十五
「この一連の殺人事件を起こした犯人は、朱野透さん、あなたですね」
その摘発に、各人が思い思いに最大級の驚愕を載せた表情で朱野透を見つめた。
「嘘」場が衝撃に支配されている中、誰よりも早く声をあげたのは、龍川小夜だった。「透さんが……? 嘘よ、まさかそんなわけ」
「突然何を言いだすんだい、冷泉くん」
不安定に揺れるか細い声が遮られる。蒼い顔を持ち上げた透は、愕然と唇を震わせた。
「釘の燃え残りを見つけた瞬間、僕は思い出しました。まず一つ『玄武の館』の窓枠を改修したのが、源一郎さんであるということ。そして、もう一つが朱野邸の三階を改修したのが透さんであるということです。聞けば建築学科卒というじゃないですか。それだけの専門知識に、住まいの改修ができるほどの腕があれば、踏み台くらいお手の物でしょう。また、普段からそういうことをしていたのであれば、木工室に籠って大工作業をしていても怪しまれることはありません。以上、技術面、環境面の両面から考えて、この踏み台のトリックを使った犯人に相応しいのはあなたしかいません」
「ちょっと待ってください」おかっぱ頭を揺らして横から反駁を示したのは、驚くことにこれも龍川小夜だった。「そんなの他の人にだってできるでしょう。あなたの言っていることは暴論でしかないわ」
龍川小夜の豹変にも臆することなく、冷泉は淀みなく弁を返す。
「この狭い村です。自室で金槌を打ち鳴らしたならば、音を誰かが聞いているでしょう」
「そんな強引な理由で人を犯人扱いするだなんて……。一人になる時間だって皆さんあります。それに冷泉くんの言うように、村では無理だとしても、場所さえ選ばなければ他の人にだってできます。村の外で木箱を作って、村の中へ運ぶことだってできるじゃないですか」
人が変わったような龍川小夜の流暢な熱弁を、その場の誰しもが目を丸くして見つめていた。冷泉もまた意表を突かれたうちの一人であったが、そんなことは面に出さず横目で朱野透を窺い見ていた。
そんな冷泉の目の前に、自身の論を差し挟むように、龍川小夜がその横顔に念を押した。
「透さんが犯人なわけありません」
「どうなんですか? 透さん」
臆面もなく問いかける冷泉を、透は正面から穏やかに睨み返した。
「君の話は、仮説の域を出ていないよ」
空中で視線と視線がぶつかり合う。
薄氷のごとく張り詰めた空気が、しばらく真夜中の居間を支配した。
やがて、「わかりました」冷泉はふっと諦めたように力を抜いた。「認めてくれないようですので、話を進めましょう」
朱野透は眉一つ動かさずにただ一つ、ゆっくりと瞬きを落とした。
冷泉は人形のような涼しい顔で、ただじっとその一連を見つめ、そしてふいっと視線を全体に移した。
「次に五番目の深見さんの事件です。ここまでお話ししたトリックが凝っていたので、つい難しく考え過ぎていましたが、犯人がわかってしまえばこちらは至ってシンプルな心理トリックでした。まず深見陽介さんを殺害する際、犯人である透さんは離れの呼び鈴を鳴らして堂々と玄関から入りました。例えば……そうですね、少し相談があるだとか、誰かがまた襲われただとか、あるいは犯人がわかったかもしれないだとか、それらしい口実を使ったのではないでしょうか。そして部屋に招き入れてくれた深見さんを殺害。その後、玄関の鍵を閉めて出ました」
「へ? 普通に出たのですか」
両眉を持ち上げる龍川に、冷泉は肯き返して言った。
「ええ。普通に。彼が仕掛けたのはここからです。それから、琴乃さんや僕たちを巻き込んで、遺体を発見させ、密室状況を確認させます。その混乱に乗じ、深見さんの亡骸に縋りつくふりをして胸ポケットへ鍵を滑らせ、あたかもずっとそこにあったかのように見せかけたのです」
「まさか、そんな単純な」
「そう、龍川先生の仰るとおり、ごく単純なことだったのですよ。静さんの事件では、透さん――まぁ犯人だったのですが――、彼と水谷さんが納屋の中まで確認しなかったことが仇となったと僕は言いましたが、この事件では防犯のために僕たちが母屋の雨戸を閉めていたことが、かえって仇となってしまいました。雨戸は外敵だけでなく、光や音も遮断します。これに深見さん発の夜間出歩き禁止令も加わりましたね。これらによって透さんは母屋から気づかれる心配もなく、犯行を完遂できたのです」
今度は琴乃が嘆く番だった。ぎゅっと目を瞑り、そんなまさかと震える母親を、瑞樹が固く抱いて励ました。
「あの時、僕らは互いの行動を見ていたはずです。鍵を深見さんの胸ポケットに入れることができたのも透さん、あなたしかいませんね」
目の奥までを射抜くような冷泉の視線の先で、顔色一つ変えることなく黙って話を聞いていた透だったが、念を押されると間髪入れずにラリーを返した。
「冷泉くん、それもただの仮説だよ」
「そうでしょうか」
「ああ。それだと前件を固定して後件を導いているだけじゃないか。命題『AならばB』は成り立つ。つまり、僕を犯人だと仮定すればそのトリックが使われたというのは君の言うとおり正しいだろうね。けれど、対偶は? 『BでないならばAでない』つまり、そのトリックが使われていないならば、僕は犯人ではない。こっちは無視するつもりかい」先程までの動揺から一転、透はあたかも論理ゲームを楽しむかのごとく、流暢な反駁を講じてみせた。「間違いなくそのトリックが使われたという証拠はあるの?」
「それ以外に考えられません。現段階で伝えられることはそれだけです」
冷泉が淡々と断じるのに、透もごく穏やかな口調で返した。
「君が解けていないだけで、別の方法があるんだよ。そうじゃなきゃおかしいからね」
「いいでしょう。まだあなたが認めないというのなら、それでもかまいません」
「わかった、いいよ。僕も黙って君の話を聞いてみようか」
透はゆったりと椅子に座りなおすと、食卓の上で指を組んでみせた。
挑発めいたその態度に一瞥を加えると、冷泉は短く息を吸いこんだ。「余裕でいられるのも今のうちですよ」言って視線を全体に戻す。「透さんが犯人だとわかってしまえば、あとは水谷さん殺しのアリバイ崩しだけでした。龍川先生、先生は腕時計をしていませんね?」
「あ、ああ、していませんな」
またも突然水を向けられた龍川が、居眠りをしていた学生のように身体をびくりと固くした。
「ありがとうございます。以前、ほかならぬ透さんが仰っていましたね。この村は防犯意識や時間におおらかであり、腕時計をしているのも透さん自身と父の源一郎さんくらいのものだと」
「ああ、言った」透は悠々と顎を引く。
冷泉は鋭い一瞥を加えて視線を場に戻した。「その、この村特有のおおらかさを、透さんは利用したのです。透さんは夕食会の最中、弟さんに食事を持って行くふりをして龍川先生の家に忍び込み、居間の時計を十五分ほど進めておいた」
「ええ?」全く気付かなかったふうな龍川が動揺を示し、隣の小夜を見遣る。
視線を受けた小夜も、ふるふると首を横に振って驚愕を滲ませていた。「そんなはずないわ。私もお父さんだって、そんなこと思わなかったもの」
「ええ、気が付かないのも無理はありません。この村でテレビがあるのは朱野家と白峰家だという話でしたね。テレビの時刻表示でもあれば別でしょうが、十五分程度の誤差ならば気づかないのも無理はありませんから」
小夜はそれでもまだ信じられないように、目を丸くしたまま宙を見つめている。犯人摘発からこちら、龍川小夜はまるで感情を覆いつくしていた透明な膜を取り払いでもしたように、情動に溢れた表情をするようになっていた。
そんな小夜に向けて、瑞樹は時折痛みを堪えるように唇を噛みしめながら、何度も視線を送っていた。
そんな住民たちの様子を順に目で追った後、冷泉は透に向き直った。
「あのとき透さんはこう言いました。九時四十五分に武藤邸に着き、九時五十五分に龍川邸に到着した。それから、十時二十分に自宅に着き、しばらくして雨が降り始めたことに気づき、窓を閉めていたところで源一郎さんと絹代さんに会ったと。間違いありませんね?」
「そうだね」
薄らと笑みを浮かべて肯定する透に続いて、龍川医師と武藤霧子も思い思いに首を縦に揺らした。それらを丁寧に確認して、冷泉は唇を開いた。
「正しくは、それぞれ十五分ずつ早かったのですよ。つまり、透さんは九時三十分に武藤邸に着き、九時四十分に龍川邸に到着した。龍川邸を出てから、透さんには十時三十分頃源一郎さんと絹代さんに会うまでの間のアリバイがありません」
「それじゃあ、その間に」
愕然と呟く龍川に、冷泉は一つ肯き返した。
「ええ、その空白の五十分間に透さんは水谷さんを殺害し、密室を作り上げたのです」
「では、わたくしと龍川先生は、アリバイ作りの片棒を担がされたのですね」
ショックを受けた様子の龍川医師とは対照的に、武藤霧子はあくまで淡々と事態を要約した。
冷泉は前髪を小指で梳いて肯いた。「そうなりますね。もしかしたら、透さんが源一郎さんから武藤さんの手助け役を引き継いだのも、このトリックのためだったのではないでしょうか。深見さんの遺したメモに書かれていましたが、源一郎さんは武藤さんの身の回りの手助けはしていたものの、通院の送迎まではしていなかったようですね。ですから、この送迎の習慣自体、水谷さん殺しのアリバイトリックのために透さんが時間をかけて築き上げたものだったのではないかと思っています」
「まあ」
武藤霧子がほとんど驚いていないような表情で、形だけの感嘆の声をあげた。
「それから、遺体が発見された後、龍川先生のところへ検視を頼みにきたのも透さんでしたね」
「そうでしたな」龍川医師が難しい顔で唸った。
「そのとき、先生に透さんはなんと言いましたか?」
「『僕は小夜ちゃんを連れて白峰邸まで送り届けるから、先生は先に行ってくれ』と。……ああ、なんてことだ!」
額を拳で抑えた龍川医師に、冷泉は肯いた。
「そうです。先生がお気づきの通り、そのときに小夜さんを居間で待つ時間を使って、透さんは龍川家の居間と、診療室の時計の針を元に戻したのですよ。小夜さんは私室に時計を置いていないそうなので、気づくこともありませんね」
「そんなの――」
小夜は勢いよく頭を上げたものの、言葉が続かず呑み込んだ。
同時に、「ああ……なんということだ……」龍川医師は喉を絞って深い呻き声を漏らした。
冷泉はそれら父子其々の反応にも動じることなく、無機質に続ける。
「それから、武藤さんが三階の私室の扉を開けた瞬間、地面で植木鉢が割れる音がしたということでしたね。この仕掛けについてですが、こちらも簡単なものです。まず、丸い植木鉢を窓の縁に置きますね。そして書道用の文鎮の中央に長いゴムを巻き、文鎮を窓の外に出したまま、窓を五センチほどのところまで閉めます。ゴムのもう片端には結び目を作り、思い切り伸ばして部屋の扉に挟んで閉めます。これで仕掛けの完成です。あとは武藤さんが帰宅して私室の扉を開けるだけで、ゴムは飛んでいき、植木鉢はゴムに叩かれて落ちます。文鎮も重いので、ゴムごとそのまま落下しますね。後には何も残りません。犯人が死体発見後に文鎮とゴムを回収すれば、トリックの完成です」
「まあ」武藤霧子が感心したように、口に片手をあてて何度か頷いた。
「武藤さんが、帰宅した際に部屋で誰かの気配を感じたのは、このゴムが飛んでいくときの空気の揺れや音だったのでしょうね」
「わたくし、誰かがいるとびっくりして思わず廊下に逃げてしまったけれど、実は誰もいなかったのね」
あくまで慎みを崩さずに事態をかみ砕く武藤霧子に、冷泉はひとつ肯きを示して、透へと向き直った。
「深見さん犯人説が潰えた以上、この仕掛けで発生したゴムと文鎮を回収できるのも透さんしかいません。このことについて何かありますか?」
透はなおも熱弁を振るう冷泉をまっすぐ正面から見据え、泰然と振舞った。
「それも僕を犯人だと仮定した場合に限って成り立つというだけの話だよね。仮説の一つとしては、とても良くできた話だと思うよ」
相好を崩さない透の微笑みを浴びて、何かが刺激されたらしい。らしくなく感情的になった冷泉は、好戦的に口端を持ち上げて対峙した。
「あなた、僕が確固たる証拠を握っていることに気づいていますよね」
透はただじっと冷泉を見据えたま、あたかも何も聞こえていないかのような無反応を決め込んだ。
「なぜです? 逃げられないのはわかっているでしょうに」
状況から相手を追いつめているのは確実に冷泉の方であるはずなのに、心理的にはまるで逆だった。妙に心拍が高鳴り、無性に身体が熱い。
透はなおも飄々と、肘を立てて組んだ手の甲の上に顎を載せたまま答えない。
真夏だというのに、部屋は毛穴中が刺されるようなゾクゾクした緊張感で包まれていた。
「いいでしょう。まだ続けるというのですね」
そう言って、冷泉は何かを振り払うように一つ咳をした。
「六番目の絹代さんの事件に関しては、こうですね。僕と別れて『朱雀の館』に戻った透さんは、その足で絹代さんが立てこもっている寝室へと向かった。そして絹代さんを、量を調整した薬を嗅がせて静かにさせ、静さんにしたのと同じように喉を潰して、土蔵に運び出した。それから、両手両足を縛りつけて蔵に転がし一旦冷凍庫へ戻ると、作っておいた氷の柱を運び出したのです。そしてマスターキーを着物の袖に放り込み、首を括って天井の梁から吊り下げ、彼女の身体を氷の柱の上に立たせた。このとき、既に絹代さんは体の感覚を取り戻していたことでしょう。意識や感覚がないままでは氷の柱に立つことができず、即座に首が絞まってしまいますからね。そうなれば、せっかくのアリバイトリックが成立しなくなります。薬が切れた絹代さんはさぞかし慌てたことでしょうね。朝の涼しい時間帯とはいえ、八月です。氷はみるみる解けて足場がなくなっていく。やがて、踏み台は溶けてなくなり、身体を支える足場を失った絹代さんは宙づりになり、首が絞まって亡くなった。透さんが蔵の入口を開けっ放しにしていた理由のひとつに、死体の発見を早めるためだということがあるのは間違いないでしょう。けれど、もう一つあったのですね」
「氷の解けた痕跡を隠すため、だわね」
武藤霧子が艶やかに唇を動かした。
「ええ、おっしゃる通りです」冷泉は肯き返した。「このとき、ちょうど風が出てきて雨が降り始めました。蔵の扉が開いていれば、蔵の中が濡れていても、雨が降り込んだものと誤魔化すことができます。一つ、死体の発見を早めるため。二つ、蔵の地面が濡れていることをカムフラージュするため。その二つの目的のために、蔵の入口は大きく開け放たれていたのです。――ここまでで透さん、何かありますか?」
小夜が心配そうに透に視線を送った。そのことには、透も気づいていることだろう。しかし、透は寧ろ視線を一身に受けている現状を楽しんですらいるように、悠然と佇んでいた。
「犯人である僕は、冷凍庫の氷の柱とやらが、他の人間に見つかったらどうするつもりだったのだろうね」
「即席霊安室の管理を、源一郎さんや絹代さんがするようには思えません。よって水谷さんが亡くなってからは朱野家の冷凍庫を開閉する人間があなた以外にいたとは考えにくいです」
「氷を使うのは、何も遺体の管理だけじゃないよね。食事の際に冷凍庫に用があったかもしれないだろう」
「ええ、それでも無問題です。あなたはアイスボールを作る趣味があるのでしょう。あれは氷の塊から作るものだと聞きました。ならばことを起こす前に柱を見られたとしても、なんとでも誤魔化すことはできたはず。というより……これは憶測でしかありませんが、このトリックのカムフラージュのために、あなたはアイスボール作りという趣味を始めたのではないかと僕は思っています。まあ、そうでなかったとしても、あなたはこの日のために、普段から様々な形の氷の塊を入れるようにしていたのではないですか?」
淀みない冷泉の言を受け、透はごく機嫌よさそうに目を細めて微かに首を傾けた。
「僕がボウガンで襲われた話はどう説明するんだい? 深見犯人説で君が話した、糸をひっかけて発射するとかいうせこい装置を使ったとでもいうのかな。でもさ、冷泉くん。その場合、深見が追いかけた犯人っていうのは何だったんだろうね」
悠揚迫らぬ透の様相に、冷泉の毅然とした態度での応戦が続く。
「いえ、深見さんが犯人であればそれしかないと考えましたが、今は違います。あれは、絹代さんの仕業だったのです」
「絹代さんの?」小夜が鸚鵡返しに言った。
「ええ。ですから、透さんが起こした一連の連続殺人と、透さん襲撃は全くの別個のものだったわけです。実際に深見さんが犯人を追いかけ、帰り際にボウガンと矢を発見していること、絹代さんの簪が落ちていたことからも、そうと考えるのが妥当でしょう。絹代さんが凶行に及んだ動機についても、あくまで推測に過ぎませんが、ヒントは得ています。――絹代さんの私物からこういうものが見つかりました」と言って冷泉は、箪笥の底から見つけた三冊の書籍を、応接机の上に並べて見せた。「ご覧の通り、相続や生前贈与、遺言について書かれた本です。この幾つかの頁に、源一郎さんからいかに財産を奪い取るかを画策したメモが挟まっていました」
今度は、万年筆で殴り書きされた紙片を何枚か、書籍の隣に並べる。
ソファに座っていた面々が一斉に、首を伸ばした。
「このメモからも絹代さんが源一郎さんの財産を狙っていたことが窺えます。このことから推察するに、絹代さんは静さんが殺害されたのを受けて閃いた。このまま透さんも死亡すれば、もしかしたら源一郎さんの財産が自分のものになるのではないかと考えたのではないかと思われます。透さんと静さんが亡くなれば、おのずと源一郎さんの財産の相続権は、源一郎さんが誰よりも忌み嫌う朱野穢さん一人のものになります。そうなれば、穢さんに相続させるよりは絹代さんに相続させようと、その旨の遺言書を書いてくれるかもしれない。そう絹代さんは目論んだのです。そして静さんが変死した今ならば、静さん殺害の犯人に、透さん殺害の罪も被せることができる。その考えのもと、絹代さんは透さんを襲ったのです」
小夜は小さな両手で口元を覆ったまま、唖然と冷泉を凝望した。
その視線にも動じることなく、冷泉はこれまで通りただ滔々と言葉を続ける。
「その後外部への連絡が断たれたことと、静さん、水谷さんと立て続けに殺害され、穢さんも失踪したことを受けて、彼女は焦り出します。これはいよいよ急がないと透さんどころか源一郎さんも殺されてしまうかもしれない、と考えたわけですね。そうなると、源一郎さんの財産をもらう手立てがなくなってしまいますから。それで、透さん深見さん共犯説を頑なに主張し、源一郎さんと透さんを分断した上で、二人きりで部屋に立てこもり、遺言書を書かせようと試みていたと。こういうことだと思います」
「なるほど、絹代さんは絹代さんで、透さんを亡き者にして源一郎さんの財産を自分のものにしようと企んでいたのですな」龍川医師は、ふむふむと何度も首を縦に揺らした。
「そういうことです。そして、これは憶測にしかなりませんが、これまで揃った材料から考えるに、二年前に静さんを階段から突き落とした犯人というのも絹代さんだったのではないかと思っています」
「ああ……あれも……いやあ、おそろしい……」
龍川医師はなおも神妙な顔で頷いて、白い鼻髭の端を何度も指で引っ張った。
「ちなみに、透さんがトンネルに爆発物を仕掛けたタイミングは、深見さんを白峰邸に送り届けてから、深見さんが朱野邸を訪れるまでの一時間の間でしょうね。深見さんが朱野邸を訪れた時、透さんはお風呂上りだったと深見さんは手帳に遺しています。それから、各家の電話機に仕掛けた爆発物は、先ほども言った通りですね。それこそ施錠する習慣のないこの村においては、忍び込んで悪戯するなど造作もないことでしょう。以上が、朱野透さん犯人説ですが、何か指摘はありますか?」
誰も言葉を発するものはいなかった。
その場の興味が透の反応へと向いているのは歴然であるが、誰しもが自然と透を直視するのを避けているようだった。したがって、まるで盗み見でもするかのように一様に顔を伏せたまま、横目でちらちらと窺う気配で溢れかえる。
「朱野透犯人説に矛盾はないよ。仮説としては、本当に良くできた話だ」透はふっと力を抜くように能面のような笑みを浮かべた。「しかし、他の人を犯人だと仮定しても同じような作り話が出来上がりそうだ。それでもここまで僕が犯人だと言い切るということは、君はその証拠とやらにずいぶんと自信があるようだな」
透の口ぶりは、醜く言い逃れをする犯人というよりは、愛弟子の成長を喜ぶ師のような温かみをどこかに感じさせるものだった。そのせいで、冷泉は授業中に教師から質問されているかのような妙な錯覚を受ける。
けれども、彼はすぐさま我を取り戻して、静かに事を進めた。足元から紙袋を引き寄せる。一瞬、何かを考え込むようにその包みをじっと見つめたまま動きを止めたが、やがて、「これです」と、中から角ばったものを取り出した。「小夜さんの部屋にあった時計です」
その瞬間、小夜は「やめて」と小さく叫び、透は力を抜くようにふっと笑った。それは諦念とも、満足とも取れた。
それから彼の顔は表情を失い、視線はテーブルの天板で止まった。
辺りの空気が粟立つ。透、小夜、冷泉を除いた面々は、皆一様に合点がいかない表情を浮かべながらも、それぞれが何かの終焉を感じ取っているようだった。
