな……。しっかし、加澤の予想、おまじないが本当だったとして、鈴夏も大通りのど真ん中で抱きつくなんて、やってくれる」
「彼女らしいと言えば、らしいよね」
僕が言うと、松野の口元に少しだけ笑みが浮かんだ。孝慈は自分の頭に軽く手をやって言う。
「それにしても、鈴夏はいったい、おまじないを通じて何を叶えたかったんだろうな……普通に考えりゃ、病気が治りますように、って願った可能性が高いが、俺たちへのハグを介在する理由が分からない」
「僕たちが関わる願いだったのは確実だ。でも、真相は闇の中だね」
それから、孝慈は肩のちからが抜けたように言う。
「俺の秘密のこと。誕生日のこともあるし、長くは隠し通せないとはおもってた。けど、鈴夏がいなくなった今や、彼女を守る必要は無くなっちまった。意味が無いことさ」
「バスケ部のことも聞いたよ。元瀬奈中の、コージと同じ部だった人が話してくれた。ケガは、君をレギュラーにしたくない先輩達の故意。ケガの重さよりもそれに嫌気が差して、コージはバスケ部を辞めたこと」
「……そうか」
「……ごめん」
「いいや、俺のほうこそ――。俺、鈴夏を守るということを、履き違えてた。
暗い過去を隠すことが、鈴夏を守ることだって思って今日までいた。
けど、そのくせ俺は、鈴夏のことを知らなくて、そのせいで彼女を守れなかったっていう、カッコ悪い過去を隠してただけだった。お前に当てられて気づいたんだ。
俺、鈴夏のこと、何も知らなかった。
鈴夏は俺の知らないとこでずっと苦しんでた。
病気のことさえ知らなかった。
死んだあとも、鈴夏の尊厳を守ることを俺自身の盾にして、加澤にも真実じゃないこと言ってしまった。俺が守ってたのは鈴夏の尊厳じゃなく、自身のつまらないプライドだった。
ほんとうにカッコ悪いよ、俺」
孝慈の声が自分を責めるものになっていく。
「白百百凸凹カルテットって漫画が好きで、加澤のことが好きで、絵が好きで、あのサイコロに、シラコーのキャラに似せた加澤の絵を描いて。あいつのそういうところ、兄なのに何一つとして知らなかった」
夕焼けが訪れ、祭り囃子の音が通り過ぎていった。
僕は孝慈の言葉に答える。
「――コージはコージなりに、僕たちのためにできる最善のことを考えてくれた。そうやって、あの時、病院で僕を叱ってくれた。同じ鈴夏の『大切な存在』としての視点で、僕が松野を励ますきっかけになる言葉をくれた。僕はそう思ってる」
「加澤……」
祭り囃子が灯火を引き連れて近づいてくる。
周囲にオレンジ色のひかりが満ち、僕の手元の未来写真が変化した。僕たちが全員揃った今この瞬間だった。――その中には、和歌子も写っていた。
オレンジ色のひかりは、高台から見える夕陽のほうへとカーテンのように続いていた。
歌扇野の夕焼けだ。ずっと奥には、この街を横切る大きな川も見える。
夕焼けの光が川面に反射して、水面は氷の粒のようにきらめいていた。その光景が、僕の心の中を、切なくてあたたかいもので、すうっと埋めていく。
こんな景色の存在を、ずっと忘れていた気がする。鈴夏がいなくなって以来、ずっと忘れていた景色だ。
「……きれいだね」
川面の夕焼けを見ながら、松野がそう"言った"。
「――あ……。声、戻ったんだね」
「みたい」
僕の問いかけにうなずいてから、松野は川面を見て続ける。
「――わたし、こうして皆と過ごすまで、夕焼けを見ても『きれいだ』って素直に思うことができなかった」
子供の頃から、夕焼けを見るとむしょうに悲しかったんだ、松野はそう前置きして続ける。
「一日が終わって、夕陽の色を空に見るたびに、『ああ、もう終わっちゃうのか』『今日も変われなかった』って、いつも達成感よりも後悔が先に来た」
松野は夕焼け空の向こう側を見通すように、ゆっくりと顔を上げた。
「鈴夏の事故の、三ヶ月くらいあとだった。その日は学校で、大学から出張授業が来た日だった。
その夜、授業でもらったその大学のパンフレットが目についたの。一枚の大学案内を見て、児童心理学のコースがあることを知って。
