夜は何色か? と問われた時、きっと『黒』と答える人が多いと思う。日が落ち、夜が訪れ、辺りは闇に包まれる。
 黒い。一般的な夜の色は、黒だ。

(だけどきっと……夜は、青だよ)

 物語に出てくる描写のような……どこか違う世界のような。そんな青い夜があることを、わたしは知っている。夜の世界が青で染まってしまえば、夜がくることなど怖くない。惜しいほどの夜が明け、朝が来て、日が沈んでまた夜が訪れる。そんな幸せなサイクルの中で、生きることができるはずなのに。

 眠れない夜は嫌いだ。ただまっくらで、両親の怒声を薄い壁を通して聞きながら、布団にくるまらなければならない。一日の終わりにいちばんストレスが溜まってしまうのならば、おだやかに休憩する場所すらわたしの世界には存在しない。

 それがただただ苦しくて、つらくて。
 いっそ死んでしまえば永久に休めるのかもしれないと思ったけれど。

『またいつか逢えるといいね……青い夜に』

 そんな記憶がいつまでもへばりついて消えないから、まだ死ぬのは惜しいんじゃないか、という気持ちが、わたしをこの世界にとどめ続けている。

 昔……ずっと昔に、一度だけ会った男の人。曖昧な記憶の中でも、その人が周りとは圧倒的に違う雰囲気(オーラ)を纏っており、美人よりも美人だったということは覚えている。もう薄れてしまった過去の記憶。
 確かその日は、やけに上機嫌な母に連れられて、初めて夜の街に出た日。甘い香水の香りが充満する場所で、あっという間に消えてしまった母を探している途中、ふいに目の前に現れたのが彼だった。


『こんなとこにくるべきじゃないでしょ。僕も君も』


 どこか別の場所に連れられた後、小さいわたしの顔を確認するように覗き込まれて、かち合う瞳と瞳。

『目……青だ』

 そんなわたしに、ふっ、と笑った彼は『そーだね』と呟いた。

 残っているのは、たったそれだけの記憶。何の確証もない【いつか】のために、この世界を生きているだなんて。

 そんなことでも、今を生きる理由になるのだろうか。



 ガチャっとドアを開けると、夜の匂いがした。夜が更け、あたりが暗さで満ちていく。

 ──行こう。青い夜を探しに。

 パーカーに長ズボン。髪は適当に後ろで結って、下向きがちに歩いていく。できるだけ顔を見せたくなかった。制服を着ているわけではないものの、誰かにバレたくなかった。誰に、と聞かれると返答に困るのだけど、強いていうならばわたしという存在を知っている人たちすべて。あとは……深夜徘徊だと通報され、面倒なことになるのも避けたかった。
 しばらく歩いていると、キラキラと光るネオン街に到着した。青い夜というよりは、ピンクや緑といった印象を受ける。やっぱり青い夜ではない。
 どこで見た景色なのか、そんなことは分からない。だけど、遠く離れた、けれど限りなく近い場所から、まるでこっちへこいと呼ばれているような気がした。


 夜の街は、こんな顔をするんだ。どこもかしこも、昼よりも明るくて、騒がしい。ここは眠らない街と呼べるほど、灯りが潰えることは想像できなかった。辺りを見回しながら、雑踏に紛れる。

「……へんなの」

 見渡す限り、誰もが自信に満ち溢れた顔でそこに存在していた。夜に彩られ、粧し込まれた私を見て、と。そんなふうに己の存在を主張していた。


……と、ふいに肩に手が置かれた。びくりと振り返ると、そこにはいかにもチャラそうな男性が数人。砂糖とミルクとバニラを最大限溶かし込んで混ぜたような甘ったるい匂いが鼻をつく。

(そんな匂い、誰が好きになるの)

 匂いに酔うのは初めてだ。
 ネオンに照らされてキラキラと光る銀色を耳につけ、身体からジャラジャラと金属の音を立てている。わたしが目を見開いたのを見ると、それを面白がるようににたりと笑いながら、一歩一歩と近づいてきた。