殺人鬼の白旗を冷泉はしっかりと受け止めた。それは、熱い酸が心にじわじわとしみ込んでくるような不思議な感覚だった。これ以上の追及は不要どころか、ともすれば過剰攻撃かもしれない。しかし、一度包みを解いた以上は関係者にその中の全てを示すことが筋であると、ただ責務を全うすべく言葉を続けた。
「これは瑞樹が小夜さんに贈ったデジタル時計です。先ほど小夜さんの部屋で尋ねたことをもう一度問います。小夜さんはこの時計の時刻を、いつ、何を参考にして合わせましたか?」
小夜は、温度を失った透の横顔を縋るように見つめたあと、冷泉に視線を移して呟いた。
「昨日の朝、居間の時計を見ながら……」
その目にみるみる透明なものが溜まり、嗚咽と共に溢れ出した。
大時計が示す時刻は零時四十五分。冷泉の手の中の時計は零時半を指していた。……
部屋には小夜の押し殺した泣きじゃくる声だけが、小さく押し寄せては引いていく波のように響いた。
この瞬間だけは、誰もが言葉を完全に失っていた。
朱野透は、顔のすぐ先の天板を、どこか遠くを見つめるような目で眺めていた。
「警察が来て調べたら全て明らかになる話だというのは、あなたが一番よくわかっていることでしょう。朱野透さん――いや朱野幸人さん」
名前を呼ばれた瞬間、朱野透――否、朱野幸人は幽かに唇を持ち上げた。
それは、ゾッとするほど冷たく美しい笑みだった。
目に灯る感情はない。それはただの二粒の虚ろな球体にすぎなかった。
静寂から一転、えっ、と誰からともなく、驚愕に満ちた声があがる。
砂鉄に磁石を突っ込んだように、ゾワッと一気に空気が逆立った。
「幸人さん……? じゃあ、本物の透さんは……」龍川小夜が慟哭を忘れて息を呑む。
「この人は朱野透さんではない。弟の朱野幸人さんです」冷泉の視線は、寂しそうで、それでいて静かに相手を突き刺すような色をしていた。
その先の朱野幸人は、ただ斜め下の何もない空間を、感情の灯らない瞳で眺めていた。
「一卵性双生児のDNA型が同じであるといっても、歯型や指紋は異なります。歯医者の治療記録や、透さんの通っていた小学校や中学校で彼の指紋を採取すれば、今の朱野透と別人であることはわかる話ですよ」冷泉は目の前の殺人鬼を正面から見た。
朱野幸人は、退屈な授業をやり過ごす学生のように気だるげな仕草で、空のグラスに手を伸ばす。そして、そのまま一気に握りつぶした。薄く繊細な透明色の破片が、昏い赤色に浸される。
室内には見渡す限り、頭の天辺から氷水を浴びせられたような顔が立ち並ぶ。朱野幸人だけが我関せず、湧き出る紅を涼しい顔で、時折恍惚と眺めていた。
「この手で糞どもを血祭りにあげた。腐った村は腐った血で洗い流さないとな。血の雨だ」
全てを察した小夜が、静かに透明な涙を流した。
十六
「いつから入れ替わっていたのです?」
龍川が涙を流したまま黙り込んだ愛娘の背に手を添えながら、戸惑い気味に尋ねる。
冷泉はそれらを一度見遣り、「十五年前の脱走事件からです。そうですよね、幸人さん」あっけらかんと、目の前の黒髪へと投げかけた。
掌の上で赤く濡れた硝子に魅入りながら現実世界から遠ざかっている様子だった幸人だったが、どうやら話はしっかり聞いていたらしい。文字通り人が変わったように投げやりな態度で口を開いた。
「ああ。透が高校から県外に進学することは聞いていたから。チャンスだと思ったんだ。いくら双子といえども、微妙に顔かたちは違うものだ。急に入れ替わったら家族や友達にはわかるだろうからな。春休み中に入れ替わって、誰も透のことを知らない新天地で新学期から過ごせばばれることはない。牢を脱走して、東京にある透の下宿に乗り込んで入れ替わった。しばらく理由をつけて実家には戻らないことにしてな」
「その時、本物の透さんを薬漬けにしたんですね。牢を出たばかりのあなたが、薬だなんてどこで手に入れたんですか?」
冷泉の質問を、愚門とばかりに朱野幸人は鼻で嗤って、「東京だぞ。そんなもの金さえ積めばいくらでも手に入ったさ」まるで朱野透を演じていた彼とは別人のように残忍な目つきで吐き捨てた。
冷泉は相変わらず気にすることなく、口を閉ざしたまま幸人の話に耳を傾けた。
「高校の入学式を控えた三月末に、水谷から下宿に電話が掛かってきた。穢が脱走したってな……その穢が俺だとも知らずに間抜けな話だ」幸人は自棄の滲む遠い目をして、口元に嗤いを浮かべた。「それから水谷はこう続けたよ。外部への体裁もあるから、脱走の件は源一郎と自分しか知らない。何か情報があったら、自分宛てにこっそり連絡をくれって。そこで電話は切れた。俺は下宿先のマンションに透を監禁して薬を与え続けた。それから奴の思考力やら判断力が完全になくなり、奴の口から情報が洩れる心配がなくなったところで水谷に連絡したさ。繁華街の外れでぼろ雑巾みたいに捨てられているのを発見した、様子がおかしいんでヤクでも打たれてんじゃねえかってな。それがちょうどその年の八月のことだな。東京くんだりで薬漬けにされていたなんて、源一郎の狸に知れたら監督不行き届きで叱られるのは水谷だ。東北のどっかの山奥で見つかって、恐怖から精神に異常をきたしたことにでもにしようかって提案したら、さすが透さんだなんて感謝されたよ。てめぇが拝んでいる透さんこそが騒ぎを起こした張本人だとも知らずに馬鹿な野郎だ。そこから先は、水谷の日誌にあったとおり」
村一番の人格者の豹変――否、その正体に、住民皆が絶句していた。
その小針で刺すような視線ですらも愉悦とばかりに、幸人は悠々と話を続けた。ぽつぽつと、よく通る澄んだ声で。気だるげに緩んだ目元は、もの悲しくもどこか美しかった。
「高校大学の七年間村に帰らなければ、細かい顔つきや身体つきが変わっていても年月のせいだと見過ごされるだろう。そう考えて、俺は何かしら理由をつけて一度たりとも村へは帰らなかった。つかの間の自由を楽しんだよ。そうして大学を卒業して、実家に戻ったさ。村に復讐するためにな」
そう言って、幸人は恍惚と血濡れの右手を光に晒した。その身から溢れた昏い赤色が、鈍く光を反射する。
「百合子さんと松右衛門氏も、事故ではなくあなたが殺害したのですよね」
頃合いを窺って差し込まれた冷泉の問いかけに、幸人はとろりと視線を転がし、「ああ」と事も無げに嗤った。「皮膚から入り込む毒薬があるのを知っているか? 百合子はな、食事を持ってくるたびに俺を殴ってストレスのはけ口にしていたよ。抱えていたアルミの皿を投げつけて、気が済むまで殴って、それが済むと何ごともなかったかのように空になった食器を持って出て行くんだ。それだけじゃねえぞ」透は喉の奥で、さも可笑しそうに笑みを潰した。「あいつ、俺のこと、犯してやがったんだ。透くん透くんと呼びながらな」
遠くで雷鳴が轟く。誰かの喉がごくりと鳴った。
「牢のドアノブの内側に少量ずつ毒を塗り続けて、じっくりと苦しめながら殺してやった。
松右衛門のじじいはな、全ての元凶だ。あいつが村の癌だった。井戸の前に呼び出して足を払ってやればあっけなく落ちていったよ。死体を引き上げるときは、あまりの気持ち悪さに虫唾が走ったが、蛆虫にお似合いの醜い最期だ。せいせいしたさ」
話すうちに、幸人はどんどん自分だけの世界に入り込んでいるようだった。想いを馳せるように目を細めたり、口元を笑みの形に緩めたり、それはある種、蠱惑的な魔力で見る者を惹きつけるものだった。
「源一郎もな、殺したくらいじゃ留飲は下がらないが、まあせいせいはしたな。この瞬間のために生きてきたって部分はあったから、達成感はあった。俺の正体を、お前が散々可愛がってくれた穢だと明かすと、出目金みたいに目ェひん剥いて、脂汗浮かべて絶句していたな。それから顎を潰され両手を切られて、恐怖と痛みと絶望のどん底に落ちたまま死んでいったんだ。いい気味だな。正直あと百回殺し足りねぇくらいだが、まあそれなりのショーだった。
藤川絹代は、源一郎を殺した後で殺すと決めていた。あいつが源一郎の財産目当てで近づいてきたってことは一目見たときからわかりきっていた。俺も静も実際に何度も命を狙われかけたからな。悉く失敗しながら、それでも狸じじいにどうにか遺言書を書かせようとコソコソ画策する様は、憎さ通り越して滑稽だった。狸を殺して、財産はもう手に入らなくなったんだと絶望させてから吊るしてやったさ。財産欲しさに子供を殺しにかかるような女だ。死んで当然の金の亡者だよ。
透も静も水谷も。俺のことを気の毒だと口では言っていたが、結局見てみぬふりして自分たちだけ自由を謳歌していたんだ。同罪だな。善人のふりをして、いざ苦しんでいる人間を前にしても、安全地帯から眺めているだけの偽善者だ」
小夜が、何かを言いたげに唇を開いたが、腹に力を入れたところで言葉が見つからなかったのか脱力して俯いた。
龍川医師がやりきれないとばかりに、首を左右に揺らす。琴乃はいまだに信じられないふうで、愕然と口を開いたまま放心していた。
そんな面々をひとしきり目でなぞった冷泉は、改めて正面から幸人を見据えて、ごく純粋に疑問を並べ立てた。
「幸人さん。僕には一つどうしてもわからないことがあります。なぜ、朱野透さんの遺体を僕たちに見つけさせたのですか? あのままあなたが彼の遺体のある洞窟に僕を導かなければ、僕は深見さん犯人説を信じたまま、今も真相に辿りつくことなく過ごしていたはずです」
朱野幸人はしばらくじっと考え込み、やがて馬鹿らしくなったかのように自嘲っぽく笑った。
「さあ、なんでだろうな」そう言って視線を明後日に飛ばす。「まあそんなことどうだっていいだろ。どうせ逃げる気なんてなかったんだ」
その横顔に、冷泉はシャボン玉を両手で掬うように丁寧に問いかける。
「あなたは、知っていてほしかったのではないのですか?」
反応はない。鼻歌でも歌うような暢気さを滲ませ、穏やかに遠くを見つめるその横顔に、構わず冷泉は投げかけた。
「僕は先ほど、この事件の犯人は自己顕示欲にあふれていると言いました。十五年間を日陰で過ごし、その後も朱野透としての人生を歩んできたあなたは、ご自身のことを、朱野幸人という存在を、世間に見て欲しかったのではないですか」
依然朱野幸人からの返事はない。が、その視線だけは、滑るように斜め下へと転がった。
「僕は、事件を解いている間、ずっと犯人から手招きをされている感覚でした。壁にぶち当たるたびに、絶妙なタイミングで少しずつヒントが降ってくるような。水谷さんの日誌だって、事件の真相を知られたくないのならば、隠すなり、捨ててしまうなりすればよかったし、そもそも水谷さんの部屋に僕たちを立ち入らせない理由なんていくらでも作ることはできたはずですよね」
反応がない。朱野幸人はそっぽを向いたまま、地面から何もない壁面へと、縦方向に視線だけをずらした。自身が閉じ込められていた封印の城に二十三年分の思いを馳せているようにも、逆に全くの虚無のようにも見えた。
「あなたが捕まることを恐れていなかったというのは真実なのでしょう。今回の事件は、密室にしてもアリバイ工作にしても、一見凝っているように見えて、その実、科学的な捜査の手が及べば、すぐに犯人にたどり着きそうなものばかりでしたから。目的を成し遂げるまでの間、この村の中にいる僕らを欺きさえすればよかった。復讐を完遂すれば、捕まってもよかった。そう思えることだらけです。けれども、おそらくそれだけではないでしょう。寧ろ逆ではないですか? 知って欲しかった。村の呪いが生んだ悲劇を、朱野幸人という人間の存在を見てほしかったんじゃないですか?」
「知らないな。難しいことはわからないよ」
黙って聞いていた幸人だったが、場に齎された奔流をせき止めるように、そこできっぱりと言葉を差し込んだ。表情だけは至極穏やかで、無音声で再生すれば何気ない談笑のワンシーンと見まがうほどだった。
そんな朱野幸人の掴みどころのない情緒を、冷泉はただ正面から眺めていた。本音をはぐらかしているようにも、幸人自身、情緒や本心を持て余しているようにも見えた。
無音の小休止に、ようやく思考の整理が追いついたのか、白峰琴乃が歯車の錆びたねじ巻き人形のようにぎこちなく顔を上げた。
「人殺しは許されないとはいえ、あなたが朱野家に恨みを持つのは仕方のないことだと思うわ。見てみぬふりをしていた村の人間のことも、憎く思うでしょう。でも、どうして……? どうして陽介は殺されなければならなかったの?」
言葉を紡ぐごとに、想いが熱い雫となって溢れ出す。嗚咽と涙に溺れる合間に息をつぎながら、琴乃は懸命に気持ちをぶつけた。
そんな琴乃の拙い泳ぎが無事に岸へとたどり着くのを無感情に待ってから、朱野幸人はこともなげに唇を持ち上げた。
「嫉妬だろうな。憎くて羨ましくて仕方がなかった。同じ村の子として、朱野源一郎の子としてこの世に生を受けておきながら、早々とこの村からの脱出に成功した深見陽介という男がね。そう、完全に外の世界で、何も知らされないまま、しがらみなく生きているという点においては、透よりも憎かった」
羽根より軽い口調で躊躇なくもたらされた愛弟の死の真相に、白峰琴乃は声をあげて泣き崩れる。少女のような母親に瑞樹は寄り添い、罪悪感やら戸惑いやらやり場のない憎しみやらが綯交ぜになった視線で幸人を照らした。
それらを一通り確認して、冷泉は落ち着いた口調で尋ねた。
「あなたは、いつ深見陽介さんの出自を知ったのです?」
「大学を卒業して村に戻って来た年の夏、ちょうど一年前だな。水谷が源一郎の使いで二日間村を離れることがあったから、そのときを見計らって水谷の部屋に忍び込んだ。そこで日誌を読んだんだ。あいつが日誌をつけていることは、屋敷を改装した際にチェックしていたからな。復讐相手の選定をするために、被告人どもの罪状を確認する目的だったが、意図しないところで爆弾を見つけた流れさ。なにやら俺には陽介という腹違いの弟がいるって話じゃないか。深見陽介は六山市出身だって話だったし、朱野源一郎の隠し子である陽介と深見陽介が同一人物だったら奇遇すぎて面白い。興味半分で調べ始めたら本当にそうだったもので、流石に驚いたよ。あいつ、本当に俺の弟だった。運命のいたずらってやつか。これは天啓だと思ったね」
目を細め、遠くに想いを馳せる幸人は、またも自分だけの世界に還ってしまったように見えた。
「ずっと独りだった。時折透が大人たちに隠れて牢にやってきて、あれこれ教えてもくれたがな、それだけだ。教育も受けてないし、人との交流の仕方もわからない。こんな捻くれた俺とでも気が合ったのは、同じ血が流れていたせいだったんだな」
幸人は嘲るように吐き捨てた。透に扮していた幸人は、社交的かつ知的で人望の厚い青年だったため彼の言うままが真実だとは到底思えなかったが、ただの自虐だろうと冷泉は特に反論も慰めも挟まなかった。
「何も知らなかった陽介を殺すのなら、私を殺してくれればよかったのよ。貴方が言うように、見てみぬふりをしていた住人のうちの一人じゃない」地面を見つめたまま、琴乃がいじける子供のように涙声をあげた。
その瞬間、幸人が音もなく立ち上がる。その場にピリッと緊張が走り、冷泉と瑞樹の眼に武人の焔が灯った。瑞樹は、幸人を凝視したまま、ソファの下から竹刀代わりの角材を手繰り寄せる。
「あなたが陽介にしたことは、ただの八つ当たりよ」
「ああ、そうだよ。全てを呪ってんだ、俺は」良く通るその声は、地鳴りのように共鳴してその場を包み込む。凶暴な眼光が、琴乃の頼りない背中を炙った。「お前もこの憎き村の住人の一人だってことを忘れたのか? お望みならば、今からでもぶっ殺してやろうか。どうせできっこないと踏んで口だけで言ってんだろ? いざ殺られる段になれば、ひいひい泣いて命乞いするくせに、恰好つけてんじゃねぇぞ」
あまりの言葉の礫に、瑞樹が母を背に隠すように一歩前ににじり寄った。しかし幸人は、そんな瑞樹の姿は目に入らないかのようにその奥の琴乃を、溝にこびりついた汚泥を見るような冷たい目で見下ろして唇を歪めた。
「八つ当たりだ? 上等じゃねぇか。そうだよ。深見は何も悪くねえよ。あいつはただまっすぐに生きていただけだ。本当にいい奴だった」微かに幸人の喉が詰まった。「だがな、もとよりくだらない信仰にこっちを巻き込んだのはお前らだろ。なんでこっちだけが地獄を味わわなきゃならないんだよ。何も悪いことしてないのに。ただ生まれてきただけでよ」
幸人の血を吐くような静かな叫びが、腹の奥底から全身を震わせる。琴乃は顔を覆い、わっと歔欷の声をあげた。ごめんなさい、ごめんなさいと音の形を成さない叫喚が、湿った闇に消えていく。
いつしか琴乃の流す涙のいくらかは、幸人の心境を想ってのものへと変わっていた。残酷に命を奪われた陽介の姉としての白峰琴乃と、残酷な信仰に対し見てみぬふりを続けた罪深き村人の一人としての白峰琴乃。立場と立場とのはざまで、琴乃の心は張り裂けんばかりに激しく揺れ動く。
傷つき疲れ果てた幼い獣が血の涙を流すさまを、各々黙したまま、思い思いにその身に焼き付けていた。
「今更口だけの謝罪で償った気になるんじゃねぇぞ。そんなことしたって、なかったことにはならない。俺は人間らしく生きることは端から諦めていた。生まれた瞬間に奪われていたんだ、望みようがないさ。地獄から出られないのならば、全員俺と同じ場所に落としてやる。村の連中に同じ苦しみを味わわせてやることだけが、俺の唯一の生きる目的だった。本当は村ごと一気に皆殺しにして、滅ぼしてやろうかと思っていたんだけどな」
憎しみをこれでもかと凝縮したマグマのような眼光で、その場を横薙ぎに焼き払う幸人の視線を逃げることなく受け止めていたのは、瑞樹と小夜と武藤霧子の三人だけだった。
「それは、武藤霧子さんの存在があったからですか?」
背後から突然差し込まれた質問に、朱野幸人の顔色が明らかに変わった。
「は?」幸人は冷泉を振り返った。
「あなたは、武藤霧子さんがかつて源一郎さんの身勝手な都合により、子供と引き裂かれたことを日誌から知って、彼女に親近感を覚えたのではないですか?」
「うるせぇな」笑顔でナイフを振りかざす子供のような無邪気な顔で、幸人は一蹴した。「知らねぇし、知っていても教えるかよ。自分で考えな」そして椅子へどかりと座り、暖簾を下ろした。「さぁ宴は終わりだ。煮るなり焼くなり縛るなり好きにしろよ。俺は抵抗しない」
そうして、処遇を委ねるべくその場へ力のない視線を投げかける幸人の態度を受けて、住民たちの間に互いの動向を窺うような視線が飛び交った。
住民の誰しもが、目の前の殺人鬼への恐れや怒りと同じくらいの罪の意識を抱えていた。その罪悪感が、殺人鬼を拘束しようとする手を押しとどめるのだろう。
動くものは誰もいなかった。
「つまらないな。これ以上被害者を生まないために、犯人の正体を明らかにしたんだろう? 今更うわべだけの罪悪感とか気取ってないでさっさと縛り上げてみろよ、偽善者どもめ」朱野幸人は薄笑いを浮かべて低く言い放つ。語調が静かなのがかえって恐ろしかった。「罪悪感だ? 持ち合わせてないくせによ。そんなもん、小指の先程でもあったのなら、なんで助けてくれなかったんだよ」
「違う」 呪詛を断ち切る高い叫びが、室内を切り裂いた。小夜だった。「透さんは、あなたを助けようとしていたわ」
少女の悲痛な叫びにも幸人は何かを感じた様子はなく、冷めた目でもって一瞥を加えるだけに終わった。
「ああ。そういや、透と恋人ごっこしていたんだっけ。十歳の小娘に手を出すなんて、透も俺に劣らずとんだ変態野郎だな」
「違う、違う」大切な人の身に投げつけられる泥土を振り払うように、小夜は短い髪を乱して左右に首を振った。「透さんは、あなたを連れて村から逃げ出そうとしていた……!」
少女の告白に、その場の空気が粟立った。唯一、瑞樹だけが思うところがあったようで、曇った面でふいと視線を逸らした。
集まったその場の視線にも動じることなく、小夜は感情を抑えるようにふうと一つ息をつくと、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「ええ、そう。私は透さんにずっと憧れていた。幼稚な恋だったけれど、透さんは馬鹿にすることなく受け入れてくれていた。忘れもしない、これは透さんが東京の高校に合格して、いよいよ村を離れることが決まった日のこと。透さんから大人になったら一緒に村を出ないかと持ち掛けられたのよ」
はじめて耳にする娘の告白に、龍川医師は目を剥いて驚きを示した。
そんな父の反応を気に留める様子もなく小夜は力強く話を続けた。
「もちろん、私は喜んで受け入れた。ずっとこの村は変だって一緒に話していたから、何も拒む理由はなかった。透さんは、大学を卒業して外で就職先を見つけて、一緒に暮らす手はずを整えたら、彼の弟妹と私と瑞樹くんを必ず迎えにくると約束してくれた。その時私は高校生になっているはずだから、村の外でも生きていけるようにきちんと勉強をしておくことを約束して、透さんの背中を見送ったの」
少女の切ない告白が響き渡る。小夜は思いを馳せるように遠くへ飛ばしていた視線を、近くに手繰り寄せて目を細めた。
「けれど透さんは村に戻ってきてから、そんな約束なんか忘れてしまったかのように、ぱったりその話を口にしなくなってしまった」小夜は沈痛そうに、一度視線を落とした。「まさか、透さんが幸人さんと入れ替わっていたからだなんて、想像もしなかった」
あの幼い小夜の口から出ていると思うと信じられない、そんな様子で龍川医師と琴乃は華奢な身体から溢れ出す力強い告白を見つめていた。