その日、眠れなくて、ずっと考えてて、そのままほとんど朝になってしまった。ふと窓の外を見ると、朝焼けが空に見えたんだ。その瞬間、わたしの中で色んなことが決まってたの。
鈴夏みたいな人に寄り添いたい。何かを抱えた子供たちの、ちからになりたい。だから、この大学に入って、こんな勉強をして、こんな生き方をして--、って。
今感じた気持ちは、あの日の朝焼けを見たときみたいな、ふしぎな覚悟だった。
皆と過ごすうちに、わたしにもやっとわかったんだ、これがわたしの決意なんだって」
高台には、かすかに風が吹いている。
見なれた歌扇野の夕焼けのはずなのに、いつもより綺麗で、どこか切なかった。
「この夕焼けを見て、だいじなことを思い出せた。朝焼けじゃなくても、夕焼けでも
きちんと思い出せたんだ」
松野の決意の言葉に、皆が何を言うわけでもなく頷いて。
それに続くように、孝慈が口を開いた。
「俺さ、皆とグループワークしてるうちに、この夏は一度きりなんだって、そう思えたよ。
来年も同じ季節はやってくるけど、今年の夏っていう現在には、今この瞬間しか出会えなくてさ。――夏に限ったことじゃない。
高校生活だって、後悔したくないって思えたんだ。――俺、バスケ部入ることにするよ」
僕も夕焼けを見ながら、その決意を声に出す。
「僕はまだ松野みたいに大学は決まってないや。けど、人助けに近い、そんな仕事がしたいって思ってる。
この夏休み、ほんとうに色んなことがあって、そのおかげかな。やっと見えてきたんだ」
そのまま僕たちは夕焼けを見ていた。
空が暗くなりかけた頃、
「そろそろ、本体に戻らないといけません」
夕陽に背を向けると、和歌子が言った。
「――このひと夏の思い出が、皆さんにとってのかけがえのない『ひかり』になること。わたしからもお祈りします」
「和歌子ちゃん――ありがとう」松野が言った。迷いを断ち切った声だった。
和歌子は、いつになく真剣な表情で、僕と松野とを交互に見て、
「――わたしの本来の使命は、人々に、ささやかな幸運を与えることですので」
胸に手を当てて、目を閉じ、わずかに微笑んだ。
消えかかった和歌子がふと寂しそうな表情をしたのを、僕は見逃さなかった。
やがて日はゆっくりと沈み、和歌子の分霊が消えた。
「――まさか、ね。いいや、どっちにしても、日没で分霊は消えちゃうんだ」
「? 一応、和歌子の無事を確認しに行かねぇとな」
僕たちは歌高の校舎に向かう。最後の一仕事だ。
*
旧校舎には、もう重機が入っていた。
玄関の方には大人が集まっていて、校長先生や、歌高の卒業生らしき集団の姿もある。
夜の解体工事は決まりで出来ないらしいが、日没と同時に機械が入るようにしたいという意向があって、解体のしるしとして、日が沈む瞬間に合わせて、時計台に一降りだけクレーンが入れられたらしい。そんな会話が聞こえてきた。
祭りの喧騒から抜け出して、そのようすを見守っていた集まりのようだ。それぞれが思い出話に盛り上がっている。
僕たちは旧校舎からそっと離れて、現校舎の敷地に入った。
現校舎の体育館裏は、ひっそりと静まり返っていた。
誰もいない。
和歌子の姿は、どこにもなかった。
――もしかして。
背中を汗がつたう。先ほどの和歌子の言葉を思い出す。
『――わたしの本来の使命は、人々に、ささやかな幸運を与えることですので』
僕と松野を見て、言っていた。その様子から、ふと思っていた。
未来写真による予知能力は、はたして無限のものなのだろうかと、僕は時おり疑問に思っていた。そんな都合のいい能力を、無制限に何度も使えるのだろうか、と。
未来写真を頻繁に撮影できなかったのも、ある程度大きな不幸が見つからなかったからではなく、彼女のチカラが限界まで弱まっている証だったとしたら?
本当なら、彼女の触媒となる僕側のチカラの発現がもっと早ければ、ちょっとしたアクシデントが起きるだけの人を被写体にして、未来写真の撮影ができたのではないかとさえ思っていた。
和歌子は、そのことを最初から隠していた?
例えば、クローバー集めを終えるまでに能力を使いすぎた時に、学校は救われるけど和歌子は消えるといったペナルティがあったら?