「お嬢ちゃん可愛い顔してんじゃん。あれかな? 高校生くらいかな? こんなところに一人でいるってことは、そういうこと待ちって解釈でオッケーかな?」

 疑問符を浮かべていないと死んでしまうのではないか。そんなふうに思ってしまうほど質問口調の彼らは、口角を歪ませ、手を伸ばしてくる。

「っ……!」

 ボス的存在の男性の手がわたしの肩に触れる寸前、咄嗟に地面を蹴って駆け出す。人と人の間をするりと抜けて、がむしゃらに走った。

「おい、待て!」

 声と同時に大きくなる足音。恐怖が背中を追ってくる、そんな感じがした。
 どこにいっても視界に広がる、光、ひかり。こんなに眩しいところでは、また奴らに見つかってしまう。今度見つかったら何をされるかわからない。

 パーカーのフードを深く被って、できるだけ顔を隠す。浅い呼吸を幾度も繰り返しながら、足を止めることなくひたすら走った。

「はぁ……はぁ……っ」

 できるだけ光がない場所へ、姿が見えない場所へ行かないと────。

 ただその一心で飛び込んだ路地裏。

「馬鹿だなぁお嬢ちゃん、わざわざひとけのないところに自分で飛び込むなんて、襲ってくれって言ってるようなもんじゃねえか! 飛んで火に入るなんちゃらってやつだなぁ」

 ああ、ほんとに馬鹿だ……と。気づいたときには、もう遅かった。
 引き返すことなどできず、ただ前に進んでいくしかない。けれど、彼らがわたしに追いついてしまうのは時間の問題だということはとうに分かりきっていた。そして、どんどん人から離れている今捕まってしまえば、最悪な未来が待っているということも。

「さいあく……っ」

 すべて自業自得だ。ガラン、ガシャンと何かに躓きながら、振り返ることなく走る。どこにも逃げ場のないこの道で止まってしまえば、もう終わりだ。




 そのときふと、前方に黒い影が浮かんだ。寄っていくたびに、解像度が高くなる。

「っ……!」

 それは、とても美しい……男の人。腰まである銀色の髪が月明かりだけを受けて煌めき、咥えたタバコには火がついている。そのままこちらに流れた瞳は────夜を映した紺碧。

「た、助けてください……!」

 縋るように懇願する。この人に見放されたら、その時はもうそういう運命なのだと。そんなふうに受け入れてしまうしかないほど、身体も心も疲労困憊し、逃げる気力さえ失いかけていた。

 ひやりとした瞳と、引き締まったフェイスライン。この世のものとは思えない美貌は、つくり物のような儚さを纏い、夜の世界に存在していた。

 フーッ、と煙が一瞬、彼の顔を隠す。
 再び現れた美貌は、思わず息を呑んでしまうほど艶やかな表情を浮かべていた。

 視線をわたしの後ろへと流した彼は、壁に縋るような姿勢のまま「君さ」と呟く。胸の奥の何かを疼かせるような、低い響き。足から力が抜けそうになるのを必死に堪えて、踏みとどまる。

「は、はい……っ」
「僕がそいつらのボスだって言ったら、どーする?」
「へ……」

 にやっと口角を上げた銀髪の男は、呆然とするわたしを青い目でまっすぐに射抜く。逃すまい、という言葉が瞳を通して聞こえてくるような気がした。

「……やっ」

 喉が絞られたように苦しくて、声が出せない。カタカタと唇が震えて、身体中が冷たいもので覆われているような感覚に陥る。

(もう、終わりだ)

 青い夜なんて、探しにこなければよかった。何度後悔しても、もう遅い。
 にや、と口角を上げる彼の唇の隙間から、鋭く尖った歯が覗いた。

 喰べられてしまう────。
 恐怖に支配されなければいけないはずの心の中で、いちばんに思ったことは。


「きれい……」


 ただ、それだけだった。
 風に靡く銀髪。切長の瞳。スッと通った鼻筋に、薄い唇、フェイスライン。
 どのパーツも、それぞれの最上級を取り揃えたようなもので、配置も完璧。まるで神が何十柱も集まって、相談しながら念入りに造られたような、そんな美しいものだった。