幸人は何の反応も示さず、ただ気怠げな半眼で、くだらないとばかりに宙を睨んでいる。
「透さんは、自身と弟を引き裂き、不条理に監禁するこの村を心底憎んでいたわ。けれど、まだ子供である自分にそれを覆す力は持ちえない。だから、大人になったら必ず外の世界に連れ出すといつも言っていた。今考えたら、警察に駆け込むことだってできたのかもしれない。けれど、彼は頑なにそれを拒んだわ。失敗を恐れているようだった。何の躊躇いもなく赤ん坊を牢屋に閉じ込める村の冷徹さを見て育ったものだから、狂信的な信仰と体格差が持つ圧倒的な力を前に、恐怖を抱くのも仕方のないことだと思う。幸人さん、あなたには彼の思いが伝わらなかったの?」
幸人は貝のように何も答えない。ただ、顎を引き、睨むようにして虚空を見つめていた。
小夜はそんな彼の心の胸ぐらをつかむように、一歩身を乗り出した。
「幸人さん、あなたも言っていたじゃない。あなたが牢から出てきたときに少しでも役立つように、透さんはこっそりと本や新聞を頻繁に届けていたでしょう? 大人たちを恐れていたあの人が、危険を冒してその目を盗み、あなたに言葉を教え、書物を届けていたこと。これが弟を救う気持ちでなければ何だというの?」
「…………お前に何がわかる……」
地を這うような声に、小夜の細い体がびくりと跳ねた。
幸人の身体は小さく震えていた。垂れた前髪の隙間から覗いた目から情念の塊が零れるのが見えた。
辺りは水を打ったようにしんと静まり返る。各々がごくりと喉を鳴らす音さえもが響き渡るようだった。
「なんであなたがそんな顔をするのよ! あなたが殺したくせに!」
小夜の声が弾丸のように暗く湿った部屋を横切った。射抜かれた男は痛みに耐えるように固く俯いていた。
「透さんは……もう……泣くことすらかなわないのに……」
その言葉は、徐々に溢れる想いに呑み込まれて消えた。瑞樹がやりきれないという表情で小さく首を振る。
「小夜」
龍川医師の声が飛ぶ。しかし少女の耳には、そんな父の声さえ耳に入らないようだった。
「あなたは、そんな透さんを薬漬けにして、最後は虫けらのように殺したのよ」
小夜の左目からも一滴の光が零れた。
愛する者を喪った彼女は、それを拭おうともせずにその場に凛と立っていた。
「やめなさい、小夜。どんな理由があろうと殺人だけは断固としていただけないが、透さんの本心を幸人さんは知らなかったんだ。もしかしたら、上京した透さんから見捨てられたように思ったのかもしれない。彼が知らない透さんの本心まで持ち出して責め立てるのは少し違うだろう」
穏やかに窘める父の言葉に、小夜は小さくしゃくりあげる。そんな娘の姿を少しの間眩しそうに眺めて、龍川医師は静かに言った。
「すべてはこの村の悪しき風習と、それに異を唱える勇気すら持ちえなかった我々が悪いのです」
その言葉に、白峰琴乃の目線が示し合わせたようにしゅんと項垂れる。
冷気が足元から駆けあがるような沈黙を、一歩後ろから俯瞰するように眺めまわして、冷泉は何度か口を開閉した。唇を噛みしめては開く、それを三度繰り返したところでついに意を決したらしく、目に強い光を宿して静かに言った。
「幸人さん……あなた。もしかして、透さんを殺していないのではないですか?」
「え?」
幸人以外の、その場の全ての者のまなざしが冷泉へと注がれた。その驚愕を一身に受けてもなお、冷泉は淡白な表情で燃え盛る暖炉へと薪をくべる。
「透さんは自殺だったのではないでしょうか」
幸人の左の眉がひくりと動いた。しかし、それきり幸人の身体は動きを止めた。
今度は次第に幸人の方へと視線が移りはじめる。冷泉に集まった際の反射的な鋭い視線とは違い、今度は各人がおもいおもいに視線に衣を着せたような、遠慮がちなものであった。
「そんな……どういうことだ……透さんは薬で分別を失っていたんじゃないのか……」
頭の中だけでは受け止め切れずに溢れた混乱を発散でもするかのように、龍川はがりがりと頭を掻きむしった。そんな老医師の方へは視線を向けず、あくまで幸人を正面から真摯なまなざしで見据えて、冷泉は穏やかな声で尋ねた。
「それどころか……透さんを殺してもいないし、薬漬けにしてもいない。合意での入れ替わりだったのではないかという考えが、今僕の頭の中には浮かんできています」
「な!」
静寂が微かな動揺の波に変わる。
幸人は何も答えない。ただ、据わった目でじっと冷泉を見つめていた。それをもって彼が沈黙を選んだと判断した冷泉は、そのまま言葉を続けた。
「僕は先ほどまで、東京での空白の四か月を、幸人さんが透さんを薬漬けにするための期間だったのだと考えていました。つまり薬が効き、透さんの判断力が失われるまでに要した期間ですね。けれど、ここまで様々な話を聞いていて、この予想は間違いだったのではないかという考えになってきています」
幸人は瞬きに伴って視線を落とした。唇を固く引き結んだままだ。
「生まれてから十五年間を牢で過ごしていた幸人さんが、難なく透さんと入れ替わるには、それなりの教育が必要だったはずです。それを施したのは、誰だろうということに関しては、僕も疑問に思っていたのですが……その謎はみなさんも聞いたとおり、幸人さんと小夜さんの話により明らかになりました。けれど、透さんがそこまで密に幸人さんと交流していたとなると、新たな考えが浮上してきますね。すなわち『四神村脱出計画』について、透さんが小夜さんや瑞樹に打ち明けていたように、幸人さんにもまた打ち明けていたのではなかろうかという考えです」
ここで冷泉は一度話を切り、幸人の反応を待った。しかし、幸人は魂を失ったようにじっと足元を見つめたまま動かない。寧ろ彼よりも周りの者の方が、食い入るような視線でもって熱心に冷泉の話に耳を傾けているようだった。
「まあ……本来ならば、僕が憶測で話すよりも、幸人さんご本人から話を聞くのが一番なのでしょうがね」と、冷泉はもう一度幸人を見遣る。
幸人に話す意思がないのを確認してから、少し残念そうな表情をちらつかせて続けた。
「ええ、まあ。幸人さんが透さんの何かしらの尊厳を守ろうと、彼の関与をなかったことにしたいのだろうことはわかります。そのために、頑なに口を閉ざしているのでしょう。
話を戻しますと、……まあ、そういうわけで、入れ替わりももしかしたら合意の上でのことだったのではないかと、僕は考えたわけですね。東京で幸人さんと透さんは合流し、四か月の間透さんは幸人さんを匿い、共に村の外で暮らして社会のあらゆることを教え込んだ。そしてそれが終わると、自身は幸人さんになり替わって四神村に戻った。この主旨を憶測するならば……そうですね。『脱出計画』が成功した後で、幸人さんが牢の外でも生きていけるように外に慣らすためと、それから境遇の不公平さを埋める意図があったのではないかと思います。幸人さん、どうですか?」
具体的な冷泉の質問にも、幸人は反応を示さない。ただじっと貝のように口を噤んだまま、思いつめたような険しい顔で足元を睨んでいた。
それらを見比べるように視線を撒いた後で、瑞樹が普段よりワントーン低い控えめな声をあげた。「じゃあ、透さんは薬で分別を失っていたわけじゃないの?」
「はっきりとはわからないな。ここまで聞いた透さんの為人を考えるに、透さんに分別があったのならば、今回の幸人さんの凶行を止めたんじゃないかと思っているが」
冷泉の見解を聞き、瑞樹は沈痛な面持ちで視線を落とした。
「俺もそう思うんだ。あの透さんが復讐に走るなんて……考えにくくて」
「あの優しい透さんが凶行を許すわけない。絶対に」小夜が噛みついた。
眦を上げた彼女に、瑞樹は困ったような視線を返して言った。「透さんが最期の瞬間まで分別を保っていたとしたら、どうにか助けを求めようとはしなかったのだろうか」
「きっと……無理やり縛られて洞穴に監禁されていたのよ。家で殺人事件が起きたとなれば、透さんだって暢気に幸人さんのふりなんかしていられないわ。入れ替わりのことを話してしまうかもしれない。そうなると、幸人さんの復讐は失敗に終わる。だから幸人さんは、邪魔な透さんを洞穴に連れ去ったのよ」
小夜は、幸人への敵意を引きずったまま感情的に言い放った。幸人はうつろな表情で足元を眺めていた。
「それで……透さんは、悲しくなって自ら……」
そう言って眉根を寄せる小夜に、冷泉は幾つかの相槌で以て理解を示すと、あくまで理性的な口調で差し挟んだ。
「その説も考えましたがね。少し違和感があるのですよ」少女の不服そうな視線にも動じず、冷泉はなおも事務的に続けた。「まずは手錠がはまっていた手足に抵抗した痕跡がなかったこと。それから、洞穴にあった飲食物に手をつけた形跡がなかったことですね」
「それだったら、薬で身体に力が入らないようにされていたかもしれないじゃない。現に幸人さんは、絹代さんを殺害するときにはそういったものを使ったのでしょう?」
「だとすれば、飲食物を彼の手の届く範囲に置いたことと辻褄が合わないと思いませんか」
「辻褄?」小夜はきょとんと眼を丸くした。
「薬で全身の自由を奪った相手の傍に、自力で摂取しなければならないような飲食物を置くでしょうか」
小夜は考え込むように唇を噛んだ。
そんな少女を横目に、冷泉は全体へと声を撒くように視線を上げた。
「違和感はまだあります。透さんと幸人さんが『脱出計画』の話を共有し、それを成し遂げるための準備として入れ替わりを行っていたのならば、彼らの『計画』は順調だったはずですね。では、ここで幸人さんの立場で想像してみてください。彼が時間を掛けて築き上げてきた『脱出計画』を捨てて『復讐』へと方向転換するに至った理由は何だったのでしょう」
小夜はうっと詰まったような表情で言葉を飲み込んだ。思わぬ暗礁が出没した空間に、敢えて明かりを当てなおすように、冷泉はもう一度言った。
「幸人さんを『脱出』ではなく『復讐』に方向転換させた出来事は何だったのでしょうね。『脱出計画』に暗雲が立ち込めた、あるいは、計画そのものが頓挫したことだけは確かでしょう」
辺りは言語という概念を失ったように静まり返る。唯一言葉を知る冷泉だけが、別空間にいるようだった。
「それともやはり、透さんも復讐支持者へ鞍替えしたのでしょうか。彼自身、監禁生活を、身をもって体験したことで、村や家族への憎悪が倍増したのでしょうかね。つまり、透さんの同意を得た上での犯行だったと」
「そんな――」
異を唱えようとする小夜を、冷泉は有無を言わさぬ視線で制した。それと時を同じくして、幸人の目に突如感情の火が戻った。
「透は関係ない」
きっぱりと言い切った幸人に、冷泉はゆっくりと頷き返す。言外に話してくれると信じていましたとでもいうような、どこか温かみのあるものだった。
「関係ないのですね」
「下手な芝居打ちやがって。大人を舐めるなよ、糞餓鬼が。俺が話さなければ、透も共犯だったということで話を進める魂胆だったんだろうが、生憎警察が捜査すれば俺の単独犯だったことは明らかになる」
冷泉は悪びれもせずに、じっと幸人の言葉を待った。幸人の言うとおりだった。幸人が透を巻き込まないために、真実を隠し全ての罪を一人で完結させようとしていることはわかっていた。だから、逆にその気持ちを利用して、透共犯説を土台に話を進める素振りを見せたのだ。そうなると、透を守るために幸人は真実を話さざるを得なくなる。
そしてその目論見のとおり、やがて幸人は観念したように小さく息を吸った。
「透は……」幸人はそこで口を噤んだ。何かを考え込むように、しばらく足元を見つめ、それから視線を持ち上げて冷泉を正面から見据えた。「冷泉くんの言うとおりだ。俺と透は合意の上で入れ替わっていた」
小夜を筆頭に、住民たちは透の分別の有無が気になる様子だったが、冷泉はそれを背中で制してすかさず言葉を挟んだ。そうして幸人の発話意欲を削がないために、慎重に話を掘り下げる。
「透さんと二人で東京に脱出した時点で、警察に通報しようという話にはならなかったのですか?」
「なった。というより、そもそも俺はもっと小さいうちから、まわりくどい脱出よりも、とっとと家の者どもを皆殺しにしたいと透にぼやいていたんだ。たまに虐待しにくる百合子にも我慢がならなかった。だから、あいつをぶち殺して鍵を奪ってそのまま牢を飛び出して皆殺しにしてやろうと本気で思っていた。だが何度も透から宥めすかされた。そうするうちに、そんなことしたら透にも迷惑がかかると思うようになった。そのおかげで、すんでのところで踏みとどまることができたんだ。まあ、結局耐えられなくなって、百合子のことは殺したわけだが」
「そのことは、透さんも知っていたのでしょうか」
「知らない。うすうす勘づいてはいたかもしれないけどな。証拠でもあれば、それこそ透は監禁犯の親父と、殺人犯の俺を警察に突き出しただろうよ」
「でも、殺人の証拠がなくても、監禁がある時点で警察を呼ぶべきでしたよね」
「全くその通りだ。皆殺しが駄目ならば、早く警察に通報してくれ、俺をここから出せとだいぶせがんだが、透は頑なに首を縦に振らなかった」
「なぜでしょうか」
「朱野家だけの問題ならやったんだろうけどな」
「それは、監禁の問題が朱野家だけに留まるものではなく、村全体に関わるものだからということでしょうか」
冷泉の問いに幸人は肯き返した。
「警察に通報したら、現代に残る奇怪な村としてメディアは面白おかしく報道するだろう。そうなると、俺らだけじゃない。他の子どもたちも含めて晒しものになり、未来が潰れかねないというのが透の考えだった」
「なるほど。透さんは瑞樹や小夜さんのことも心配していたのですね。犯罪を容認していた奇怪な村の元住民だなんてレッテルに一生苦しめられるよりも、村に異を唱える者だけで村から逃げ出して生きていく方が心身ともに自由になれるだろうと。近年話題に上るようになった、被害者の人権問題の領域ですね」
冷泉の要約を受け、幸人は、自身の頭の中に住む透の考えを参照でもしているかのように、一拍間をおいてから首肯した。
「そういうことだろうよ。透もまだ幼かったし、村の外の世界のこともほとんど知らなかっただろうから、村の価値観にかなり支配されていたんだろうな。今振り返ればそう思う。跡継ぎがいないんじゃ、村も滅ぶ。それでいいんじゃないかっていうのが透の考えだった」
「透さんは、跡継ぎ世代が揃って村から離れることで、あなたがたの代で静かに村を終わらせようとしたのですね」
「俺には到底理解できなかったがな。じゃあ俺はどうなるんだ、お前が大学を卒業するまで我慢しなきゃならないのかと俺が異を唱えたら、『それについては考えてある。俺が幸人の代わりに牢で時間を過ごすんだ。幸人は自由が手に入るし、俺の望みも保たれる。利害一致だろう』と。透のやつ、事も無げにそう言いやがった。それが入れ替わりの真相だ」
「そうだったのですね」
観念したようにぽつぽつと話し始めた幸人に、冷泉は傾聴の姿勢を示す。そんな相手を胡乱げに一瞥して幸人は明後日の方向へ視線を投げた。
「ならば、脱走のときに、牢の鍵を開けたのも透さんですね。どのようにして牢から出たのだろうと疑問にと思っていたのですよ」
「その通り。透がまず東京で住まいを整えて、それからこっそり迎えにきた。俺には土地勘がないからな。二人で一緒に東京まで行った」
冷泉はんー、と小さく唸った。「ここまで話を聞くに、やはり村からの脱出計画は順調そうに聞こえるのですが、あなたを復讐へと駆り立てたのは何だったのですか?」
冷泉が話の舵を切ると、幸人は急に難しい顔で俯いた。それから、憎悪を滲ませた燃えるまなざしで宙を睨んだ。
「あいつのせいだ。大学卒業を三か月後に控えた二年前の冬、透が倒れた」
「あいつ……ああ、そうだったのですね。そうか。だから、あなたは透さんを」
冷泉はひとり何かに合点がいったように、ため息混じりの声を零した。
「水谷からの報せを受けて駆け付けたときには、透は寝たきりで意思の疎通もままならなかった。いつ死んでもおかしくない状態だったんだ。藤川絹代が透を殺そうと一服盛ったんだよ」
「……絹代さんが?」
全てを悟ったように黙りこくってしまった冷泉に焦れたのだろう。それまで穴が開くほどの真剣なまなざしで話に耳を傾けていた小夜が後を継いだ。
「慌てて下宿先を引き払って村に戻った。卒業に必要な単位は足りていたからな。それからしばらく経った頃、俺は見たよ。藤川絹代が今度は俺の食事に何かを混ぜようとしているところをな。その場で気づいて問い質したが何もしていないの一点張りだ。聞けば、秋に静が落下したベランダの板も不自然に腐食していたというだろう。確信したさ」
「財産狙いというわけですな」と、龍川が重い息を落とした。
小夜が「酷い」と両手で口を覆う。
「絹代を野放しにしていたら、遅かれ早かれ俺や静もやられていただろうよ」
「透さんを病院に連れてはいかなかったのですか?」
「龍川が診ておしまいだ。元に戻す手立てがない以上、病院に期待できることなんて何もない」
「その時点でもまだ通報しようとは思わなかったのですか?」
「それになんの意味がある」幸人は至極当然というふうに、尋ねた冷泉を燃え滾る強いまなざしで見据えた。「絹代の殺人未遂は証拠不十分で検挙が難しいかもしれないが、俺と透は間違いなく保護されるだろう。源一郎たちは法に裁かれる。でもそのことに何の意味があるんだ」
冷泉は黙ったまま、幸人の顔を凝視した。
何人かの息を呑む声がこだまのように響く。
「俺たちの計画は台無しになった。透が死ぬのならば意味がない。あいつは俺の世界の中にいてくれなきゃ駄目なんだ。あいつのいない世界なんか俺は知らない」幸人はそこで燃え盛る焔に蓋をして視線を落とした。「残ったのは復讐だけだ」
予想だにしなかった、血を吐くような殺人鬼の告白に誰しもが言葉を失った。
「俺は内定を放り出して実家に戻った。計画はなくなった。未来なんか無価値だ。残されたのは復讐だけ。なんてことはない。もとから俺は復讐を望んでいたんだ。復讐鬼が復讐鬼に戻っただけだ。つかの間の白昼夢だったんだ」
黒い焔がすっと消えたように、幸人の表情から生気が抜け落ちた。彼が透だった頃に戻ったような、棘のない目をしていた。
これが本来の幸人だろう。冷泉は初めて彼と相見えたような気持になった。
「ここから先は、冷泉くん、君の推理通りだ」
「ひとつ、あなたがなぜ透さんを洞穴に監禁したのか。それは、絹代さんの魔の手から彼を守るためだったのですよね。先ほど合点がいきました」
幸人は口元を緩めて力なく俯いた。
「そのはずだった……まさか太枝を削って喉を刺すなんて……どこにそんな力が残っていたんだ。多分、どこかでわかっていたんだろうな。俺が何をやっているかを。あいつは……あいつは俺と違って優しい奴だったから……。昔から器用であれこれ彫って玩具を作ってくれていたけど……最後に作ったのが自らの喉を貫く道具だなんて……」
小夜が堪え切れなかった涙を隠すように、声を押し殺して両手で小さな顔を覆った。幸人の、強すぎて歪むほどに激しかった透への思いに対する、彼女なりの敬意なのだろう。
きっと朱野透は、自身のために殺人鬼となる道を選んでしまった弟の姿に耐えられなかったのだ。
もはや真相の語られることのない朱野透の真実に思いを馳せて、冷泉は深い息をつく。
自らが教育を施し、与えた夢を共に追い、けれども自らが毒に倒れたことで夢破れ、復讐の鬼になり果てた弟の姿に涙しながら最期を迎えたのだ。
「あいつは……絶望の中で死んでいったんだ……」
水を含んだ真綿が鳩尾に巻き付くような、そんな痛みが各々の胸を襲い、その場は重い沈黙に包まれる。
やがて龍川がやりきれないというふうに白髪を左右に振って、地を這うような声を零した。
「幸人さんが閉じ込められることがなければ、朱野幸人として当たり前の人生を歩むことができていれば、こんな悲劇は起きなかったのですよ。それを見てみぬふりをした私どもも同罪です」
「今更……もう遅いんだよ」遠い目をした幸人が、譫言のようにぼそりと呟く。
「ああ。君の言うとおり、私は村の秘密を握りながら黙殺してきた悪人です。お詫びにひとつ、その悪人が抱えていた秘密を教えましょう」その言葉にはなんの興味も示さない幸人だったが、龍川医師は構わずその草臥れた横顔に語りかけた。「あなたは源一郎さんとかすみさんの子供ではない。かすみさんと水谷さんの間にできた子供なんですよ」
「……は?」幸人の顔が、一瞬で驚愕に歪んだ。
「真に愛し合っていたのは、水谷さんとかすみさんだったのです」
その場の誰しもが、あまりの衝撃にしばらく呼吸を忘れた。
それらを、居心地が悪そうに上目遣いで窺い見て、龍川医師は再び視線を落とした。
「お見合いの席で、あろうことか、水谷さんはかすみさんに一目ぼれをしてしまったのです。しかし、そこは大人の男として自身の気持ちに蓋をしていた。けれども、源一郎さんはああいう人でしょう。松右衛門さんとお姑さんも、とても厳しい方々だった。実家の援助と引き換えに嫁に出された身として、どれだけ辛かろうと朱野家に骨をうずめる覚悟だったかすみさんもね、耐えてこそいたものの流石に心が折れかけていたのですよ。そんなときに、やさしく扱ってくれる若い執事がいたら……どうなるかは想像に難くないでしょう。そう、一度の過ちをおかしてしまったのですよ。そして、その一度によって、子供が宿ってしまったのです」