デパートの白河先輩の時は結局未遂だったけど、問題は、最後の、僕が松野を悲しませてしまう未来写真。
もし、僕と松野のために撮った5枚目が、彼女にとって命取りになるとしたら。
あの、去り際の、寂しそうな、悟ったような表情。
嫌な想像を必死に振り払い、体育館の角のあたりまで来たとき、
「――皆さん」
後ろから、いつもの声がした。
「……あっ!」
和歌子が松野に飛び付いた。そのまま松野が、和歌子を受け止めた。
「……良かった……良かったよ……」安堵したような松野の声。「分霊じゃないんだ。ほんとうに、いるんだ……良かった……ほんとうに」
「――ありがとうございます、瑞夏さん。お二人も、手にタッチしてみてください」
松野にしっかりと受け止められながら、和歌子は空いた手で孝慈と僕にハイタッチを求める。
小気味がよい音が二回、体育館裏に響いた。
孝慈がたった今感触を受けた手のひらを見て、嬉しそうに言う。
「外で手のひらに触《さわ》れたってことは……!」
「――はい。わたしは座敷わらしから、学校の神様になりました。でも、校舎に縛られることはありません。この体でどこにでも行けます。わたしが消えることはなく、学校の関係者に大きな不幸が振りかかることも無くなりました」
孝慈がほっとしたように言う。
「なかなか出てこないから、心配したんだぞ」
僕は他の二人に内容が聞こえないよう、和歌子にそっと言った。
「君はついさっきまで、僕らの前に姿を現せないような状態だった。違う?」
「――なんのことでしょうか」
「能力が弱まった君にとっては、未来写真が一葉《いちよう》増えることは、大きなツケだったんじゃないのかな」
和歌子はため息をつく。
「結人さんに嘘はつけませんでしたか――。さすがのわたしも、もうダメかと思いましたよ。おっしゃる通り、実は未来写真を五枚以上出力するのは、ね。守り神になるのが間に合って良かったです」
「大きな不幸は帳消しになったけど、きみ自身は能力の使いすぎで、守り神になる寸前に危うく消えるところだった、と」
「そうなんです。何でもお見通しなんですね」
「改めて、僕と松野のこと、ありがとう。僕はきみの元気な声を聞くたびに、背筋が伸びると言うか、励まされているような気持ちになっていた」
僕はふと感じたことを告げる。
「その騒がしいとこ、まるでサイレンだね」
「――幸運警報、幸運警報!発令中!なんてね。もう、一言余計ですよ、えへへ」
和歌子はごまかすように笑ってから言った。
「――仮にもし、あのまま消えていても、わたしに心残りはなかったと思います」
「それは座敷わらしの、いいや、幸運をつかさどる守り神としての、君の使命だから?」
「――はい」和歌子は目を閉じて、胸の前に両手を当てて頷いた。神秘的なたたずまいだった。
「――さて、本格的に喜ぶのは、後にしましょう。わたしには今すぐにでも、皆さんに会わせたい方がいるのですから」
「会わせたい、人?」
和歌子は後ろを向いて、「その人物」に手招きをする。
「このタイミングで、今、僕たちに、だって?」
「松野さんと、孝慈さんも、良いですか? さっきまで、お話をしていた方がいて――」
「お話だって?」
「どうしたの?」
和歌子はわざとらしく、緊張したような声で早口になって他の二人に言った。
そして、僕だけに聞こえるようにつぶやく。
「――これは、わたしから皆さんに捧げる、ちいさな幸運です」
そして、和歌子はいつもの調子で呼びかけた。
「大至急、皆さんに会わせたい人がいます!本格的に喜ぶのは後にしましょう!」
和歌子が後ろを向いて、その人物に手招きをする。
「どうしたんだ、会わせたい、人?」
「誰なの?」
和歌子は答えずに、僕たちの横に来る。
「――どうか、彼女とお話してください」
彼女。僕は、一人だけ、浮かんだ。
まさか。だけど。
そんなの、優しすぎるよ。
ほんとうに、優しすぎるよ……。
手招きした場所。先ほど和歌子が出てきた体育館の角。
――そのかげから、彼女は現れた。
輝きを失ってなお、太陽のような、その姿。
「――久しぶりだね、みんな」
声を聞いた瞬間、胸の奥から、何かが溢れそうになった。