 ふっと微笑を浮かべた彼は、「嘘だよ」と囁くように告げ、しなやかな指で口許にタバコを運ぶ。

「え……?」

 そのままこちらを向き、ゆっくりと近づいてきた彼は、わたしの顔を覗き込むように少しかがんだ。次の瞬間、ふわっと漂う煙とともに、一気に視界が白くなる。

「……っ、ゴホッ、」

 タバコのにおいが鼻を突き刺し、思わず咳き込んでしまった。その反応を見て満足げに笑った男は、タバコを地面に落とし、そのまま靴でぐしゃりと踏みつける。じりじりと左右に動かして火を消すその仕草は、いつかの日に観た映画のワンシーンのようだった。

「ちょっと待っててね」

 急に柔らかくなった声と眼差し。ポン、と頭に置かれたあたたかさ。
 すれ違う瞬間、ふわりと香ったのは、オリエンタル系。彼の色っぽさを存分に引き立てる濃厚な香りだった。

「あ」

 何かを思い出したように、ふと声を上げた彼。なんだろうと思っていると、ふいに耳元から心地よいアルトが響いた。

「耳、塞いでてね」

 ビリビリと痺れるような感覚。この人の声は危険だ、とても。
 コクコクと夢中で頷くと、ふっ、と耳に吐息をかけた後、アルトは離れていった。言われた通りに耳を塞いで、ついでに目も閉じた。すべての意識をシャットダウンし、無になる。そうすると、恐怖も、不安も、何もかもがなくなって、無の空間にぽつりと存在しているような気分になった。




 トントン、と肩を叩かれる。おそるおそる目を開けると、そこには先ほどの美貌があった。

「もう大丈夫だよ。片付けたから」

 片付けた、とは。そのまま解釈していいのなら、奴らは追い払ったよ、ということだろうか。
 フッ、と上がる口許が溢れんばかりの色気を漂わせる。

 危険な表情、危険な声、危険な香り、危険な雰囲気(ムード)。絶対に関わってはいけないと分かっているのに、こんなにも惹かれてやまないのはどうしてだろう。

「……ありがとう、ございました」
「安心するのはまだはやいよ。もしかしたら、僕が襲うかもしれないんだから」
「え」

 一歩引くと、「嘘だけど」と笑った彼は、そのまま少しだけ眉を下げる。

「でも、君は危機感が足りなさすぎるよ。こんなところに飛び込んできちゃだめだろ」
「焦って、それで」
「まあ、気持ちは分からなくもないけどね。表は人酔いするし、匂いきついし」

 ところどころ幼さが残るような口調。見た目からして、大学生くらいだろうか。タバコを吸っていたので大人には間違いないのだけれど。

「君は何歳? 高校生?」
「……はい、高校生です。あの、あなたは」
「僕の歳知ってなんか面白いことでもある?」
「自分は、きいたじゃないですか……」

 ぼそりとつぶやくと、「まあ確かにね」と苦笑した彼は、スッと視線を逸らした。

「29」
「え……、19ですか」
「いや、29だよ。俗に言うアラサーってやつ」

 いや。どう見てもこれは三十手前ではないだろう。
 信じられずに目を見開くわたしの肩に手を置いた彼は、「今夜は綺麗な満月だな」と放った。

 月明かりだけが差し、夜を包み込んでいる。

「また危なくなる前に帰れ。道に出るまで送ってあげるから」
「はい」

 そんな返事をして、振り返ったときだった。

「……っ!」

 そこには、月明かりに照らされた、青い夜が広がっていた。
 ここだ、間違いない。来る時は逃げるのに夢中で気が付かなかったけれど、今ならわかる。街灯なんてない。表情をうつしてくれるのは月の光だけ。

「あった……青い、夜だ……」

 路地裏に広がる青。こんな狭い場所に、わたしが求めていた夜は存在していた。
 静かで、冷たくて、それでもどこか心が落ち着く夜の色。

 恐怖も、不安も、すべてを掻き消すような美しい色。

 言葉通り、路地裏を抜けたところまで送り届けてくれた銀髪の美人は。


「またいつか逢えるといいね……青い夜に」


 どこか懐かしい表情で、微笑んだ。



 出逢いはそんな────青い夜。




 -END-