一同は言葉を忘れ、透は、は、はははと乾いた笑いを零して天を仰いだ。
「つくづく隠蔽だらけの腐った村だな。よくも次から次に、ぽろぽろ出てきやがる。まぁなに、調べればわかることだ。じゃあなんだ? 俺と透は不倫の末の子で、水谷は実の息子が理不尽な仕打ちを受けているのを間近で見ていたくせに救い出そうともしなかったのかよ。屑だな」
幸人は掌をゆっくりと開き、寂しそうな目で見つめた。鮮血に光っていたその手指も、今では仄暗く変色していた。
「まあでも、水谷も糞野郎は糞野郎だが、狸ジジィよりはまだましだ。あの狸の血が入っていないなんて願ったりだ……」
そう言って、幸人はふらふらとその場にへたり込んだ。大理石の床に赤い手形が拡がる。
この三日間碌に寝ていないのだろう、滑らかな黒髪の隙間から覗く横顔は酷くやつれた色をしていた。蒼白な顔も、色濃い目の下の隈も、時折平衡感覚を失うその身体も、決して演技だけではなかったはずだ。
痛々しさが溢れる哀れな男の背中を、誰もが音もなく見つめていた。
時折響く風の声と雷鳴だけが、確かに時が進み続けているということを報せてくれる。
やがてその音も遠ざかり、柱時計が五時を告げる。東の空から朝日が差し込んでいた。
磨かれた床に映った自らの虚像に語り掛けるように、幸人が何かを呟く声がした。
十七
太陽が夏の終わりを名残惜しんで、燦燦と余力を振り絞りはじめる正午前。四方八方からの蝉しぐれに包まれたこの村に、ようやく悪夢の終わりが訪れた。予定通り出張から帰った白峰秀一が、トンネルの崩落に気づいて警察に通報したのだ。
離合がやっとという細いトンネルとあって、方向転換も後進で戻ることもできず、秀一は暗いトンネルをペンライトに身体一つで五藤村側の入口まで駆け戻ったらしい。救助のヘリコプターで村に到着した頃には、青いポロシャツの大部分を汗で染めて、安堵の表情の奥に隠すことのできない疲労を滲ませていた。
崩落したトンネルの復旧には少なくとも三週間はかかるとみえた。ヘリポートもない村の上から一人また一人と警察関係者が降ってくる。その様子を、一同はどこか非現実的な心持でただぼんやりと眺めていた。
朱野幸人もまた同じように、大理石の床にへたり込んだ体勢から首を持ち上げ、ぼんやりと空を仰ぎ見ていた。
「冷泉くん」
舌足らずな声にその名を呼ばれ、冷泉は振り返る。視線の先では、朱野幸人が脱力したように床の虚像を眺めていた。
「白日の下に晒してくれて感謝してる。透以外の誰かから、初めて名前で呼ばれたんだ」
部屋の空気が粟立つ。冷泉は何かを返すこともなく、その俯いた影をただぼんやりと眺めた。朱野幸人も気にすることなく、ただ独り語りのようにぽつりぽつりと力のない声を零した。
「忌み子だ、穢れだと呼ばれることはあっても、今日のこの日まで名前で呼んでくれる人なんて一人もいなかった」
ヘリコプターの轟音に呑まれながら、それでも彼は一文字一文字を愛でるように、ゆっくりとそう言った。そして、救助隊がロープを伝って降りてくるのを目に入れたところで、幸人はふらりと立ち上がる。その横顔を、龍川がしがみつくような声で呼び止めた。
「待ってください幸人さん。あなたの名前は、亡くなったかすみさんがつけた名前なのですよ」
幸人は歩みを止めて、朱に染まった自らの右手を気だるげにぼんやりと見つめた。その仕草から静聴の意思を読み取った龍川医師は、とにかく思いの丈を伝えようと腹に力を込める。
「双子の難産で危険な状態にあったかすみさんにショックを与えないようにと、源一郎さんと松右衛門さんは双子の片方を女児の死産だったことにしました。そのことはあなたもよく知っていることでしょう。それを伝えたとき、涙ながらにかすみさんは、あなたのお母さんはこう言ったのですよ。かわいそうなことをした、と。名前をつけて弔ってあげてくれ。せめてあの世では幸せになれるよう、名前だけでも幸せな名前をつけてあげてくれ、と。そう言い残して彼女は息を引き取ったのです」
朱野幸人は自らの掌を眺めたまま、不敵に唇を持ち上げた。
「ふうん。ならば、俺はこの世において死んだ母親の望み通りになったわけだ。俺は復讐を完遂させて、最上級の幸せを手に入れたんだからな」
そう吐き捨てて、居間を抜けて玄関ホールへと向かう。そうしたところで屋敷に踏み入れた救助隊とかち合い、自ら丸めた両手の甲を差し出した。
やがて、救助隊からの通報により乗り込んできた警官によって、即座に幸人の身柄が確保された。その際にも彼は特に抵抗する様子もなく、されるがまま別室へと連れていかれた。それから先の様子は、居間で待機となった一同の知るところでなかったが、身柄が移されるときになって、通りかかった幸人は足を止めて玄関ホールから居間を覗いた。
付き添いの警官が不可解そうに顔を歪める。狂人の奇行だと思ったらしく、脇腹を小突くも幸人は反応を示すことなく、その場に根が生えたように泰然と部屋の中を見つめていた。
やがて意味深な笑いだけを残してその背中が遠ざかるのに、堪らず龍川医師が居間を飛び出して声を掛けた。
「幸人さん」
朱野幸人はちょうど扉をくぐるところだった。両脇を固めた屈強な警官が驚いて振り返る。
龍川はそのわずかな時間に言葉をねじ込むように、すかさず声を投げた。
「私は自らの罪へのけじめをつけるつもりです。あなたも罪を償った先には人生が待っていますから。あなただけの人生が」
別の警官からの制止を受けて、龍川は居間へと送還される。幸人も何事もなかったかのように、眩い日差しの下へ一歩踏み出した。距離は時間と共に開いていく。
幸人は乾いた口調で何か一言を残し、やがて警官の渦の中に消えていった。
そのとき背中の向こう側で幸人がどんな表情をしていたかは、居間に残された面々には終ぞわからなかった。
事件現場となった館には規制線が張られ、六人の生存者は屋外のテントへと誘導された。そこで医師によるメディカルチェックを受け、ようやく自由時間が与えられる。結局一睡もせず朝を迎えた六人だったが、誰も不満を口にする者はいなかった。
しばらくすると、疲れと安堵からか小夜と琴乃の二人はすやすや寝息を立て始めた。武藤霧子と龍川医師はそれぞれ、ぼんやりと物思いにふけっているようだった。
冷泉はというと、どうも寝る気になれず、かといって狭いテントの下で過ごすのも気が滅入ると、立ち入りが許される村の外れの山道を散歩していた。後ろには、白峰瑞樹の姿もある。
格子状の木漏れ日が、木々のさざめきに従いくるくると移ろって、まるで万華鏡の中に迷い込んだようだった。晩夏の森林浴はマイナスイオンとつかの間の安息をもたらしてくれる。
解放感に全身を浸す。しかし全て終わったのだと言い聞かせたところで、喉に刺さったままの小骨は消えない。冷泉は、見てみぬふりをしていた小骨をようやく摘まんでみることにした。
「なあ、瑞樹。幸人さんは百合子さんを経皮毒で殺したと言ったが……一体どのようにして毒物を入手したというのだろう。百合子さんが亡くなったのは十年前、幸人さんが十四のときだ。彼が言ったように、長期間に渡って毒を投与し続けていたのだとしたら、彼が毒を手に入れたのは十三歳か、それよりも前になるだろう。透さんが協力するとは思えない。透さん経由じゃないとなると……彼は生まれてからずっとあの地下牢で軟禁されていたのだから、毒物の入手だって精製だってほぼ不可能だと思わないか」
苔むした大木の根元にしゃがみ込み、草花を指で弾いていた瑞樹が顔を上げる。その目がみるみる驚愕に見開かれた。
「……まさか」
「ああ。誰かが手引きしたんだ。毒物をこっそり牢の中の幸人さんに渡した」
エピローグ
事件から十日が経ったある午後のことである。ようやく取り調べから解放された冷泉誠人は、その足で四神村へと向かっていた。トンネルが崩落した村への唯一のルートとして、木々を切り開いただけの細い山道がその日の朝に開通したばかりだった。五藤村から歩くこと五時間。ようやく屋敷の一軒が見えてきた。
館の扉を開けると、薄暗い室内で黒い影がゆっくりと振り向いた。
「あら……」
「ずいぶんと不用心ですね――武藤霧子さん」
その声でようやく合点がいったようで、霧子は小さく微笑んだ。
「でも……犯人は捕まったでしょう? もう怯えることはないわ」
「お引っ越しされるのですか?」
室内にはきれいに梱包された段ボールがいくつか積まれていた。
それらにぐるりと順に視線を送って霧子は「ええ」と肯いた。「でも荷物といってもね、独り身となれば少ないものよ。ずっと住んでいた村だから寂しくないと言ったら嘘になるけれど、あんなことがあった村でしょう。早く離れたいなと思って」
「一日でも早く離れて、忘れたいのでしょうね」
冷泉の含んだ物言いに、霧子の目が一瞬鋭く光ったが、すぐに柔和な表情を取り戻した。
「そうね。冷泉君、貴方にとっても、いつまでも覚えていたくはない事件でしょう。ご自宅へ帰って早く忘れて、ゆっくりと疲れた身体と心を養生して頂戴ね」
そう言って霧子は踵を返し、手荷物を探るふりをする。会話の拒絶だ。それで冷泉の推察が確信に変わった。早く帰れと言わんばかりの霧子の背中に冷泉は静かに声を刺した。
「いえ、僕はね、武藤さん。まだもう少し忘れるわけにはいかないんですよ。やり残したことを思い出して戻って来たのですから」
「あら、何かしらね」
「朱野幸人少年に毒を与えたのは武藤霧子さん、あなたですよね」
その言葉に霧子は一瞬動きを止めると、やがてゆらりと振り返った。
「……なんのことかしら」
「朱野幸人少年は、生まれてすぐに地下牢へと監禁されて、十五の三月に脱走するまで一度もあの牢を出てはいません。これは朱野家の住人及び執事の水谷氏も証言していたので間違いはないでしょう。そんな少年が、いったいどのようにして毒物を手に入れたというのでしょうか」
「……透さんじゃないのかしら?」武藤霧子は艶やかな唇を持ち上げ笑みを作った。
冷泉は表情一つ変えることなく事務的に言葉を続けた。
「あくまでしらを通すつもりなのですね。……いいでしょう。答えは龍川医師が握っていました。今から十二年前の五月、幸人さんが十二歳の頃ですね。龍川医院の薬棚が割られており、中の薬瓶が一つなくなるという盗難事件が、六山市の派出所の記録に残されていました。人的被害や、それ以外の金品が盗まれた形跡もなかったため、犯人不明のまま捜査打ち切りになっています。事件当日の診療記録は一件。その唯一の診療相手として武藤霧子さん、あなたも警察の取り調べを受けていますね」
霧子は白い指を顎に当てて、天を仰ぎ見た。「そういえば……ええ……そのようなこともあったかしら」
「記録に残っていましたから、間違いなく行われています」冷泉は鋭く釘を刺した。「それから幸人さんの監禁されていた牢から薬瓶が見つかりました。中身はとある経皮毒でした。瓶は龍川医院で使われていたものと同じ種類の小瓶です。そして、幸人さんは百合子さん殺害の際にその毒物を使用したことを証言しています。つまり、幸人さんの証言を正とした場合、百合子さん殺害に使われた薬物の入っていた容器は、龍川医院から盗まれたものだったことになりますね。あの日龍川医院の薬棚に近づくことができ、なおかつ朱野家の奥深く、地下牢に出入りできた人物――該当するのは誰でしょうね」
「龍川先生の狂言かもしれないし、小夜ちゃんの仕業かもしれないわ」
「では、幸人さんに聞いてみましょうか。この瓶は、誰に貰ったものなのか」
「たとえ彼が証言したとしても、証拠がない限り立証はできないわね。龍川先生と幸人さんが共犯関係にあって、私に罪をなすりつけようとしているのかもしれないわ。それに、私は残念ながら目が見えないの。目が見えない人間がどのようにして薬瓶を見分けるというのかしら。毒ならば、まさか舐めてみるわけにもいかないでしょう」
「あなたの目が見えるようになっているということは、龍川医師が話してくれましたよ。問い詰めたところ、観念して話してくれました。あなたの視力は戻っていたが、他の人には黙っていてくれとあなたから頼まれてずっと従っていたそうですね。あなたから子供を取り上げた罪悪感からずっと頑なに守り続けていたそうです」
彼女はかわいそうな人なのだ。両親とは早くに死に別れ、兄弟も親戚もおらず天涯孤独の身なのだ。二十五年ほどまえにはその腹に命を宿した。日に日に大きくなる腹を抱えた彼女の笑顔は、どこか寂しそうな陰も感じたが、至極嬉しそうでほほえましかった。しかしその父親は妻子持ちの源一郎さんであった。それどころかその赤ん坊はあろうことか、ほかならぬ源一郎さんの指示により、死産だとして遠い福祉施設に預けられたのだ。……そう、老医師は疲れの滲む皺だらけの顔をしきりに擦りながら、涙まじりに警官に話した。
「理由はわからないが、武藤さんにも何か事情があるのだろうと黙っていたそうですよ。後ほど警察からの呼び出しやら、視力検査やらがあるかと思いますが、どうか龍川医師を恨まないでやってくださいね。僕が彼を『いずれわかることです』と、無理やり問いただしただけなので」
しばらく氷のような無表情で黙っていた武藤霧子だったが、やがて唇の両端を微かに持ち上げた。
「見上げた坊やね。わたくしの視力が戻っていることにはいつ気づいたのかしら?」
「すぐには気づきませんでしたが、初日の夜の会話を思い返していてふと違和感を覚えました。小夜さんの衣服の袖が壺に引っかかって倒れそうになったとき、あなたは咄嗟に腰を浮かしてこう言いました。『たいそうなお宝ですものね、それ』と」
「……なるほどね」
「ええ。咄嗟に腰を浮かすことにも違和感はありますが、何にぶつかったのか、それはその場の景色の見えている人間にしかわからないことでしょう。それを正確に言い当てたのを見て、あなたの視力の件に疑問を抱きました」
「認めましょう」
そう言って、霧子は薄く茶色の入った眼鏡をゆっくりと外した。眩しそうに少し眉間に皺が寄る。そこではじめて露わになったその瞳は、薄茶のガラス玉のような澄んだ色をしていた。
「あなたが一連の全てを視認できていたのだという前提で事件を振り返れば、また新しいものが見えてきますね」
「そうかしら。たいして変わらない気がするのだけれど」
と、悪びれもせずに小首を傾げる武藤霧子を、冷泉はにこりともせずに見つめた。
「ああ、そうね。そういえば……透さん……いえ、幸人さんだわね。彼と絹代さんもうすうす勘づいていたようだったわ」
「へえ?」冷泉は目で先を促した。
「そして、絹代さんが私の目が見えることに気づいている、ということにも幸人さんは気づいていたようだったわ」
なぜそう思ったのですか? と、冷泉は目顔で尋ねた。霧子はどこか恍惚と目を細めた。
「木工室で源一郎さんの遺体が発見された後、絹代さんに彼は確かこう言ったのよ。『霧子さんはアリバイこそ不完全ですが、視力に不安がある以上犯人足り得ません。彼女のことだけでも信用して一緒にいてください』ってね」
「ああ、それは巧い。巧い誘導ですね」冷泉は素直に舌を巻いた。「霧子さんの視力が戻っていることを知る絹代さんには、すべてが逆の意味に聞こえたでしょうね。『霧子さんの目が見えるのならば犯人足り得ますよ。離れた方がいい』と」
「ええ、ええ、まさにそう」霧子は可笑しそうに肩を揺らした。「あの女、すぐに私を突き飛ばして化け物でも見るような目を向けてきたわよ。それから私を置き去りにして一人で逃げ帰ったきり閉じこもってしまった。それが幸人さんの誘導だなんて知らずに、最後まで馬鹿な人だったわね」
「絹代さんの警戒心の強さを利用したのでしょうね」冷泉は嘲笑する霧子を一瞥して苦々しく呟いた。「あとは例えば、水谷さんの事件において、扉を開けた瞬間に飛んでいくゴム紐もあなたには見えていたはずですよね」
「見えていたら何だというのかしら」霧子は間髪入れずに強い口調で言った。「視界の端を一瞬何かが通ったからといって、それが何であるかわからなくてもおかしくはないでしょう」小ばかにするように喉の奥でくすくすと笑いを零す。「部屋に人がいると勘違いして、目を瞑ってしまったのよ、私は。残念ながら、今回の事件の犯人隠避罪にも、十年前に毒を用意した証拠にもならないわ」
冷泉はさして気を悪くしたふうでもなく、ただ淡々と言葉を返した。「あなたが間違いなく龍川医院から薬瓶を盗み出し、中を経皮毒に変えて幸人さんに渡したことを、僕は確信しています。今回小瓶から検出された経皮毒の成分は、医薬品や香料、界面活性剤、農薬等の原料として使われているものなので、入手もそう難しくはなかったはずです。必ず、何かしらの痕跡はあるはず。証拠を突きつけられて逮捕される前に、自首した方が賢明です」
「ご忠告どうもありがとう。けれど、やっていない罪を認めることはできないわ。たとえその経皮毒に使われた洗剤を過去に偶然私が購入していたとしても、洗剤くらい誰でも買うでしょう?」
肩を竦めてわざとらしく笑う武藤霧子にも、冷泉は特段何の感情も表にあらわすことなくさっぱりと続けた。
「龍川医院の盗難事件の犯人があなたであると言う証拠が出てきたらどうします?」
「そんなものあるはずがないわ。小瓶に指紋でもついていたならば話は別だけれど」
「小瓶には幸人さんの指紋しかついていませんでした」
その返答は予想済みだったようで、武藤霧子は満足そうに頷いた。「当然ね」
手が届きそうで届かない上空から勝ち誇った笑みを浮かべる武藤霧子に、冷泉は涼しい顔のまま鼻っ柱をへし折る一撃を加えた。
「但し、かわりと言ってはなんですが、龍川医院の薬棚の硝子戸の修繕に使われていたセロハンテープの粘着面から、繊維片に混じって体液と毛髪の一部が検出されたそうですよ。年数が経っているため劣化しているかもしれませんが、鑑定できない程ではないようです」
自身が乗っていた飛行船の安全神話が幻だったことに気づかされた武藤霧子の顔が、一転冷水を浴びせたように瞬時に凍り付く。真っ逆さまに地面へと叩きつけられた哀れな罪人に構うことなく、冷泉は無味乾燥な声で続けた。
「十年も経てば科学捜査も進歩するものですね。盗難事件と殺人事件では、捜査の内容も変わるのかもしれませんが。棚の中を覗き込んでついた指紋を手持ちのハンカチなどで拭ったりはしませんでしたか? 十年前にあなたが経皮毒を含んだ商品を購入したという証拠が見つかり、その商品の成分と、小瓶に残った毒物が一致するかを調べれば、あなたの殺人教唆が白日の下に晒されるのも時間の問題です」
武藤霧子は全ての色を失った顔で、呆然と宙を見つめていた。
「そして、透さん殺害未遂に使われたと思われる黒色の小瓶ですがね。ああ……これは、藤川絹代の私室の箪笥の奥から出てきたものです。これも調べてみたところ、全く同じ洗剤から精製された経皮毒が入っていたとの鑑定結果が出たそうです。きっとあなたは、それを以て藤川絹代を、龍川医院における盗難事件の犯人、および朱野幸人に殺人教唆を行った犯人に仕立て上げるつもりだったのでしょう。武藤さん自身が龍川医院における盗難事件の犯人であるという証拠さえ見つからなければ、たとえどれだけ怪しまれようとご自身に警察の手が届くことはないと高を括っていたのでしょうが、詰めを誤りましたね」
武藤霧子はどこか遠く、壁を抜け、森を抜け、空を抜けたもっと向こう側へと思いを馳せているようだった。ともすれば非現実へと逃避していそうな彼女の意識を現実に連れ戻すがごとく、冷泉は機械的な声を、蒸した室内に淡々と滑らせた。
「また、これは僕個人の見解になりますが、幸人さんがあれだけ強く恨んでいた村そのものを殲滅しなかったのは、あなたを殺したくなかったからだと思っています。壊滅した村に一人、あなただけが生き残っていれば、自ずとあなたに疑いがかかると読んでいたのでしょう。朱野幸人さんが、復讐こそが生きる希望だったと言っていたのは、あなたも覚えているでしょう。透さんと村からの脱出を目指すようになるまでの幸人さんにとっては、そうだったんじゃないかと僕は思うのですよ。つまり、生きる希望をくれた武藤さんは、彼にとって恩人のようなものだったのかもしれないなと」
「恩人……か」武藤霧子は、形の良い唇を歪めて小さく笑った。
「ええ。しかしその恩人が、実は絹代さんを唆して自らを葬ろうとしていた黒幕だったわけですから。これからそのことを知る幸人さんは、一体どのような反応をするでしょうね」
「まさか幸人と透が入れ替わっているとは知らなかったけどね。とにかく私は、源一郎が憎かったのよ」霧子は遠い目を窓の外に向けた。「だから幸人と絹代の黒い心を利用して、源一郎から全てを奪おうとしたの……」
冷泉も窓の外に身体を向けた。二人は肩を並べて晩夏の深緑をぼんやり見つめた。
「……あなたは自身の子供が生きていることに、うすうす勘づいていたのですよね。知っていて、合法的に我が子を取り戻すことでなく、法を侵して我が子を奪った元凶を抹殺する方向に走った。皮肉にも、自身の子供が幸人さんの殺害対象に含まれていたことは当然ながら誤算だったことでしょうが。この事件の引き金を裏で引いた報いと言っては深見さんに悪いのでそうは言いませんが……実に皮肉なものですね」
遠くで男たちが扉を叩く音がする。
続いて押し寄せる靴音の波を耳に、深い紅が小さく弧を描いた。
遠く、無数のひぐらしの声がする。
短い命の全てを僅か二週間に懸ける、儚い線香花火のような彼の声が。