そこにいたのは……。
「……すず、か――?」
星野鈴夏。
あの日と何も変わらない、念ノ丘中の夏服の、二年生の姿。
変わらない彼女は、僕達のほうにつうっと歩み寄った。
僕はようやくしっかりと口を開くことができた。
「ほんとうに……鈴夏なんだね」
「そうだよ――、結人くん」
僕の問いに、鈴夏は微笑んで答える。
まるで、昨日も会ってきたみたいな、いつも通りの声で。
「あの時ね、陸上で倒れて、失敗したなぁって後悔して、目を開けたら、いつのまにかここにいたんだ。今は幽霊みたいなものらしいから、触れないけどね。分霊、だったっけ」
そう言って、鈴夏は和歌子を見る。
「そこの和歌子ちゃんから、事情は聞いた」
「皆さんが来る前に、お話していました。鈴夏さんは、座敷わらしのおまじないを叶えたんです!」
鈴夏は言う。
「座敷わらしのおまじないはね、願うと、『離ればなれになった人に会える』っていうものなの。
このおまじないを私に教えてくれた卒業生がいてね。私は生きている時におまじないをかけた。
最初はもちろん、『病気が治りますように』っていう願い事をするつもりだった。でも、おまじないにそういう効果は無いから、出来なかった。
だから代わりに、願ったの。おまじないの手順にのっとって、抱きつく前に、一人ずつ、腕に赤いインクで名前を書いて、絆創膏で隠してさ、願ったの。
『大切な人たちに、また会えますように』――ってね。
そしたら、幽霊として、こうして一回だけ皆に会うことができた。
この座敷わらしのおまじないは、自分ひとりだけのお願いじゃダメ。自分と誰かとの関係を結ぶ、そういう性質のものだから。
今の和歌子ちゃんは、人と人との幸運をとりもつ、そういう神様になったんだって」
「ええ、自覚したのは今さっきですが、それがわたしの与える幸運みたいです」
「縁結びってやつに近いかな? けど、今の和歌子ちゃんのご利益には、恋愛だけじゃなくて、友達や家族も含まれる。――だから、縁結びよりも広い、『人結び』、とでも言おうか」
「人結びの神様、か――」
その言葉を噛みしめる。
「……あのね、鈴夏――」
歩み出たのは、松野だった。
「やっぱり、わたし、鈴夏に聞かなきゃいけない」
「――瑞夏?」
「わたし、手紙を渡せなかっただけじゃない。加澤くんのこと……好きで……」
「――うん」
「加澤くんは鈴夏の大切な人だったのに、今、わたし……。だいじな手紙を渡せなかった張本人なのに、こうして、好きで……」
松野の言葉を聞いた鈴夏は、なんだ、そんなことか、と安心したように首を振る。
「私が病気なのに無理なんかしちゃったのが悪い、事実はそれだけだよ。瑞夏が気にすることなんて何もない」
「だけど……」
言いかけた言葉をさえぎって、鈴夏は松野に語りかける。
「良い? 瑞夏」
鈴夏は目を軽くつぶって、首を振った。
「いなくなっちゃったわたしが許すか許さないかなんて、もはや問題じゃないんだ」
鈴夏は目を開けて、いちど僕を見る。それから再び松野に語りかけた。
「結人君にはあの手紙でも書いたけど、瑞夏も、どうか私に縛られないでほしい。もちろんコージもね。私はそれだけ望んでる」
孝慈が、重い口をゆっくりと開く。
「俺、鈴夏の病気のこと、何も知らなくて……お前が苦しい時に、兄らしいこと、なんも出来なくて――」
「ううん、さっき和歌子ちゃんから聞いたよ。この三週間、皆のためにずっと頑張ってたってことをね。それだけで、コージは私の最高の兄だよ」
「鈴夏……」
その言葉に、孝慈は意を決したように、
「――俺、バスケ部に入ろうと思ってるんだ」
そう打ち明けた。
「こうして不思議なグループワークやってみて、思ったんだ。何かに打ち込んでる時って、楽しいんだ。
でも、グループワークが終わったら、俺はまた打ち込んでることが無くなる。
――そんなのヤダって思った。
夏休みが終わってからも何かやりたい。じゃあ俺が一番楽しいのはなんだろうって、考えてくうちに、やっぱり、バスケだって思い直したんだ。だから俺、もういっかいバスケ本気でやってみる」
「――孝慈のこと、応援してるよ」