了
「この一連の殺人事件を起こした犯人は、朱野透さん、あなたですね」
その摘発に、各人が思い思いに最大級の驚愕を載せた表情で朱野透を見つめた。
「嘘」場が衝撃に支配されている中、誰よりも早く声をあげたのは、龍川小夜だった。「透さんが……? 嘘よ、まさかそんなわけ」
「突然何を言いだすんだい、冷泉くん」
不安定に揺れるか細い声が遮られる。蒼い顔を持ち上げた透は、愕然と唇を震わせた。
「釘の燃え残りを見つけた瞬間、僕は思い出しました。まず一つ『玄武の館』の窓枠を改修したのが、源一郎さんであるということ。そして、もう一つが朱野邸の三階を改修したのが透さんであるということです。聞けば建築学科卒というじゃないですか。それだけの専門知識に、住まいの改修ができるほどの腕があれば、踏み台くらいお手の物でしょう。また、普段からそういうことをしていたのであれば、木工室に籠って大工作業をしていても怪しまれることはありません。以上、技術面、環境面の両面から考えて、この踏み台のトリックを使った犯人に相応しいのはあなたしかいません」
「ちょっと待ってください」おかっぱ頭を揺らして横から反駁を示したのは、驚くことにこれも龍川小夜だった。「そんなの他の人にだってできるでしょう。あなたの言っていることは暴論でしかないわ」
龍川小夜の豹変にも臆することなく、冷泉は淀みなく弁を返す。
「この狭い村です。自室で金槌を打ち鳴らしたならば、音を誰かが聞いているでしょう」
「そんな強引な理由で人を犯人扱いするだなんて……。一人になる時間だって皆さんあります。それに冷泉くんの言うように、村では無理だとしても、場所さえ選ばなければ他の人にだってできます。村の外で木箱を作って、村の中へ運ぶことだってできるじゃないですか」
人が変わったような龍川小夜の流暢な熱弁を、その場の誰しもが目を丸くして見つめていた。冷泉もまた意表を突かれたうちの一人であったが、そんなことは面に出さず横目で朱野透を窺い見ていた。
そんな冷泉の目の前に、自身の論を差し挟むように、龍川小夜がその横顔に念を押した。
「透さんが犯人なわけありません」
「どうなんですか? 透さん」
臆面もなく問いかける冷泉を、透は正面から穏やかに睨み返した。
「君の話は、仮説の域を出ていないよ」
空中で視線と視線がぶつかり合う。
薄氷のごとく張り詰めた空気が、しばらく真夜中の居間を支配した。
やがて、「わかりました」冷泉はふっと諦めたように力を抜いた。「認めてくれないようですので、話を進めましょう」
朱野透は眉一つ動かさずにただ一つ、ゆっくりと瞬きを落とした。
冷泉は人形のような涼しい顔で、ただじっとその一連を見つめ、そしてふいっと視線を全体に移した。
「次に五番目の深見さんの事件です。ここまでお話ししたトリックが凝っていたので、つい難しく考え過ぎていましたが、犯人がわかってしまえばこちらは至ってシンプルな心理トリックでした。まず深見陽介さんを殺害する際、犯人である透さんは離れの呼び鈴を鳴らして堂々と玄関から入りました。例えば……そうですね、少し相談があるだとか、誰かがまた襲われただとか、あるいは犯人がわかったかもしれないだとか、それらしい口実を使ったのではないでしょうか。そして部屋に招き入れてくれた深見さんを殺害。その後、玄関の鍵を閉めて出ました」
「へ? 普通に出たのですか」
両眉を持ち上げる龍川に、冷泉は肯き返して言った。
「ええ。普通に。彼が仕掛けたのはここからです。それから、琴乃さんや僕たちを巻き込んで、遺体を発見させ、密室状況を確認させます。その混乱に乗じ、深見さんの亡骸に縋りつくふりをして胸ポケットへ鍵を滑らせ、あたかもずっとそこにあったかのように見せかけたのです」
「まさか、そんな単純な」
「そう、龍川先生の仰るとおり、ごく単純なことだったのですよ。静さんの事件では、透さん――まぁ犯人だったのですが――、彼と水谷さんが納屋の中まで確認しなかったことが仇となったと僕は言いましたが、この事件では防犯のために僕たちが母屋の雨戸を閉めていたことが、かえって仇となってしまいました。雨戸は外敵だけでなく、光や音も遮断します。これに深見さん発の夜間出歩き禁止令も加わりましたね。これらによって透さんは母屋から気づかれる心配もなく、犯行を完遂できたのです」
今度は琴乃が嘆く番だった。ぎゅっと目を瞑り、そんなまさかと震える母親を、瑞樹が固く抱いて励ました。
「あの時、僕らは互いの行動を見ていたはずです。鍵を深見さんの胸ポケットに入れることができたのも透さん、あなたしかいませんね」
目の奥までを射抜くような冷泉の視線の先で、顔色一つ変えることなく黙って話を聞いていた透だったが、念を押されると間髪入れずにラリーを返した。
「冷泉くん、それもただの仮説だよ」
「そうでしょうか」
「ああ。それだと前件を固定して後件を導いているだけじゃないか。命題『AならばB』は成り立つ。つまり、僕を犯人だと仮定すればそのトリックが使われたというのは君の言うとおり正しいだろうね。けれど、対偶は? 『BでないならばAでない』つまり、そのトリックが使われていないならば、僕は犯人ではない。こっちは無視するつもりかい」先程までの動揺から一転、透はあたかも論理ゲームを楽しむかのごとく、流暢な反駁を講じてみせた。「間違いなくそのトリックが使われたという証拠はあるの?」
「それ以外に考えられません。現段階で伝えられることはそれだけです」
冷泉が淡々と断じるのに、透もごく穏やかな口調で返した。
「君が解けていないだけで、別の方法があるんだよ。そうじゃなきゃおかしいからね」
「いいでしょう。まだあなたが認めないというのなら、それでもかまいません」
「わかった、いいよ。僕も黙って君の話を聞いてみようか」
透はゆったりと椅子に座りなおすと、食卓の上で指を組んでみせた。
挑発めいたその態度に一瞥を加えると、冷泉は短く息を吸いこんだ。「余裕でいられるのも今のうちですよ」言って視線を全体に戻す。「透さんが犯人だとわかってしまえば、あとは水谷さん殺しのアリバイ崩しだけでした。龍川先生、先生は腕時計をしていませんね?」
「あ、ああ、していませんな」
またも突然水を向けられた龍川が、居眠りをしていた学生のように身体をびくりと固くした。
「ありがとうございます。以前、ほかならぬ透さんが仰っていましたね。この村は防犯意識や時間におおらかであり、腕時計をしているのも透さん自身と父の源一郎さんくらいのものだと」
「ああ、言った」透は悠々と顎を引く。
冷泉は鋭い一瞥を加えて視線を場に戻した。「その、この村特有のおおらかさを、透さんは利用したのです。透さんは夕食会の最中、弟さんに食事を持って行くふりをして龍川先生の家に忍び込み、居間の時計を十五分ほど進めておいた」
「ええ?」全く気付かなかったふうな龍川が動揺を示し、隣の小夜を見遣る。
視線を受けた小夜も、ふるふると首を横に振って驚愕を滲ませていた。「そんなはずないわ。私もお父さんだって、そんなこと思わなかったもの」
「ええ、気が付かないのも無理はありません。この村でテレビがあるのは朱野家と白峰家だという話でしたね。テレビの時刻表示でもあれば別でしょうが、十五分程度の誤差ならば気づかないのも無理はありませんから」
小夜はそれでもまだ信じられないように、目を丸くしたまま宙を見つめている。犯人摘発からこちら、龍川小夜はまるで感情を覆いつくしていた透明な膜を取り払いでもしたように、情動に溢れた表情をするようになっていた。
そんな小夜に向けて、瑞樹は時折痛みを堪えるように唇を噛みしめながら、何度も視線を送っていた。
そんな住民たちの様子を順に目で追った後、冷泉は透に向き直った。
「あのとき透さんはこう言いました。九時四十五分に武藤邸に着き、九時五十五分に龍川邸に到着した。それから、十時二十分に自宅に着き、しばらくして雨が降り始めたことに気づき、窓を閉めていたところで源一郎さんと絹代さんに会ったと。間違いありませんね?」
「そうだね」
薄らと笑みを浮かべて肯定する透に続いて、龍川医師と武藤霧子も思い思いに首を縦に揺らした。それらを丁寧に確認して、冷泉は唇を開いた。
「正しくは、それぞれ十五分ずつ早かったのですよ。つまり、透さんは九時三十分に武藤邸に着き、九時四十分に龍川邸に到着した。龍川邸を出てから、透さんには十時三十分頃源一郎さんと絹代さんに会うまでの間のアリバイがありません」
「それじゃあ、その間に」
愕然と呟く龍川に、冷泉は一つ肯き返した。
「ええ、その空白の五十分間に透さんは水谷さんを殺害し、密室を作り上げたのです」
「では、わたくしと龍川先生は、アリバイ作りの片棒を担がされたのですね」
ショックを受けた様子の龍川医師とは対照的に、武藤霧子はあくまで淡々と事態を要約した。
冷泉は前髪を小指で梳いて肯いた。「そうなりますね。もしかしたら、透さんが源一郎さんから武藤さんの手助け役を引き継いだのも、このトリックのためだったのではないでしょうか。深見さんの遺したメモに書かれていましたが、源一郎さんは武藤さんの身の回りの手助けはしていたものの、通院の送迎まではしていなかったようですね。ですから、この送迎の習慣自体、水谷さん殺しのアリバイトリックのために透さんが時間をかけて築き上げたものだったのではないかと思っています」
「まあ」
武藤霧子がほとんど驚いていないような表情で、形だけの感嘆の声をあげた。
「それから、遺体が発見された後、龍川先生のところへ検視を頼みにきたのも透さんでしたね」
「そうでしたな」龍川医師が難しい顔で唸った。
「そのとき、先生に透さんはなんと言いましたか?」
「『僕は小夜ちゃんを連れて白峰邸まで送り届けるから、先生は先に行ってくれ』と。……ああ、なんてことだ!」
額を拳で抑えた龍川医師に、冷泉は肯いた。
「そうです。先生がお気づきの通り、そのときに小夜さんを居間で待つ時間を使って、透さんは龍川家の居間と、診療室の時計の針を元に戻したのですよ。小夜さんは私室に時計を置いていないそうなので、気づくこともありませんね」
「そんなの――」
小夜は勢いよく頭を上げたものの、言葉が続かず呑み込んだ。
同時に、「ああ……なんということだ……」龍川医師は喉を絞って深い呻き声を漏らした。
冷泉はそれら父子其々の反応にも動じることなく、無機質に続ける。
「それから、武藤さんが三階の私室の扉を開けた瞬間、地面で植木鉢が割れる音がしたということでしたね。この仕掛けについてですが、こちらも簡単なものです。まず、丸い植木鉢を窓の縁に置きますね。そして書道用の文鎮の中央に長いゴムを巻き、文鎮を窓の外に出したまま、窓を五センチほどのところまで閉めます。ゴムのもう片端には結び目を作り、思い切り伸ばして部屋の扉に挟んで閉めます。これで仕掛けの完成です。あとは武藤さんが帰宅して私室の扉を開けるだけで、ゴムは飛んでいき、植木鉢はゴムに叩かれて落ちます。文鎮も重いので、ゴムごとそのまま落下しますね。後には何も残りません。犯人が死体発見後に文鎮とゴムを回収すれば、トリックの完成です」
「まあ」武藤霧子が感心したように、口に片手をあてて何度か頷いた。
「武藤さんが、帰宅した際に部屋で誰かの気配を感じたのは、このゴムが飛んでいくときの空気の揺れや音だったのでしょうね」
「わたくし、誰かがいるとびっくりして思わず廊下に逃げてしまったけれど、実は誰もいなかったのね」
あくまで慎みを崩さずに事態をかみ砕く武藤霧子に、冷泉はひとつ肯きを示して、透へと向き直った。
「深見さん犯人説が潰えた以上、この仕掛けで発生したゴムと文鎮を回収できるのも透さんしかいません。このことについて何かありますか?」
透はなおも熱弁を振るう冷泉をまっすぐ正面から見据え、泰然と振舞った。
「それも僕を犯人だと仮定した場合に限って成り立つというだけの話だよね。仮説の一つとしては、とても良くできた話だと思うよ」
相好を崩さない透の微笑みを浴びて、何かが刺激されたらしい。らしくなく感情的になった冷泉は、好戦的に口端を持ち上げて対峙した。
「あなた、僕が確固たる証拠を握っていることに気づいていますよね」
透はただじっと冷泉を見据えたま、あたかも何も聞こえていないかのような無反応を決め込んだ。
「なぜです? 逃げられないのはわかっているでしょうに」
状況から相手を追いつめているのは確実に冷泉の方であるはずなのに、心理的にはまるで逆だった。妙に心拍が高鳴り、無性に身体が熱い。
透はなおも飄々と、肘を立てて組んだ手の甲の上に顎を載せたまま答えない。
真夏だというのに、部屋は毛穴中が刺されるようなゾクゾクした緊張感で包まれていた。
「いいでしょう。まだ続けるというのですね」
そう言って、冷泉は何かを振り払うように一つ咳をした。
「六番目の絹代さんの事件に関しては、こうですね。僕と別れて『朱雀の館』に戻った透さんは、その足で絹代さんが立てこもっている寝室へと向かった。そして絹代さんを、量を調整した薬を嗅がせて静かにさせ、静さんにしたのと同じように喉を潰して、土蔵に運び出した。それから、両手両足を縛りつけて蔵に転がし一旦冷凍庫へ戻ると、作っておいた氷の柱を運び出したのです。そしてマスターキーを着物の袖に放り込み、首を括って天井の梁から吊り下げ、彼女の身体を氷の柱の上に立たせた。このとき、既に絹代さんは体の感覚を取り戻していたことでしょう。意識や感覚がないままでは氷の柱に立つことができず、即座に首が絞まってしまいますからね。そうなれば、せっかくのアリバイトリックが成立しなくなります。薬が切れた絹代さんはさぞかし慌てたことでしょうね。朝の涼しい時間帯とはいえ、八月です。氷はみるみる解けて足場がなくなっていく。やがて、踏み台は溶けてなくなり、身体を支える足場を失った絹代さんは宙づりになり、首が絞まって亡くなった。透さんが蔵の入口を開けっ放しにしていた理由のひとつに、死体の発見を早めるためだということがあるのは間違いないでしょう。けれど、もう一つあったのですね」
「氷の解けた痕跡を隠すため、だわね」
武藤霧子が艶やかに唇を動かした。
「ええ、おっしゃる通りです」冷泉は肯き返した。「このとき、ちょうど風が出てきて雨が降り始めました。蔵の扉が開いていれば、蔵の中が濡れていても、雨が降り込んだものと誤魔化すことができます。一つ、死体の発見を早めるため。二つ、蔵の地面が濡れていることをカムフラージュするため。その二つの目的のために、蔵の入口は大きく開け放たれていたのです。――ここまでで透さん、何かありますか?」
小夜が心配そうに透に視線を送った。そのことには、透も気づいていることだろう。しかし、透は寧ろ視線を一身に受けている現状を楽しんですらいるように、悠然と佇んでいた。
「犯人である僕は、冷凍庫の氷の柱とやらが、他の人間に見つかったらどうするつもりだったのだろうね」
「即席霊安室の管理を、源一郎さんや絹代さんがするようには思えません。よって水谷さんが亡くなってからは朱野家の冷凍庫を開閉する人間があなた以外にいたとは考えにくいです」
「氷を使うのは、何も遺体の管理だけじゃないよね。食事の際に冷凍庫に用があったかもしれないだろう」
「ええ、それでも無問題です。あなたはアイスボールを作る趣味があるのでしょう。あれは氷の塊から作るものだと聞きました。ならばことを起こす前に柱を見られたとしても、なんとでも誤魔化すことはできたはず。というより……これは憶測でしかありませんが、このトリックのカムフラージュのために、あなたはアイスボール作りという趣味を始めたのではないかと僕は思っています。まあ、そうでなかったとしても、あなたはこの日のために、普段から様々な形の氷の塊を入れるようにしていたのではないですか?」
淀みない冷泉の言を受け、透はごく機嫌よさそうに目を細めて微かに首を傾けた。
「僕がボウガンで襲われた話はどう説明するんだい? 深見犯人説で君が話した、糸をひっかけて発射するとかいうせこい装置を使ったとでもいうのかな。でもさ、冷泉くん。その場合、深見が追いかけた犯人っていうのは何だったんだろうね」
悠揚迫らぬ透の様相に、冷泉の毅然とした態度での応戦が続く。
「いえ、深見さんが犯人であればそれしかないと考えましたが、今は違います。あれは、絹代さんの仕業だったのです」
「絹代さんの?」小夜が鸚鵡返しに言った。
「ええ。ですから、透さんが起こした一連の連続殺人と、透さん襲撃は全くの別個のものだったわけです。実際に深見さんが犯人を追いかけ、帰り際にボウガンと矢を発見していること、絹代さんの簪が落ちていたことからも、そうと考えるのが妥当でしょう。絹代さんが凶行に及んだ動機についても、あくまで推測に過ぎませんが、ヒントは得ています。――絹代さんの私物からこういうものが見つかりました」と言って冷泉は、箪笥の底から見つけた三冊の書籍を、応接机の上に並べて見せた。「ご覧の通り、相続や生前贈与、遺言について書かれた本です。この幾つかの頁に、源一郎さんからいかに財産を奪い取るかを画策したメモが挟まっていました」
今度は、万年筆で殴り書きされた紙片を何枚か、書籍の隣に並べる。
ソファに座っていた面々が一斉に、首を伸ばした。
「このメモからも絹代さんが源一郎さんの財産を狙っていたことが窺えます。このことから推察するに、絹代さんは静さんが殺害されたのを受けて閃いた。このまま透さんも死亡すれば、もしかしたら源一郎さんの財産が自分のものになるのではないかと考えたのではないかと思われます。透さんと静さんが亡くなれば、おのずと源一郎さんの財産の相続権は、源一郎さんが誰よりも忌み嫌う朱野穢さん一人のものになります。そうなれば、穢さんに相続させるよりは絹代さんに相続させようと、その旨の遺言書を書いてくれるかもしれない。そう絹代さんは目論んだのです。そして静さんが変死した今ならば、静さん殺害の犯人に、透さん殺害の罪も被せることができる。その考えのもと、絹代さんは透さんを襲ったのです」
小夜は小さな両手で口元を覆ったまま、唖然と冷泉を凝望した。
その視線にも動じることなく、冷泉はこれまで通りただ滔々と言葉を続ける。
「その後外部への連絡が断たれたことと、静さん、水谷さんと立て続けに殺害され、穢さんも失踪したことを受けて、彼女は焦り出します。これはいよいよ急がないと透さんどころか源一郎さんも殺されてしまうかもしれない、と考えたわけですね。そうなると、源一郎さんの財産をもらう手立てがなくなってしまいますから。それで、透さん深見さん共犯説を頑なに主張し、源一郎さんと透さんを分断した上で、二人きりで部屋に立てこもり、遺言書を書かせようと試みていたと。こういうことだと思います」
「なるほど、絹代さんは絹代さんで、透さんを亡き者にして源一郎さんの財産を自分のものにしようと企んでいたのですな」龍川医師は、ふむふむと何度も首を縦に揺らした。
「そういうことです。そして、これは憶測にしかなりませんが、これまで揃った材料から考えるに、二年前に静さんを階段から突き落とした犯人というのも絹代さんだったのではないかと思っています」
「ああ……あれも……いやあ、おそろしい……」
龍川医師はなおも神妙な顔で頷いて、白い鼻髭の端を何度も指で引っ張った。
「ちなみに、透さんがトンネルに爆発物を仕掛けたタイミングは、深見さんを白峰邸に送り届けてから、深見さんが朱野邸を訪れるまでの一時間の間でしょうね。深見さんが朱野邸を訪れた時、透さんはお風呂上りだったと深見さんは手帳に遺しています。それから、各家の電話機に仕掛けた爆発物は、先ほども言った通りですね。それこそ施錠する習慣のないこの村においては、忍び込んで悪戯するなど造作もないことでしょう。以上が、朱野透さん犯人説ですが、何か指摘はありますか?」
誰も言葉を発するものはいなかった。
その場の興味が透の反応へと向いているのは歴然であるが、誰しもが自然と透を直視するのを避けているようだった。したがって、まるで盗み見でもするかのように一様に顔を伏せたまま、横目でちらちらと窺う気配で溢れかえる。
「朱野透犯人説に矛盾はないよ。仮説としては、本当に良くできた話だ」透はふっと力を抜くように能面のような笑みを浮かべた。「しかし、他の人を犯人だと仮定しても同じような作り話が出来上がりそうだ。それでもここまで僕が犯人だと言い切るということは、君はその証拠とやらにずいぶんと自信があるようだな」
透の口ぶりは、醜く言い逃れをする犯人というよりは、愛弟子の成長を喜ぶ師のような温かみをどこかに感じさせるものだった。そのせいで、冷泉は授業中に教師から質問されているかのような妙な錯覚を受ける。
けれども、彼はすぐさま我を取り戻して、静かに事を進めた。足元から紙袋を引き寄せる。一瞬、何かを考え込むようにその包みをじっと見つめたまま動きを止めたが、やがて、「これです」と、中から角ばったものを取り出した。「小夜さんの部屋にあった時計です」
その瞬間、小夜は「やめて」と小さく叫び、透は力を抜くようにふっと笑った。それは諦念とも、満足とも取れた。
それから彼の顔は表情を失い、視線はテーブルの天板で止まった。
辺りの空気が粟立つ。透、小夜、冷泉を除いた面々は、皆一様に合点がいかない表情を浮かべながらも、それぞれが何かの終焉を感じ取っているようだった。
殺人鬼の白旗を冷泉はしっかりと受け止めた。それは、熱い酸が心にじわじわとしみ込んでくるような不思議な感覚だった。これ以上の追及は不要どころか、ともすれば過剰攻撃かもしれない。しかし、一度包みを解いた以上は関係者にその中の全てを示すことが筋であると、ただ責務を全うすべく言葉を続けた。
「これは瑞樹が小夜さんに贈ったデジタル時計です。先ほど小夜さんの部屋で尋ねたことをもう一度問います。小夜さんはこの時計の時刻を、いつ、何を参考にして合わせましたか?」
小夜は、温度を失った透の横顔を縋るように見つめたあと、冷泉に視線を移して呟いた。
「昨日の朝、居間の時計を見ながら……」
その目にみるみる透明なものが溜まり、嗚咽と共に溢れ出した。
大時計が示す時刻は零時四十五分。冷泉の手の中の時計は零時半を指していた。……
部屋には小夜の押し殺した泣きじゃくる声だけが、小さく押し寄せては引いていく波のように響いた。
この瞬間だけは、誰もが言葉を完全に失っていた。
朱野透は、顔のすぐ先の天板を、どこか遠くを見つめるような目で眺めていた。
「警察が来て調べたら全て明らかになる話だというのは、あなたが一番よくわかっていることでしょう。朱野透さん――いや朱野幸人さん」
名前を呼ばれた瞬間、朱野透――否、朱野幸人は幽かに唇を持ち上げた。
それは、ゾッとするほど冷たく美しい笑みだった。
目に灯る感情はない。それはただの二粒の虚ろな球体にすぎなかった。
静寂から一転、えっ、と誰からともなく、驚愕に満ちた声があがる。
砂鉄に磁石を突っ込んだように、ゾワッと一気に空気が逆立った。
「幸人さん……? じゃあ、本物の透さんは……」龍川小夜が慟哭を忘れて息を呑む。
「この人は朱野透さんではない。弟の朱野幸人さんです」冷泉の視線は、寂しそうで、それでいて静かに相手を突き刺すような色をしていた。
その先の朱野幸人は、ただ斜め下の何もない空間を、感情の灯らない瞳で眺めていた。
「一卵性双生児のDNA型が同じであるといっても、歯型や指紋は異なります。歯医者の治療記録や、透さんの通っていた小学校や中学校で彼の指紋を採取すれば、今の朱野透と別人であることはわかる話ですよ」冷泉は目の前の殺人鬼を正面から見た。
朱野幸人は、退屈な授業をやり過ごす学生のように気だるげな仕草で、空のグラスに手を伸ばす。そして、そのまま一気に握りつぶした。薄く繊細な透明色の破片が、昏い赤色に浸される。
室内には見渡す限り、頭の天辺から氷水を浴びせられたような顔が立ち並ぶ。朱野幸人だけが我関せず、湧き出る紅を涼しい顔で、時折恍惚と眺めていた。
「この手で糞どもを血祭りにあげた。腐った村は腐った血で洗い流さないとな。血の雨だ」
全てを察した小夜が、静かに透明な涙を流した。
十六
「いつから入れ替わっていたのです?」
龍川が涙を流したまま黙り込んだ愛娘の背に手を添えながら、戸惑い気味に尋ねる。
冷泉はそれらを一度見遣り、「十五年前の脱走事件からです。そうですよね、幸人さん」あっけらかんと、目の前の黒髪へと投げかけた。
掌の上で赤く濡れた硝子に魅入りながら現実世界から遠ざかっている様子だった幸人だったが、どうやら話はしっかり聞いていたらしい。文字通り人が変わったように投げやりな態度で口を開いた。
「ああ。透が高校から県外に進学することは聞いていたから。チャンスだと思ったんだ。いくら双子といえども、微妙に顔かたちは違うものだ。急に入れ替わったら家族や友達にはわかるだろうからな。春休み中に入れ替わって、誰も透のことを知らない新天地で新学期から過ごせばばれることはない。牢を脱走して、東京にある透の下宿に乗り込んで入れ替わった。しばらく理由をつけて実家には戻らないことにしてな」
「その時、本物の透さんを薬漬けにしたんですね。牢を出たばかりのあなたが、薬だなんてどこで手に入れたんですか?」
冷泉の質問を、愚門とばかりに朱野幸人は鼻で嗤って、「東京だぞ。そんなもの金さえ積めばいくらでも手に入ったさ」まるで朱野透を演じていた彼とは別人のように残忍な目つきで吐き捨てた。
冷泉は相変わらず気にすることなく、口を閉ざしたまま幸人の話に耳を傾けた。
「高校の入学式を控えた三月末に、水谷から下宿に電話が掛かってきた。穢が脱走したってな……その穢が俺だとも知らずに間抜けな話だ」幸人は自棄の滲む遠い目をして、口元に嗤いを浮かべた。「それから水谷はこう続けたよ。外部への体裁もあるから、脱走の件は源一郎と自分しか知らない。何か情報があったら、自分宛てにこっそり連絡をくれって。そこで電話は切れた。俺は下宿先のマンションに透を監禁して薬を与え続けた。それから奴の思考力やら判断力が完全になくなり、奴の口から情報が洩れる心配がなくなったところで水谷に連絡したさ。繁華街の外れでぼろ雑巾みたいに捨てられているのを発見した、様子がおかしいんでヤクでも打たれてんじゃねえかってな。それがちょうどその年の八月のことだな。東京くんだりで薬漬けにされていたなんて、源一郎の狸に知れたら監督不行き届きで叱られるのは水谷だ。東北のどっかの山奥で見つかって、恐怖から精神に異常をきたしたことにでもにしようかって提案したら、さすが透さんだなんて感謝されたよ。てめぇが拝んでいる透さんこそが騒ぎを起こした張本人だとも知らずに馬鹿な野郎だ。そこから先は、水谷の日誌にあったとおり」
村一番の人格者の豹変――否、その正体に、住民皆が絶句していた。
その小針で刺すような視線ですらも愉悦とばかりに、幸人は悠々と話を続けた。ぽつぽつと、よく通る澄んだ声で。気だるげに緩んだ目元は、もの悲しくもどこか美しかった。
「高校大学の七年間村に帰らなければ、細かい顔つきや身体つきが変わっていても年月のせいだと見過ごされるだろう。そう考えて、俺は何かしら理由をつけて一度たりとも村へは帰らなかった。つかの間の自由を楽しんだよ。そうして大学を卒業して、実家に戻ったさ。村に復讐するためにな」
そう言って、幸人は恍惚と血濡れの右手を光に晒した。その身から溢れた昏い赤色が、鈍く光を反射する。
「百合子さんと松右衛門氏も、事故ではなくあなたが殺害したのですよね」
頃合いを窺って差し込まれた冷泉の問いかけに、幸人はとろりと視線を転がし、「ああ」と事も無げに嗤った。「皮膚から入り込む毒薬があるのを知っているか? 百合子はな、食事を持ってくるたびに俺を殴ってストレスのはけ口にしていたよ。抱えていたアルミの皿を投げつけて、気が済むまで殴って、それが済むと何ごともなかったかのように空になった食器を持って出て行くんだ。それだけじゃねえぞ」透は喉の奥で、さも可笑しそうに笑みを潰した。「あいつ、俺のこと、犯してやがったんだ。透くん透くんと呼びながらな」
遠くで雷鳴が轟く。誰かの喉がごくりと鳴った。
「牢のドアノブの内側に少量ずつ毒を塗り続けて、じっくりと苦しめながら殺してやった。
松右衛門のじじいはな、全ての元凶だ。あいつが村の癌だった。井戸の前に呼び出して足を払ってやればあっけなく落ちていったよ。死体を引き上げるときは、あまりの気持ち悪さに虫唾が走ったが、蛆虫にお似合いの醜い最期だ。せいせいしたさ」
話すうちに、幸人はどんどん自分だけの世界に入り込んでいるようだった。想いを馳せるように目を細めたり、口元を笑みの形に緩めたり、それはある種、蠱惑的な魔力で見る者を惹きつけるものだった。
「源一郎もな、殺したくらいじゃ留飲は下がらないが、まあせいせいはしたな。この瞬間のために生きてきたって部分はあったから、達成感はあった。俺の正体を、お前が散々可愛がってくれた穢だと明かすと、出目金みたいに目ェひん剥いて、脂汗浮かべて絶句していたな。それから顎を潰され両手を切られて、恐怖と痛みと絶望のどん底に落ちたまま死んでいったんだ。いい気味だな。正直あと百回殺し足りねぇくらいだが、まあそれなりのショーだった。
藤川絹代は、源一郎を殺した後で殺すと決めていた。あいつが源一郎の財産目当てで近づいてきたってことは一目見たときからわかりきっていた。俺も静も実際に何度も命を狙われかけたからな。悉く失敗しながら、それでも狸じじいにどうにか遺言書を書かせようとコソコソ画策する様は、憎さ通り越して滑稽だった。狸を殺して、財産はもう手に入らなくなったんだと絶望させてから吊るしてやったさ。財産欲しさに子供を殺しにかかるような女だ。死んで当然の金の亡者だよ。
透も静も水谷も。俺のことを気の毒だと口では言っていたが、結局見てみぬふりして自分たちだけ自由を謳歌していたんだ。同罪だな。善人のふりをして、いざ苦しんでいる人間を前にしても、安全地帯から眺めているだけの偽善者だ」
小夜が、何かを言いたげに唇を開いたが、腹に力を入れたところで言葉が見つからなかったのか脱力して俯いた。
龍川医師がやりきれないとばかりに、首を左右に揺らす。琴乃はいまだに信じられないふうで、愕然と口を開いたまま放心していた。
そんな面々をひとしきり目でなぞった冷泉は、改めて正面から幸人を見据えて、ごく純粋に疑問を並べ立てた。
「幸人さん。僕には一つどうしてもわからないことがあります。なぜ、朱野透さんの遺体を僕たちに見つけさせたのですか? あのままあなたが彼の遺体のある洞窟に僕を導かなければ、僕は深見さん犯人説を信じたまま、今も真相に辿りつくことなく過ごしていたはずです」
朱野幸人はしばらくじっと考え込み、やがて馬鹿らしくなったかのように自嘲っぽく笑った。
「さあ、なんでだろうな」そう言って視線を明後日に飛ばす。「まあそんなことどうだっていいだろ。どうせ逃げる気なんてなかったんだ」
その横顔に、冷泉はシャボン玉を両手で掬うように丁寧に問いかける。
「あなたは、知っていてほしかったのではないのですか?」
反応はない。鼻歌でも歌うような暢気さを滲ませ、穏やかに遠くを見つめるその横顔に、構わず冷泉は投げかけた。
「僕は先ほど、この事件の犯人は自己顕示欲にあふれていると言いました。十五年間を日陰で過ごし、その後も朱野透としての人生を歩んできたあなたは、ご自身のことを、朱野幸人という存在を、世間に見て欲しかったのではないですか」
依然朱野幸人からの返事はない。が、その視線だけは、滑るように斜め下へと転がった。
「僕は、事件を解いている間、ずっと犯人から手招きをされている感覚でした。壁にぶち当たるたびに、絶妙なタイミングで少しずつヒントが降ってくるような。水谷さんの日誌だって、事件の真相を知られたくないのならば、隠すなり、捨ててしまうなりすればよかったし、そもそも水谷さんの部屋に僕たちを立ち入らせない理由なんていくらでも作ることはできたはずですよね」
反応がない。朱野幸人はそっぽを向いたまま、地面から何もない壁面へと、縦方向に視線だけをずらした。自身が閉じ込められていた封印の城に二十三年分の思いを馳せているようにも、逆に全くの虚無のようにも見えた。
「あなたが捕まることを恐れていなかったというのは真実なのでしょう。今回の事件は、密室にしてもアリバイ工作にしても、一見凝っているように見えて、その実、科学的な捜査の手が及べば、すぐに犯人にたどり着きそうなものばかりでしたから。目的を成し遂げるまでの間、この村の中にいる僕らを欺きさえすればよかった。復讐を完遂すれば、捕まってもよかった。そう思えることだらけです。けれども、おそらくそれだけではないでしょう。寧ろ逆ではないですか? 知って欲しかった。村の呪いが生んだ悲劇を、朱野幸人という人間の存在を見てほしかったんじゃないですか?」
「知らないな。難しいことはわからないよ」
黙って聞いていた幸人だったが、場に齎された奔流をせき止めるように、そこできっぱりと言葉を差し込んだ。表情だけは至極穏やかで、無音声で再生すれば何気ない談笑のワンシーンと見まがうほどだった。
そんな朱野幸人の掴みどころのない情緒を、冷泉はただ正面から眺めていた。本音をはぐらかしているようにも、幸人自身、情緒や本心を持て余しているようにも見えた。
無音の小休止に、ようやく思考の整理が追いついたのか、白峰琴乃が歯車の錆びたねじ巻き人形のようにぎこちなく顔を上げた。
「人殺しは許されないとはいえ、あなたが朱野家に恨みを持つのは仕方のないことだと思うわ。見てみぬふりをしていた村の人間のことも、憎く思うでしょう。でも、どうして……? どうして陽介は殺されなければならなかったの?」
言葉を紡ぐごとに、想いが熱い雫となって溢れ出す。嗚咽と涙に溺れる合間に息をつぎながら、琴乃は懸命に気持ちをぶつけた。
そんな琴乃の拙い泳ぎが無事に岸へとたどり着くのを無感情に待ってから、朱野幸人はこともなげに唇を持ち上げた。
「嫉妬だろうな。憎くて羨ましくて仕方がなかった。同じ村の子として、朱野源一郎の子としてこの世に生を受けておきながら、早々とこの村からの脱出に成功した深見陽介という男がね。そう、完全に外の世界で、何も知らされないまま、しがらみなく生きているという点においては、透よりも憎かった」
羽根より軽い口調で躊躇なくもたらされた愛弟の死の真相に、白峰琴乃は声をあげて泣き崩れる。少女のような母親に瑞樹は寄り添い、罪悪感やら戸惑いやらやり場のない憎しみやらが綯交ぜになった視線で幸人を照らした。
それらを一通り確認して、冷泉は落ち着いた口調で尋ねた。
「あなたは、いつ深見陽介さんの出自を知ったのです?」
「大学を卒業して村に戻って来た年の夏、ちょうど一年前だな。水谷が源一郎の使いで二日間村を離れることがあったから、そのときを見計らって水谷の部屋に忍び込んだ。そこで日誌を読んだんだ。あいつが日誌をつけていることは、屋敷を改装した際にチェックしていたからな。復讐相手の選定をするために、被告人どもの罪状を確認する目的だったが、意図しないところで爆弾を見つけた流れさ。なにやら俺には陽介という腹違いの弟がいるって話じゃないか。深見陽介は六山市出身だって話だったし、朱野源一郎の隠し子である陽介と深見陽介が同一人物だったら奇遇すぎて面白い。興味半分で調べ始めたら本当にそうだったもので、流石に驚いたよ。あいつ、本当に俺の弟だった。運命のいたずらってやつか。これは天啓だと思ったね」
目を細め、遠くに想いを馳せる幸人は、またも自分だけの世界に還ってしまったように見えた。
「ずっと独りだった。時折透が大人たちに隠れて牢にやってきて、あれこれ教えてもくれたがな、それだけだ。教育も受けてないし、人との交流の仕方もわからない。こんな捻くれた俺とでも気が合ったのは、同じ血が流れていたせいだったんだな」
幸人は嘲るように吐き捨てた。透に扮していた幸人は、社交的かつ知的で人望の厚い青年だったため彼の言うままが真実だとは到底思えなかったが、ただの自虐だろうと冷泉は特に反論も慰めも挟まなかった。
「何も知らなかった陽介を殺すのなら、私を殺してくれればよかったのよ。貴方が言うように、見てみぬふりをしていた住人のうちの一人じゃない」地面を見つめたまま、琴乃がいじける子供のように涙声をあげた。
その瞬間、幸人が音もなく立ち上がる。その場にピリッと緊張が走り、冷泉と瑞樹の眼に武人の焔が灯った。瑞樹は、幸人を凝視したまま、ソファの下から竹刀代わりの角材を手繰り寄せる。
「あなたが陽介にしたことは、ただの八つ当たりよ」
「ああ、そうだよ。全てを呪ってんだ、俺は」良く通るその声は、地鳴りのように共鳴してその場を包み込む。凶暴な眼光が、琴乃の頼りない背中を炙った。「お前もこの憎き村の住人の一人だってことを忘れたのか? お望みならば、今からでもぶっ殺してやろうか。どうせできっこないと踏んで口だけで言ってんだろ? いざ殺られる段になれば、ひいひい泣いて命乞いするくせに、恰好つけてんじゃねぇぞ」
あまりの言葉の礫に、瑞樹が母を背に隠すように一歩前ににじり寄った。しかし幸人は、そんな瑞樹の姿は目に入らないかのようにその奥の琴乃を、溝にこびりついた汚泥を見るような冷たい目で見下ろして唇を歪めた。
「八つ当たりだ? 上等じゃねぇか。そうだよ。深見は何も悪くねえよ。あいつはただまっすぐに生きていただけだ。本当にいい奴だった」微かに幸人の喉が詰まった。「だがな、もとよりくだらない信仰にこっちを巻き込んだのはお前らだろ。なんでこっちだけが地獄を味わわなきゃならないんだよ。何も悪いことしてないのに。ただ生まれてきただけでよ」
幸人の血を吐くような静かな叫びが、腹の奥底から全身を震わせる。琴乃は顔を覆い、わっと歔欷の声をあげた。ごめんなさい、ごめんなさいと音の形を成さない叫喚が、湿った闇に消えていく。
いつしか琴乃の流す涙のいくらかは、幸人の心境を想ってのものへと変わっていた。残酷に命を奪われた陽介の姉としての白峰琴乃と、残酷な信仰に対し見てみぬふりを続けた罪深き村人の一人としての白峰琴乃。立場と立場とのはざまで、琴乃の心は張り裂けんばかりに激しく揺れ動く。
傷つき疲れ果てた幼い獣が血の涙を流すさまを、各々黙したまま、思い思いにその身に焼き付けていた。
「今更口だけの謝罪で償った気になるんじゃねぇぞ。そんなことしたって、なかったことにはならない。俺は人間らしく生きることは端から諦めていた。生まれた瞬間に奪われていたんだ、望みようがないさ。地獄から出られないのならば、全員俺と同じ場所に落としてやる。村の連中に同じ苦しみを味わわせてやることだけが、俺の唯一の生きる目的だった。本当は村ごと一気に皆殺しにして、滅ぼしてやろうかと思っていたんだけどな」
憎しみをこれでもかと凝縮したマグマのような眼光で、その場を横薙ぎに焼き払う幸人の視線を逃げることなく受け止めていたのは、瑞樹と小夜と武藤霧子の三人だけだった。
「それは、武藤霧子さんの存在があったからですか?」
背後から突然差し込まれた質問に、朱野幸人の顔色が明らかに変わった。
「は?」幸人は冷泉を振り返った。
「あなたは、武藤霧子さんがかつて源一郎さんの身勝手な都合により、子供と引き裂かれたことを日誌から知って、彼女に親近感を覚えたのではないですか?」
「うるせぇな」笑顔でナイフを振りかざす子供のような無邪気な顔で、幸人は一蹴した。「知らねぇし、知っていても教えるかよ。自分で考えな」そして椅子へどかりと座り、暖簾を下ろした。「さぁ宴は終わりだ。煮るなり焼くなり縛るなり好きにしろよ。俺は抵抗しない」
そうして、処遇を委ねるべくその場へ力のない視線を投げかける幸人の態度を受けて、住民たちの間に互いの動向を窺うような視線が飛び交った。
住民の誰しもが、目の前の殺人鬼への恐れや怒りと同じくらいの罪の意識を抱えていた。その罪悪感が、殺人鬼を拘束しようとする手を押しとどめるのだろう。
動くものは誰もいなかった。
「つまらないな。これ以上被害者を生まないために、犯人の正体を明らかにしたんだろう? 今更うわべだけの罪悪感とか気取ってないでさっさと縛り上げてみろよ、偽善者どもめ」朱野幸人は薄笑いを浮かべて低く言い放つ。語調が静かなのがかえって恐ろしかった。「罪悪感だ? 持ち合わせてないくせによ。そんなもん、小指の先程でもあったのなら、なんで助けてくれなかったんだよ」
「違う」 呪詛を断ち切る高い叫びが、室内を切り裂いた。小夜だった。「透さんは、あなたを助けようとしていたわ」
少女の悲痛な叫びにも幸人は何かを感じた様子はなく、冷めた目でもって一瞥を加えるだけに終わった。
「ああ。そういや、透と恋人ごっこしていたんだっけ。十歳の小娘に手を出すなんて、透も俺に劣らずとんだ変態野郎だな」
「違う、違う」大切な人の身に投げつけられる泥土を振り払うように、小夜は短い髪を乱して左右に首を振った。「透さんは、あなたを連れて村から逃げ出そうとしていた……!」
少女の告白に、その場の空気が粟立った。唯一、瑞樹だけが思うところがあったようで、曇った面でふいと視線を逸らした。
集まったその場の視線にも動じることなく、小夜は感情を抑えるようにふうと一つ息をつくと、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「ええ、そう。私は透さんにずっと憧れていた。幼稚な恋だったけれど、透さんは馬鹿にすることなく受け入れてくれていた。忘れもしない、これは透さんが東京の高校に合格して、いよいよ村を離れることが決まった日のこと。透さんから大人になったら一緒に村を出ないかと持ち掛けられたのよ」
はじめて耳にする娘の告白に、龍川医師は目を剥いて驚きを示した。
そんな父の反応を気に留める様子もなく小夜は力強く話を続けた。
「もちろん、私は喜んで受け入れた。ずっとこの村は変だって一緒に話していたから、何も拒む理由はなかった。透さんは、大学を卒業して外で就職先を見つけて、一緒に暮らす手はずを整えたら、彼の弟妹と私と瑞樹くんを必ず迎えにくると約束してくれた。その時私は高校生になっているはずだから、村の外でも生きていけるようにきちんと勉強をしておくことを約束して、透さんの背中を見送ったの」
少女の切ない告白が響き渡る。小夜は思いを馳せるように遠くへ飛ばしていた視線を、近くに手繰り寄せて目を細めた。
「けれど透さんは村に戻ってきてから、そんな約束なんか忘れてしまったかのように、ぱったりその話を口にしなくなってしまった」小夜は沈痛そうに、一度視線を落とした。「まさか、透さんが幸人さんと入れ替わっていたからだなんて、想像もしなかった」
あの幼い小夜の口から出ていると思うと信じられない、そんな様子で龍川医師と琴乃は華奢な身体から溢れ出す力強い告白を見つめていた。