微笑んで、鈴夏は再び松野に言う。
「私の許しなんて、関係ない。だから、これからどうしたいかは、瑞夏が決めるんだ。歌高生になって、そばには結人君がいて、コージと和歌子ちゃんがいる。そうやっていまを生きてる瑞夏が、決めることなんだ」
松野はうなずいて、鈴夏に答えを返す。
「――今日の夕焼けを見て、だいじなこと、思い出したんだ。
わたし、児童心理学のコースがある大学に進むよ。教職も受けるから実習だってあるし、わたしには大変なこといっぱいあると思う。
でも、大人になったら鈴夏みたいな人たちに寄り添いたいって、決めたから」
松野の決意に自分の名前があったのを聞いて、鈴夏は驚いたようだった。
「……! 瑞夏、だから私のことなんて、忘れて欲しくて――」
松野はゆっくりと答えた。
「ううん。鈴夏との思い出を心に置いて、わたしはわたしとして自分のことを決める。
それは縛られることじゃないって、思うから。
だからわたし、鈴夏のことは絶対に忘れない。――これが、わたしが決めたことだよ」
「瑞夏……ごめん……ううん」
鈴夏はすぐに言い直した。
「――ありがと」
鈴夏の頬を一筋の涙が伝った。
涙が見えたのとほぼ同時に、鈴夏の姿が薄れ始める。
「……そろそろ、時間みたいなんだ」
告げた彼女のからだの周りに、オレンジ色のひかりが溢れだす。
「――結人くん」
鈴夏は、最後に僕にこう告げた。
「――瑞夏をよろしくね」
そのまま、彼女の姿はうっすらと消えていく。
「――鈴夏、ありがとう」
彼女は見えなくなる直前、こちらに微笑んだようだった。
やがて、オレンジ色のひかりがまぶしく弾けた。
その太陽のような輝きに、目の前が何も見えないくらい明るんで。
視界が戻ったとき、そこに鈴夏はいなかった。
彼女がいたことを示す跡なんて、当然残っていなくて。
さっき鈴夏がいたことは、まるで、時が止まった線香花火のような、そんな夢幻のような瞬間だった。
だけど、僕たちの時間は、ゆっくりと、それでも確実に、動き出していく。
僕たちは学校を後にする。花火を見るために、祭り会場への道を再び進む。
*
夏祭りに戻る道の途中、堤防の小道の横にシロツメクサが群生しているのを見つけた。
僕はその小さな群れの中に、ほんの一瞬、視線を向けた。
幸運のクローバーは、僕たちの胸の中にもある。星野鈴夏が結んでくれた、僕ら四人の関係性として。
僕は忘れない。あの思い出を。そして、今年の夏の思い出も。
堤防の真ん中で、孝慈が言う。
「俺、屋台まわってくるよ。射的の景品とか、無くなってたらやだし」
和歌子が頷く。
「わたしもやってみたいこと、たくさんあるんです。射的もですし、金魚すくいに型抜きも。――そうと決まれば、早く行きましょう。わたし、近道知ってるんです!」
「加澤たちはどうする?」
「僕は……後で合流するよ」
「…………」僕の隣で、松野が恥ずかしそうにコクンと頷く。
孝慈は、からかってくるのかと思いきや、ほんとうに爽やかな笑顔で、手を上げて応じた。
「そうか。じゃあ、また後でな!」
「また会いましょう!」
二人は僕たちに手を振りながら、会場への道に戻っていった。
川辺の堤防の道には、松野と僕の二人だけが残された。
僕は松野と、祭り会場への道を行く。
ふたりきりで、河原の上の、ちいさな道を歩いた。
やがて、川の向こうの夜空がひかりに染まる。
松野は立ち止まり、向こう側の空を見上げる。
「…………」
河川敷で、松野とふたり。
どちらからともなく、切り出した。
「――約束、したよね」
「――うん」
僕は、次々打ち上がる花火をじっと見つめる松野の横顔に、小さな決意と一緒に語りかける。
「――だから、あとは、僕が選ぶだけみたいだ」
その横顔に、告げる。
「僕は――」
言の葉に乗せて、いま、選択する。
松野瑞夏と歩む、未来を。そして、今現在という、この瞬間も。
現在という、かけがえのない一瞬の閃光。その輝きを全力で生きること、それもひとつの思い出となるから。
暗闇にひかりを灯して、最後の花火が、いま打ち上がる。
終わりではなく、はじまりを告げる、希望のひかりが。
(了)