幸人は何の反応も示さず、ただ気怠げな半眼で、くだらないとばかりに宙を睨んでいる。
「透さんは、自身と弟を引き裂き、不条理に監禁するこの村を心底憎んでいたわ。けれど、まだ子供である自分にそれを覆す力は持ちえない。だから、大人になったら必ず外の世界に連れ出すといつも言っていた。今考えたら、警察に駆け込むことだってできたのかもしれない。けれど、彼は頑なにそれを拒んだわ。失敗を恐れているようだった。何の躊躇いもなく赤ん坊を牢屋に閉じ込める村の冷徹さを見て育ったものだから、狂信的な信仰と体格差が持つ圧倒的な力を前に、恐怖を抱くのも仕方のないことだと思う。幸人さん、あなたには彼の思いが伝わらなかったの?」
幸人は貝のように何も答えない。ただ、顎を引き、睨むようにして虚空を見つめていた。
小夜はそんな彼の心の胸ぐらをつかむように、一歩身を乗り出した。
「幸人さん、あなたも言っていたじゃない。あなたが牢から出てきたときに少しでも役立つように、透さんはこっそりと本や新聞を頻繁に届けていたでしょう? 大人たちを恐れていたあの人が、危険を冒してその目を盗み、あなたに言葉を教え、書物を届けていたこと。これが弟を救う気持ちでなければ何だというの?」
「…………お前に何がわかる……」
地を這うような声に、小夜の細い体がびくりと跳ねた。
幸人の身体は小さく震えていた。垂れた前髪の隙間から覗いた目から情念の塊が零れるのが見えた。
辺りは水を打ったようにしんと静まり返る。各々がごくりと喉を鳴らす音さえもが響き渡るようだった。
「なんであなたがそんな顔をするのよ! あなたが殺したくせに!」
小夜の声が弾丸のように暗く湿った部屋を横切った。射抜かれた男は痛みに耐えるように固く俯いていた。
「透さんは……もう……泣くことすらかなわないのに……」
その言葉は、徐々に溢れる想いに呑み込まれて消えた。瑞樹がやりきれないという表情で小さく首を振る。
「小夜」
龍川医師の声が飛ぶ。しかし少女の耳には、そんな父の声さえ耳に入らないようだった。
「あなたは、そんな透さんを薬漬けにして、最後は虫けらのように殺したのよ」
小夜の左目からも一滴の光が零れた。
愛する者を喪った彼女は、それを拭おうともせずにその場に凛と立っていた。
「やめなさい、小夜。どんな理由があろうと殺人だけは断固としていただけないが、透さんの本心を幸人さんは知らなかったんだ。もしかしたら、上京した透さんから見捨てられたように思ったのかもしれない。彼が知らない透さんの本心まで持ち出して責め立てるのは少し違うだろう」
穏やかに窘める父の言葉に、小夜は小さくしゃくりあげる。そんな娘の姿を少しの間眩しそうに眺めて、龍川医師は静かに言った。
「すべてはこの村の悪しき風習と、それに異を唱える勇気すら持ちえなかった我々が悪いのです」
その言葉に、白峰琴乃の目線が示し合わせたようにしゅんと項垂れる。
冷気が足元から駆けあがるような沈黙を、一歩後ろから俯瞰するように眺めまわして、冷泉は何度か口を開閉した。唇を噛みしめては開く、それを三度繰り返したところでついに意を決したらしく、目に強い光を宿して静かに言った。
「幸人さん……あなた。もしかして、透さんを殺していないのではないですか?」
「え?」
幸人以外の、その場の全ての者のまなざしが冷泉へと注がれた。その驚愕を一身に受けてもなお、冷泉は淡白な表情で燃え盛る暖炉へと薪をくべる。
「透さんは自殺だったのではないでしょうか」
幸人の左の眉がひくりと動いた。しかし、それきり幸人の身体は動きを止めた。
今度は次第に幸人の方へと視線が移りはじめる。冷泉に集まった際の反射的な鋭い視線とは違い、今度は各人がおもいおもいに視線に衣を着せたような、遠慮がちなものであった。
「そんな……どういうことだ……透さんは薬で分別を失っていたんじゃないのか……」
頭の中だけでは受け止め切れずに溢れた混乱を発散でもするかのように、龍川はがりがりと頭を掻きむしった。そんな老医師の方へは視線を向けず、あくまで幸人を正面から真摯なまなざしで見据えて、冷泉は穏やかな声で尋ねた。
「それどころか……透さんを殺してもいないし、薬漬けにしてもいない。合意での入れ替わりだったのではないかという考えが、今僕の頭の中には浮かんできています」
「な!」
静寂が微かな動揺の波に変わる。
幸人は何も答えない。ただ、据わった目でじっと冷泉を見つめていた。それをもって彼が沈黙を選んだと判断した冷泉は、そのまま言葉を続けた。
「僕は先ほどまで、東京での空白の四か月を、幸人さんが透さんを薬漬けにするための期間だったのだと考えていました。つまり薬が効き、透さんの判断力が失われるまでに要した期間ですね。けれど、ここまで様々な話を聞いていて、この予想は間違いだったのではないかという考えになってきています」
幸人は瞬きに伴って視線を落とした。唇を固く引き結んだままだ。
「生まれてから十五年間を牢で過ごしていた幸人さんが、難なく透さんと入れ替わるには、それなりの教育が必要だったはずです。それを施したのは、誰だろうということに関しては、僕も疑問に思っていたのですが……その謎はみなさんも聞いたとおり、幸人さんと小夜さんの話により明らかになりました。けれど、透さんがそこまで密に幸人さんと交流していたとなると、新たな考えが浮上してきますね。すなわち『四神村脱出計画』について、透さんが小夜さんや瑞樹に打ち明けていたように、幸人さんにもまた打ち明けていたのではなかろうかという考えです」
ここで冷泉は一度話を切り、幸人の反応を待った。しかし、幸人は魂を失ったようにじっと足元を見つめたまま動かない。寧ろ彼よりも周りの者の方が、食い入るような視線でもって熱心に冷泉の話に耳を傾けているようだった。
「まあ……本来ならば、僕が憶測で話すよりも、幸人さんご本人から話を聞くのが一番なのでしょうがね」と、冷泉はもう一度幸人を見遣る。
幸人に話す意思がないのを確認してから、少し残念そうな表情をちらつかせて続けた。
「ええ、まあ。幸人さんが透さんの何かしらの尊厳を守ろうと、彼の関与をなかったことにしたいのだろうことはわかります。そのために、頑なに口を閉ざしているのでしょう。
話を戻しますと、……まあ、そういうわけで、入れ替わりももしかしたら合意の上でのことだったのではないかと、僕は考えたわけですね。東京で幸人さんと透さんは合流し、四か月の間透さんは幸人さんを匿い、共に村の外で暮らして社会のあらゆることを教え込んだ。そしてそれが終わると、自身は幸人さんになり替わって四神村に戻った。この主旨を憶測するならば……そうですね。『脱出計画』が成功した後で、幸人さんが牢の外でも生きていけるように外に慣らすためと、それから境遇の不公平さを埋める意図があったのではないかと思います。幸人さん、どうですか?」
具体的な冷泉の質問にも、幸人は反応を示さない。ただじっと貝のように口を噤んだまま、思いつめたような険しい顔で足元を睨んでいた。
それらを見比べるように視線を撒いた後で、瑞樹が普段よりワントーン低い控えめな声をあげた。「じゃあ、透さんは薬で分別を失っていたわけじゃないの?」
「はっきりとはわからないな。ここまで聞いた透さんの為人を考えるに、透さんに分別があったのならば、今回の幸人さんの凶行を止めたんじゃないかと思っているが」
冷泉の見解を聞き、瑞樹は沈痛な面持ちで視線を落とした。
「俺もそう思うんだ。あの透さんが復讐に走るなんて……考えにくくて」
「あの優しい透さんが凶行を許すわけない。絶対に」小夜が噛みついた。
眦を上げた彼女に、瑞樹は困ったような視線を返して言った。「透さんが最期の瞬間まで分別を保っていたとしたら、どうにか助けを求めようとはしなかったのだろうか」
「きっと……無理やり縛られて洞穴に監禁されていたのよ。家で殺人事件が起きたとなれば、透さんだって暢気に幸人さんのふりなんかしていられないわ。入れ替わりのことを話してしまうかもしれない。そうなると、幸人さんの復讐は失敗に終わる。だから幸人さんは、邪魔な透さんを洞穴に連れ去ったのよ」
小夜は、幸人への敵意を引きずったまま感情的に言い放った。幸人はうつろな表情で足元を眺めていた。
「それで……透さんは、悲しくなって自ら……」
そう言って眉根を寄せる小夜に、冷泉は幾つかの相槌で以て理解を示すと、あくまで理性的な口調で差し挟んだ。
「その説も考えましたがね。少し違和感があるのですよ」少女の不服そうな視線にも動じず、冷泉はなおも事務的に続けた。「まずは手錠がはまっていた手足に抵抗した痕跡がなかったこと。それから、洞穴にあった飲食物に手をつけた形跡がなかったことですね」
「それだったら、薬で身体に力が入らないようにされていたかもしれないじゃない。現に幸人さんは、絹代さんを殺害するときにはそういったものを使ったのでしょう?」
「だとすれば、飲食物を彼の手の届く範囲に置いたことと辻褄が合わないと思いませんか」
「辻褄?」小夜はきょとんと眼を丸くした。
「薬で全身の自由を奪った相手の傍に、自力で摂取しなければならないような飲食物を置くでしょうか」
小夜は考え込むように唇を噛んだ。
そんな少女を横目に、冷泉は全体へと声を撒くように視線を上げた。
「違和感はまだあります。透さんと幸人さんが『脱出計画』の話を共有し、それを成し遂げるための準備として入れ替わりを行っていたのならば、彼らの『計画』は順調だったはずですね。では、ここで幸人さんの立場で想像してみてください。彼が時間を掛けて築き上げてきた『脱出計画』を捨てて『復讐』へと方向転換するに至った理由は何だったのでしょう」
小夜はうっと詰まったような表情で言葉を飲み込んだ。思わぬ暗礁が出没した空間に、敢えて明かりを当てなおすように、冷泉はもう一度言った。
「幸人さんを『脱出』ではなく『復讐』に方向転換させた出来事は何だったのでしょうね。『脱出計画』に暗雲が立ち込めた、あるいは、計画そのものが頓挫したことだけは確かでしょう」
辺りは言語という概念を失ったように静まり返る。唯一言葉を知る冷泉だけが、別空間にいるようだった。
「それともやはり、透さんも復讐支持者へ鞍替えしたのでしょうか。彼自身、監禁生活を、身をもって体験したことで、村や家族への憎悪が倍増したのでしょうかね。つまり、透さんの同意を得た上での犯行だったと」
「そんな――」
異を唱えようとする小夜を、冷泉は有無を言わさぬ視線で制した。それと時を同じくして、幸人の目に突如感情の火が戻った。
「透は関係ない」
きっぱりと言い切った幸人に、冷泉はゆっくりと頷き返す。言外に話してくれると信じていましたとでもいうような、どこか温かみのあるものだった。
「関係ないのですね」
「下手な芝居打ちやがって。大人を舐めるなよ、糞餓鬼が。俺が話さなければ、透も共犯だったということで話を進める魂胆だったんだろうが、生憎警察が捜査すれば俺の単独犯だったことは明らかになる」
冷泉は悪びれもせずに、じっと幸人の言葉を待った。幸人の言うとおりだった。幸人が透を巻き込まないために、真実を隠し全ての罪を一人で完結させようとしていることはわかっていた。だから、逆にその気持ちを利用して、透共犯説を土台に話を進める素振りを見せたのだ。そうなると、透を守るために幸人は真実を話さざるを得なくなる。
そしてその目論見のとおり、やがて幸人は観念したように小さく息を吸った。
「透は……」幸人はそこで口を噤んだ。何かを考え込むように、しばらく足元を見つめ、それから視線を持ち上げて冷泉を正面から見据えた。「冷泉くんの言うとおりだ。俺と透は合意の上で入れ替わっていた」
小夜を筆頭に、住民たちは透の分別の有無が気になる様子だったが、冷泉はそれを背中で制してすかさず言葉を挟んだ。そうして幸人の発話意欲を削がないために、慎重に話を掘り下げる。
「透さんと二人で東京に脱出した時点で、警察に通報しようという話にはならなかったのですか?」
「なった。というより、そもそも俺はもっと小さいうちから、まわりくどい脱出よりも、とっとと家の者どもを皆殺しにしたいと透にぼやいていたんだ。たまに虐待しにくる百合子にも我慢がならなかった。だから、あいつをぶち殺して鍵を奪ってそのまま牢を飛び出して皆殺しにしてやろうと本気で思っていた。だが何度も透から宥めすかされた。そうするうちに、そんなことしたら透にも迷惑がかかると思うようになった。そのおかげで、すんでのところで踏みとどまることができたんだ。まあ、結局耐えられなくなって、百合子のことは殺したわけだが」
「そのことは、透さんも知っていたのでしょうか」
「知らない。うすうす勘づいてはいたかもしれないけどな。証拠でもあれば、それこそ透は監禁犯の親父と、殺人犯の俺を警察に突き出しただろうよ」
「でも、殺人の証拠がなくても、監禁がある時点で警察を呼ぶべきでしたよね」
「全くその通りだ。皆殺しが駄目ならば、早く警察に通報してくれ、俺をここから出せとだいぶせがんだが、透は頑なに首を縦に振らなかった」
「なぜでしょうか」
「朱野家だけの問題ならやったんだろうけどな」
「それは、監禁の問題が朱野家だけに留まるものではなく、村全体に関わるものだからということでしょうか」
冷泉の問いに幸人は肯き返した。
「警察に通報したら、現代に残る奇怪な村としてメディアは面白おかしく報道するだろう。そうなると、俺らだけじゃない。他の子どもたちも含めて晒しものになり、未来が潰れかねないというのが透の考えだった」
「なるほど。透さんは瑞樹や小夜さんのことも心配していたのですね。犯罪を容認していた奇怪な村の元住民だなんてレッテルに一生苦しめられるよりも、村に異を唱える者だけで村から逃げ出して生きていく方が心身ともに自由になれるだろうと。近年話題に上るようになった、被害者の人権問題の領域ですね」
冷泉の要約を受け、幸人は、自身の頭の中に住む透の考えを参照でもしているかのように、一拍間をおいてから首肯した。
「そういうことだろうよ。透もまだ幼かったし、村の外の世界のこともほとんど知らなかっただろうから、村の価値観にかなり支配されていたんだろうな。今振り返ればそう思う。跡継ぎがいないんじゃ、村も滅ぶ。それでいいんじゃないかっていうのが透の考えだった」
「透さんは、跡継ぎ世代が揃って村から離れることで、あなたがたの代で静かに村を終わらせようとしたのですね」
「俺には到底理解できなかったがな。じゃあ俺はどうなるんだ、お前が大学を卒業するまで我慢しなきゃならないのかと俺が異を唱えたら、『それについては考えてある。俺が幸人の代わりに牢で時間を過ごすんだ。幸人は自由が手に入るし、俺の望みも保たれる。利害一致だろう』と。透のやつ、事も無げにそう言いやがった。それが入れ替わりの真相だ」
「そうだったのですね」
観念したようにぽつぽつと話し始めた幸人に、冷泉は傾聴の姿勢を示す。そんな相手を胡乱げに一瞥して幸人は明後日の方向へ視線を投げた。
「ならば、脱走のときに、牢の鍵を開けたのも透さんですね。どのようにして牢から出たのだろうと疑問にと思っていたのですよ」
「その通り。透がまず東京で住まいを整えて、それからこっそり迎えにきた。俺には土地勘がないからな。二人で一緒に東京まで行った」
冷泉はんー、と小さく唸った。「ここまで話を聞くに、やはり村からの脱出計画は順調そうに聞こえるのですが、あなたを復讐へと駆り立てたのは何だったのですか?」
冷泉が話の舵を切ると、幸人は急に難しい顔で俯いた。それから、憎悪を滲ませた燃えるまなざしで宙を睨んだ。
「あいつのせいだ。大学卒業を三か月後に控えた二年前の冬、透が倒れた」
「あいつ……ああ、そうだったのですね。そうか。だから、あなたは透さんを」
冷泉はひとり何かに合点がいったように、ため息混じりの声を零した。
「水谷からの報せを受けて駆け付けたときには、透は寝たきりで意思の疎通もままならなかった。いつ死んでもおかしくない状態だったんだ。藤川絹代が透を殺そうと一服盛ったんだよ」
「……絹代さんが?」
全てを悟ったように黙りこくってしまった冷泉に焦れたのだろう。それまで穴が開くほどの真剣なまなざしで話に耳を傾けていた小夜が後を継いだ。
「慌てて下宿先を引き払って村に戻った。卒業に必要な単位は足りていたからな。それからしばらく経った頃、俺は見たよ。藤川絹代が今度は俺の食事に何かを混ぜようとしているところをな。その場で気づいて問い質したが何もしていないの一点張りだ。聞けば、秋に静が落下したベランダの板も不自然に腐食していたというだろう。確信したさ」
「財産狙いというわけですな」と、龍川が重い息を落とした。
小夜が「酷い」と両手で口を覆う。
「絹代を野放しにしていたら、遅かれ早かれ俺や静もやられていただろうよ」
「透さんを病院に連れてはいかなかったのですか?」
「龍川が診ておしまいだ。元に戻す手立てがない以上、病院に期待できることなんて何もない」
「その時点でもまだ通報しようとは思わなかったのですか?」
「それになんの意味がある」幸人は至極当然というふうに、尋ねた冷泉を燃え滾る強いまなざしで見据えた。「絹代の殺人未遂は証拠不十分で検挙が難しいかもしれないが、俺と透は間違いなく保護されるだろう。源一郎たちは法に裁かれる。でもそのことに何の意味があるんだ」
冷泉は黙ったまま、幸人の顔を凝視した。
何人かの息を呑む声がこだまのように響く。
「俺たちの計画は台無しになった。透が死ぬのならば意味がない。あいつは俺の世界の中にいてくれなきゃ駄目なんだ。あいつのいない世界なんか俺は知らない」幸人はそこで燃え盛る焔に蓋をして視線を落とした。「残ったのは復讐だけだ」
予想だにしなかった、血を吐くような殺人鬼の告白に誰しもが言葉を失った。
「俺は内定を放り出して実家に戻った。計画はなくなった。未来なんか無価値だ。残されたのは復讐だけ。なんてことはない。もとから俺は復讐を望んでいたんだ。復讐鬼が復讐鬼に戻っただけだ。つかの間の白昼夢だったんだ」
黒い焔がすっと消えたように、幸人の表情から生気が抜け落ちた。彼が透だった頃に戻ったような、棘のない目をしていた。
これが本来の幸人だろう。冷泉は初めて彼と相見えたような気持になった。
「ここから先は、冷泉くん、君の推理通りだ」
「ひとつ、あなたがなぜ透さんを洞穴に監禁したのか。それは、絹代さんの魔の手から彼を守るためだったのですよね。先ほど合点がいきました」
幸人は口元を緩めて力なく俯いた。
「そのはずだった……まさか太枝を削って喉を刺すなんて……どこにそんな力が残っていたんだ。多分、どこかでわかっていたんだろうな。俺が何をやっているかを。あいつは……あいつは俺と違って優しい奴だったから……。昔から器用であれこれ彫って玩具を作ってくれていたけど……最後に作ったのが自らの喉を貫く道具だなんて……」
小夜が堪え切れなかった涙を隠すように、声を押し殺して両手で小さな顔を覆った。幸人の、強すぎて歪むほどに激しかった透への思いに対する、彼女なりの敬意なのだろう。
きっと朱野透は、自身のために殺人鬼となる道を選んでしまった弟の姿に耐えられなかったのだ。
もはや真相の語られることのない朱野透の真実に思いを馳せて、冷泉は深い息をつく。
自らが教育を施し、与えた夢を共に追い、けれども自らが毒に倒れたことで夢破れ、復讐の鬼になり果てた弟の姿に涙しながら最期を迎えたのだ。
「あいつは……絶望の中で死んでいったんだ……」
水を含んだ真綿が鳩尾に巻き付くような、そんな痛みが各々の胸を襲い、その場は重い沈黙に包まれる。
やがて龍川がやりきれないというふうに白髪を左右に振って、地を這うような声を零した。
「幸人さんが閉じ込められることがなければ、朱野幸人として当たり前の人生を歩むことができていれば、こんな悲劇は起きなかったのですよ。それを見てみぬふりをした私どもも同罪です」
「今更……もう遅いんだよ」遠い目をした幸人が、譫言のようにぼそりと呟く。
「ああ。君の言うとおり、私は村の秘密を握りながら黙殺してきた悪人です。お詫びにひとつ、その悪人が抱えていた秘密を教えましょう」その言葉にはなんの興味も示さない幸人だったが、龍川医師は構わずその草臥れた横顔に語りかけた。「あなたは源一郎さんとかすみさんの子供ではない。かすみさんと水谷さんの間にできた子供なんですよ」
「……は?」幸人の顔が、一瞬で驚愕に歪んだ。
「真に愛し合っていたのは、水谷さんとかすみさんだったのです」
その場の誰しもが、あまりの衝撃にしばらく呼吸を忘れた。
それらを、居心地が悪そうに上目遣いで窺い見て、龍川医師は再び視線を落とした。
「お見合いの席で、あろうことか、水谷さんはかすみさんに一目ぼれをしてしまったのです。しかし、そこは大人の男として自身の気持ちに蓋をしていた。けれども、源一郎さんはああいう人でしょう。松右衛門さんとお姑さんも、とても厳しい方々だった。実家の援助と引き換えに嫁に出された身として、どれだけ辛かろうと朱野家に骨をうずめる覚悟だったかすみさんもね、耐えてこそいたものの流石に心が折れかけていたのですよ。そんなときに、やさしく扱ってくれる若い執事がいたら……どうなるかは想像に難くないでしょう。そう、一度の過ちをおかしてしまったのですよ。そして、その一度によって、子供が宿ってしまったのです」
一同は言葉を忘れ、透は、は、はははと乾いた笑いを零して天を仰いだ。
「つくづく隠蔽だらけの腐った村だな。よくも次から次に、ぽろぽろ出てきやがる。まぁなに、調べればわかることだ。じゃあなんだ? 俺と透は不倫の末の子で、水谷は実の息子が理不尽な仕打ちを受けているのを間近で見ていたくせに救い出そうともしなかったのかよ。屑だな」
幸人は掌をゆっくりと開き、寂しそうな目で見つめた。鮮血に光っていたその手指も、今では仄暗く変色していた。
「まあでも、水谷も糞野郎は糞野郎だが、狸ジジィよりはまだましだ。あの狸の血が入っていないなんて願ったりだ……」
そう言って、幸人はふらふらとその場にへたり込んだ。大理石の床に赤い手形が拡がる。
この三日間碌に寝ていないのだろう、滑らかな黒髪の隙間から覗く横顔は酷くやつれた色をしていた。蒼白な顔も、色濃い目の下の隈も、時折平衡感覚を失うその身体も、決して演技だけではなかったはずだ。
痛々しさが溢れる哀れな男の背中を、誰もが音もなく見つめていた。
時折響く風の声と雷鳴だけが、確かに時が進み続けているということを報せてくれる。
やがてその音も遠ざかり、柱時計が五時を告げる。東の空から朝日が差し込んでいた。
磨かれた床に映った自らの虚像に語り掛けるように、幸人が何かを呟く声がした。
十七
太陽が夏の終わりを名残惜しんで、燦燦と余力を振り絞りはじめる正午前。四方八方からの蝉しぐれに包まれたこの村に、ようやく悪夢の終わりが訪れた。予定通り出張から帰った白峰秀一が、トンネルの崩落に気づいて警察に通報したのだ。
離合がやっとという細いトンネルとあって、方向転換も後進で戻ることもできず、秀一は暗いトンネルをペンライトに身体一つで五藤村側の入口まで駆け戻ったらしい。救助のヘリコプターで村に到着した頃には、青いポロシャツの大部分を汗で染めて、安堵の表情の奥に隠すことのできない疲労を滲ませていた。
崩落したトンネルの復旧には少なくとも三週間はかかるとみえた。ヘリポートもない村の上から一人また一人と警察関係者が降ってくる。その様子を、一同はどこか非現実的な心持でただぼんやりと眺めていた。
朱野幸人もまた同じように、大理石の床にへたり込んだ体勢から首を持ち上げ、ぼんやりと空を仰ぎ見ていた。
「冷泉くん」
舌足らずな声にその名を呼ばれ、冷泉は振り返る。視線の先では、朱野幸人が脱力したように床の虚像を眺めていた。
「白日の下に晒してくれて感謝してる。透以外の誰かから、初めて名前で呼ばれたんだ」
部屋の空気が粟立つ。冷泉は何かを返すこともなく、その俯いた影をただぼんやりと眺めた。朱野幸人も気にすることなく、ただ独り語りのようにぽつりぽつりと力のない声を零した。
「忌み子だ、穢れだと呼ばれることはあっても、今日のこの日まで名前で呼んでくれる人なんて一人もいなかった」
ヘリコプターの轟音に呑まれながら、それでも彼は一文字一文字を愛でるように、ゆっくりとそう言った。そして、救助隊がロープを伝って降りてくるのを目に入れたところで、幸人はふらりと立ち上がる。その横顔を、龍川がしがみつくような声で呼び止めた。
「待ってください幸人さん。あなたの名前は、亡くなったかすみさんがつけた名前なのですよ」
幸人は歩みを止めて、朱に染まった自らの右手を気だるげにぼんやりと見つめた。その仕草から静聴の意思を読み取った龍川医師は、とにかく思いの丈を伝えようと腹に力を込める。
「双子の難産で危険な状態にあったかすみさんにショックを与えないようにと、源一郎さんと松右衛門さんは双子の片方を女児の死産だったことにしました。そのことはあなたもよく知っていることでしょう。それを伝えたとき、涙ながらにかすみさんは、あなたのお母さんはこう言ったのですよ。かわいそうなことをした、と。名前をつけて弔ってあげてくれ。せめてあの世では幸せになれるよう、名前だけでも幸せな名前をつけてあげてくれ、と。そう言い残して彼女は息を引き取ったのです」
朱野幸人は自らの掌を眺めたまま、不敵に唇を持ち上げた。
「ふうん。ならば、俺はこの世において死んだ母親の望み通りになったわけだ。俺は復讐を完遂させて、最上級の幸せを手に入れたんだからな」
そう吐き捨てて、居間を抜けて玄関ホールへと向かう。そうしたところで屋敷に踏み入れた救助隊とかち合い、自ら丸めた両手の甲を差し出した。
やがて、救助隊からの通報により乗り込んできた警官によって、即座に幸人の身柄が確保された。その際にも彼は特に抵抗する様子もなく、されるがまま別室へと連れていかれた。それから先の様子は、居間で待機となった一同の知るところでなかったが、身柄が移されるときになって、通りかかった幸人は足を止めて玄関ホールから居間を覗いた。
付き添いの警官が不可解そうに顔を歪める。狂人の奇行だと思ったらしく、脇腹を小突くも幸人は反応を示すことなく、その場に根が生えたように泰然と部屋の中を見つめていた。
やがて意味深な笑いだけを残してその背中が遠ざかるのに、堪らず龍川医師が居間を飛び出して声を掛けた。
「幸人さん」
朱野幸人はちょうど扉をくぐるところだった。両脇を固めた屈強な警官が驚いて振り返る。
龍川はそのわずかな時間に言葉をねじ込むように、すかさず声を投げた。
「私は自らの罪へのけじめをつけるつもりです。あなたも罪を償った先には人生が待っていますから。あなただけの人生が」
別の警官からの制止を受けて、龍川は居間へと送還される。幸人も何事もなかったかのように、眩い日差しの下へ一歩踏み出した。距離は時間と共に開いていく。
幸人は乾いた口調で何か一言を残し、やがて警官の渦の中に消えていった。
そのとき背中の向こう側で幸人がどんな表情をしていたかは、居間に残された面々には終ぞわからなかった。
事件現場となった館には規制線が張られ、六人の生存者は屋外のテントへと誘導された。そこで医師によるメディカルチェックを受け、ようやく自由時間が与えられる。結局一睡もせず朝を迎えた六人だったが、誰も不満を口にする者はいなかった。
しばらくすると、疲れと安堵からか小夜と琴乃の二人はすやすや寝息を立て始めた。武藤霧子と龍川医師はそれぞれ、ぼんやりと物思いにふけっているようだった。
冷泉はというと、どうも寝る気になれず、かといって狭いテントの下で過ごすのも気が滅入ると、立ち入りが許される村の外れの山道を散歩していた。後ろには、白峰瑞樹の姿もある。
格子状の木漏れ日が、木々のさざめきに従いくるくると移ろって、まるで万華鏡の中に迷い込んだようだった。晩夏の森林浴はマイナスイオンとつかの間の安息をもたらしてくれる。
解放感に全身を浸す。しかし全て終わったのだと言い聞かせたところで、喉に刺さったままの小骨は消えない。冷泉は、見てみぬふりをしていた小骨をようやく摘まんでみることにした。
「なあ、瑞樹。幸人さんは百合子さんを経皮毒で殺したと言ったが……一体どのようにして毒物を入手したというのだろう。百合子さんが亡くなったのは十年前、幸人さんが十四のときだ。彼が言ったように、長期間に渡って毒を投与し続けていたのだとしたら、彼が毒を手に入れたのは十三歳か、それよりも前になるだろう。透さんが協力するとは思えない。透さん経由じゃないとなると……彼は生まれてからずっとあの地下牢で軟禁されていたのだから、毒物の入手だって精製だってほぼ不可能だと思わないか」
苔むした大木の根元にしゃがみ込み、草花を指で弾いていた瑞樹が顔を上げる。その目がみるみる驚愕に見開かれた。
「……まさか」
「ああ。誰かが手引きしたんだ。毒物をこっそり牢の中の幸人さんに渡した」
エピローグ
事件から十日が経ったある午後のことである。ようやく取り調べから解放された冷泉誠人は、その足で四神村へと向かっていた。トンネルが崩落した村への唯一のルートとして、木々を切り開いただけの細い山道がその日の朝に開通したばかりだった。五藤村から歩くこと五時間。ようやく屋敷の一軒が見えてきた。
館の扉を開けると、薄暗い室内で黒い影がゆっくりと振り向いた。
「あら……」
「ずいぶんと不用心ですね――武藤霧子さん」
その声でようやく合点がいったようで、霧子は小さく微笑んだ。
「でも……犯人は捕まったでしょう? もう怯えることはないわ」
「お引っ越しされるのですか?」
室内にはきれいに梱包された段ボールがいくつか積まれていた。
それらにぐるりと順に視線を送って霧子は「ええ」と肯いた。「でも荷物といってもね、独り身となれば少ないものよ。ずっと住んでいた村だから寂しくないと言ったら嘘になるけれど、あんなことがあった村でしょう。早く離れたいなと思って」
「一日でも早く離れて、忘れたいのでしょうね」
冷泉の含んだ物言いに、霧子の目が一瞬鋭く光ったが、すぐに柔和な表情を取り戻した。
「そうね。冷泉君、貴方にとっても、いつまでも覚えていたくはない事件でしょう。ご自宅へ帰って早く忘れて、ゆっくりと疲れた身体と心を養生して頂戴ね」
そう言って霧子は踵を返し、手荷物を探るふりをする。会話の拒絶だ。それで冷泉の推察が確信に変わった。早く帰れと言わんばかりの霧子の背中に冷泉は静かに声を刺した。
「いえ、僕はね、武藤さん。まだもう少し忘れるわけにはいかないんですよ。やり残したことを思い出して戻って来たのですから」
「あら、何かしらね」
「朱野幸人少年に毒を与えたのは武藤霧子さん、あなたですよね」
その言葉に霧子は一瞬動きを止めると、やがてゆらりと振り返った。
「……なんのことかしら」
「朱野幸人少年は、生まれてすぐに地下牢へと監禁されて、十五の三月に脱走するまで一度もあの牢を出てはいません。これは朱野家の住人及び執事の水谷氏も証言していたので間違いはないでしょう。そんな少年が、いったいどのようにして毒物を手に入れたというのでしょうか」
「……透さんじゃないのかしら?」武藤霧子は艶やかな唇を持ち上げ笑みを作った。
冷泉は表情一つ変えることなく事務的に言葉を続けた。
「あくまでしらを通すつもりなのですね。……いいでしょう。答えは龍川医師が握っていました。今から十二年前の五月、幸人さんが十二歳の頃ですね。龍川医院の薬棚が割られており、中の薬瓶が一つなくなるという盗難事件が、六山市の派出所の記録に残されていました。人的被害や、それ以外の金品が盗まれた形跡もなかったため、犯人不明のまま捜査打ち切りになっています。事件当日の診療記録は一件。その唯一の診療相手として武藤霧子さん、あなたも警察の取り調べを受けていますね」
霧子は白い指を顎に当てて、天を仰ぎ見た。「そういえば……ええ……そのようなこともあったかしら」
「記録に残っていましたから、間違いなく行われています」冷泉は鋭く釘を刺した。「それから幸人さんの監禁されていた牢から薬瓶が見つかりました。中身はとある経皮毒でした。瓶は龍川医院で使われていたものと同じ種類の小瓶です。そして、幸人さんは百合子さん殺害の際にその毒物を使用したことを証言しています。つまり、幸人さんの証言を正とした場合、百合子さん殺害に使われた薬物の入っていた容器は、龍川医院から盗まれたものだったことになりますね。あの日龍川医院の薬棚に近づくことができ、なおかつ朱野家の奥深く、地下牢に出入りできた人物――該当するのは誰でしょうね」
「龍川先生の狂言かもしれないし、小夜ちゃんの仕業かもしれないわ」
「では、幸人さんに聞いてみましょうか。この瓶は、誰に貰ったものなのか」
「たとえ彼が証言したとしても、証拠がない限り立証はできないわね。龍川先生と幸人さんが共犯関係にあって、私に罪をなすりつけようとしているのかもしれないわ。それに、私は残念ながら目が見えないの。目が見えない人間がどのようにして薬瓶を見分けるというのかしら。毒ならば、まさか舐めてみるわけにもいかないでしょう」
「あなたの目が見えるようになっているということは、龍川医師が話してくれましたよ。問い詰めたところ、観念して話してくれました。あなたの視力は戻っていたが、他の人には黙っていてくれとあなたから頼まれてずっと従っていたそうですね。あなたから子供を取り上げた罪悪感からずっと頑なに守り続けていたそうです」
彼女はかわいそうな人なのだ。両親とは早くに死に別れ、兄弟も親戚もおらず天涯孤独の身なのだ。二十五年ほどまえにはその腹に命を宿した。日に日に大きくなる腹を抱えた彼女の笑顔は、どこか寂しそうな陰も感じたが、至極嬉しそうでほほえましかった。しかしその父親は妻子持ちの源一郎さんであった。それどころかその赤ん坊はあろうことか、ほかならぬ源一郎さんの指示により、死産だとして遠い福祉施設に預けられたのだ。……そう、老医師は疲れの滲む皺だらけの顔をしきりに擦りながら、涙まじりに警官に話した。
「理由はわからないが、武藤さんにも何か事情があるのだろうと黙っていたそうですよ。後ほど警察からの呼び出しやら、視力検査やらがあるかと思いますが、どうか龍川医師を恨まないでやってくださいね。僕が彼を『いずれわかることです』と、無理やり問いただしただけなので」
しばらく氷のような無表情で黙っていた武藤霧子だったが、やがて唇の両端を微かに持ち上げた。
「見上げた坊やね。わたくしの視力が戻っていることにはいつ気づいたのかしら?」
「すぐには気づきませんでしたが、初日の夜の会話を思い返していてふと違和感を覚えました。小夜さんの衣服の袖が壺に引っかかって倒れそうになったとき、あなたは咄嗟に腰を浮かしてこう言いました。『たいそうなお宝ですものね、それ』と」
「……なるほどね」
「ええ。咄嗟に腰を浮かすことにも違和感はありますが、何にぶつかったのか、それはその場の景色の見えている人間にしかわからないことでしょう。それを正確に言い当てたのを見て、あなたの視力の件に疑問を抱きました」
「認めましょう」
そう言って、霧子は薄く茶色の入った眼鏡をゆっくりと外した。眩しそうに少し眉間に皺が寄る。そこではじめて露わになったその瞳は、薄茶のガラス玉のような澄んだ色をしていた。
「あなたが一連の全てを視認できていたのだという前提で事件を振り返れば、また新しいものが見えてきますね」
「そうかしら。たいして変わらない気がするのだけれど」
と、悪びれもせずに小首を傾げる武藤霧子を、冷泉はにこりともせずに見つめた。
「ああ、そうね。そういえば……透さん……いえ、幸人さんだわね。彼と絹代さんもうすうす勘づいていたようだったわ」
「へえ?」冷泉は目で先を促した。
「そして、絹代さんが私の目が見えることに気づいている、ということにも幸人さんは気づいていたようだったわ」
なぜそう思ったのですか? と、冷泉は目顔で尋ねた。霧子はどこか恍惚と目を細めた。
「木工室で源一郎さんの遺体が発見された後、絹代さんに彼は確かこう言ったのよ。『霧子さんはアリバイこそ不完全ですが、視力に不安がある以上犯人足り得ません。彼女のことだけでも信用して一緒にいてください』ってね」
「ああ、それは巧い。巧い誘導ですね」冷泉は素直に舌を巻いた。「霧子さんの視力が戻っていることを知る絹代さんには、すべてが逆の意味に聞こえたでしょうね。『霧子さんの目が見えるのならば犯人足り得ますよ。離れた方がいい』と」
「ええ、ええ、まさにそう」霧子は可笑しそうに肩を揺らした。「あの女、すぐに私を突き飛ばして化け物でも見るような目を向けてきたわよ。それから私を置き去りにして一人で逃げ帰ったきり閉じこもってしまった。それが幸人さんの誘導だなんて知らずに、最後まで馬鹿な人だったわね」
「絹代さんの警戒心の強さを利用したのでしょうね」冷泉は嘲笑する霧子を一瞥して苦々しく呟いた。「あとは例えば、水谷さんの事件において、扉を開けた瞬間に飛んでいくゴム紐もあなたには見えていたはずですよね」
「見えていたら何だというのかしら」霧子は間髪入れずに強い口調で言った。「視界の端を一瞬何かが通ったからといって、それが何であるかわからなくてもおかしくはないでしょう」小ばかにするように喉の奥でくすくすと笑いを零す。「部屋に人がいると勘違いして、目を瞑ってしまったのよ、私は。残念ながら、今回の事件の犯人隠避罪にも、十年前に毒を用意した証拠にもならないわ」
冷泉はさして気を悪くしたふうでもなく、ただ淡々と言葉を返した。「あなたが間違いなく龍川医院から薬瓶を盗み出し、中を経皮毒に変えて幸人さんに渡したことを、僕は確信しています。今回小瓶から検出された経皮毒の成分は、医薬品や香料、界面活性剤、農薬等の原料として使われているものなので、入手もそう難しくはなかったはずです。必ず、何かしらの痕跡はあるはず。証拠を突きつけられて逮捕される前に、自首した方が賢明です」
「ご忠告どうもありがとう。けれど、やっていない罪を認めることはできないわ。たとえその経皮毒に使われた洗剤を過去に偶然私が購入していたとしても、洗剤くらい誰でも買うでしょう?」
肩を竦めてわざとらしく笑う武藤霧子にも、冷泉は特段何の感情も表にあらわすことなくさっぱりと続けた。
「龍川医院の盗難事件の犯人があなたであると言う証拠が出てきたらどうします?」
「そんなものあるはずがないわ。小瓶に指紋でもついていたならば話は別だけれど」
「小瓶には幸人さんの指紋しかついていませんでした」
その返答は予想済みだったようで、武藤霧子は満足そうに頷いた。「当然ね」
手が届きそうで届かない上空から勝ち誇った笑みを浮かべる武藤霧子に、冷泉は涼しい顔のまま鼻っ柱をへし折る一撃を加えた。
「但し、かわりと言ってはなんですが、龍川医院の薬棚の硝子戸の修繕に使われていたセロハンテープの粘着面から、繊維片に混じって体液と毛髪の一部が検出されたそうですよ。年数が経っているため劣化しているかもしれませんが、鑑定できない程ではないようです」
自身が乗っていた飛行船の安全神話が幻だったことに気づかされた武藤霧子の顔が、一転冷水を浴びせたように瞬時に凍り付く。真っ逆さまに地面へと叩きつけられた哀れな罪人に構うことなく、冷泉は無味乾燥な声で続けた。
「十年も経てば科学捜査も進歩するものですね。盗難事件と殺人事件では、捜査の内容も変わるのかもしれませんが。棚の中を覗き込んでついた指紋を手持ちのハンカチなどで拭ったりはしませんでしたか? 十年前にあなたが経皮毒を含んだ商品を購入したという証拠が見つかり、その商品の成分と、小瓶に残った毒物が一致するかを調べれば、あなたの殺人教唆が白日の下に晒されるのも時間の問題です」
武藤霧子は全ての色を失った顔で、呆然と宙を見つめていた。
「そして、透さん殺害未遂に使われたと思われる黒色の小瓶ですがね。ああ……これは、藤川絹代の私室の箪笥の奥から出てきたものです。これも調べてみたところ、全く同じ洗剤から精製された経皮毒が入っていたとの鑑定結果が出たそうです。きっとあなたは、それを以て藤川絹代を、龍川医院における盗難事件の犯人、および朱野幸人に殺人教唆を行った犯人に仕立て上げるつもりだったのでしょう。武藤さん自身が龍川医院における盗難事件の犯人であるという証拠さえ見つからなければ、たとえどれだけ怪しまれようとご自身に警察の手が届くことはないと高を括っていたのでしょうが、詰めを誤りましたね」
武藤霧子はどこか遠く、壁を抜け、森を抜け、空を抜けたもっと向こう側へと思いを馳せているようだった。ともすれば非現実へと逃避していそうな彼女の意識を現実に連れ戻すがごとく、冷泉は機械的な声を、蒸した室内に淡々と滑らせた。
「また、これは僕個人の見解になりますが、幸人さんがあれだけ強く恨んでいた村そのものを殲滅しなかったのは、あなたを殺したくなかったからだと思っています。壊滅した村に一人、あなただけが生き残っていれば、自ずとあなたに疑いがかかると読んでいたのでしょう。朱野幸人さんが、復讐こそが生きる希望だったと言っていたのは、あなたも覚えているでしょう。透さんと村からの脱出を目指すようになるまでの幸人さんにとっては、そうだったんじゃないかと僕は思うのですよ。つまり、生きる希望をくれた武藤さんは、彼にとって恩人のようなものだったのかもしれないなと」
「恩人……か」武藤霧子は、形の良い唇を歪めて小さく笑った。
「ええ。しかしその恩人が、実は絹代さんを唆して自らを葬ろうとしていた黒幕だったわけですから。これからそのことを知る幸人さんは、一体どのような反応をするでしょうね」
「まさか幸人と透が入れ替わっているとは知らなかったけどね。とにかく私は、源一郎が憎かったのよ」霧子は遠い目を窓の外に向けた。「だから幸人と絹代の黒い心を利用して、源一郎から全てを奪おうとしたの……」
冷泉も窓の外に身体を向けた。二人は肩を並べて晩夏の深緑をぼんやり見つめた。
「……あなたは自身の子供が生きていることに、うすうす勘づいていたのですよね。知っていて、合法的に我が子を取り戻すことでなく、法を侵して我が子を奪った元凶を抹殺する方向に走った。皮肉にも、自身の子供が幸人さんの殺害対象に含まれていたことは当然ながら誤算だったことでしょうが。この事件の引き金を裏で引いた報いと言っては深見さんに悪いのでそうは言いませんが……実に皮肉なものですね」
遠くで男たちが扉を叩く音がする。
続いて押し寄せる靴音の波を耳に、深い紅が小さく弧を描いた。
遠く、無数のひぐらしの声がする。
短い命の全てを僅か二週間に懸ける、儚い線香花火のような彼の声が。
了