授業への参加も、未央には許可されていた。

出席は取らないのか、バレたらどうしよう。
そんな逡巡をしつつ赤いストールを目印に、後ろをついていく。


教室は、食堂とは別の塔にあった。
メイン校舎の裏手にある、人気のほとんどない寂れた塔やらを経由して辿り着く。

そしてすぐ、結衣は自分の杞憂を知った。

大部屋に、数えきれないほどの生徒が集まっている。
これでは、部外者が一人、妖が数体紛れ込んだところで分かるまい。

昼休み明けすぐの授業は、「和歌に学ぶ日本文学」というタイトルのものだった。


今日の講義は、恋愛に関するものを取り扱うようだ。

高校とは別物ほどに違う授業形式に戸惑いつつも、結衣は未央の様子を眺める。

なんのことはない。
手が時たまスマホに伸びるくらいで、ただ黙々と受講しているだけだった。

すでに、それなりの圧を放ってはいるが、特に代わり映えしない。
そう思いかけた矢先のことだった。

『君待つと 吾が恋をれば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く』

ホワイトボードにこんな一首が書きつけられるや、背筋がぞわりとそばだった。

「これは、天武天皇の妃、額田王の詠んだ歌です。風の揺れるような、ほんの少しの気配にも、つい想い人を浮かべてしまう。というような意味があります」

詠まれた背景など、教授により詳細な解説がなされるのだが集中できない。
化け妖の姿こそ見えないが、唸るような妖力が肌に迫ってきていた。
背筋を汗が流れていき、結衣は乾いた喉を唾で潤した。

教室全体の空気が淀んで、不安定に揺らいでいる。

一段ギアをあげたかのようだったが、当の未央は、変わらずノートを取るだけだった。
平気そうに肘をつき、頭をもたげ、またスマホをちらりと見る。

周りの目があった。
声を出せる空気でもなく、

『もしかして妖にかなりの耐性でもあるのかな、未央さん』

結衣は、配布されたプリントの裏にこう書いて、恋時の前に置く。
ペンを握るところまではいった彼だったが、

「次の歌は、小野小町の歌です。『夢路には足も休めず通へども うつつにひとめ見しことはあらず』、というもので」

再び、妖気が肌をひりつかせる。

恋時は恐ろしさのあまりか、すっかり動かなくなっていた。
肩を揺すると、なされるままに前後する。あ、ペンが落ちた。

意見こそ聞けなかったが、参考にはなった。

少なくとも、化け妖がなにかに反応して、その威力を大幅に増しているのは間違いなさそうだ。

四限、五限と授業は続く。その後は、同じような現象は起きなかった。

大きな事件もなく、結果として、他の生徒と同じように授業へ臨む。
単に、興味深い話が多かった。

「本日は、平安時代から現代に至るまでの妖怪の起源について、取り扱っていきます」

中でも五限の民俗学講義は、内容が結衣にとって身近なものだけにことさらだった。

老衰した動物の姿を怪異に見間違えた。
元々神だったものが信仰の薄れから妖となった。などなど。

彼らの存在が見えるだけに、その由来に、さまざまな解釈がされているのが面白かった。若い教授の熱弁に聞き入っていたら、

「なに、伯人くん? どうしたの」

ノートを押さえていた手首を、掴まれていた。

彼は無言のまま立ち上がる。恋時の反対の腕には、人の姿で、だれるハチが抱えられていた。

「ちょ、ちょっと待って!」

恋時が歩き出すので、結衣は、慌てて掛けカバンに文房具を入れ込む。

扉を出るときには、教授からは冷ややかな視線が注がれた。恋時はまるで毛布でくるむかのよう、柔らかい笑みと会釈でそれをいなす。

少し廊下を歩いてから、結衣の肩を叩いた。

「結衣さん、集中しすぎですよ。竹谷さんが外へ出て行ったのお気づきでしたか?」
「えっ、全然気づかなかった。なにか用事でもあったのかな」

「分かりません。でも大丈夫、まだすぐに追いつけますよ。ほら、角のところ」

恋時が指差す先には、毛羽立った赤いストールだ。やや早足で、後をついていく。

「にしても、うちの宮司は腕は立つけど、抜けてますね。ふふ」
「だ、だって面白い話してたんだもの」

「興味を持つのはいいことです。まだお若いですから。大学生に憧れでも生まれましたか?」

正直に言えば、少しは。

学問も私生活も、自由を謳歌している同年代の女子たちと、自分を比べてしまわなくもなかった。

結衣は、立場も家庭環境もなにも、彼女らとは大きく異なる。いい意味でも悪い意味でも、特別な存在であることは、自分でも分かっていた。

だからこそ、いわゆる普通への憧れはある。できるだけ、他人の目から見たときには普通だと思われたい。そうも考える。

けれど、結衣はゆるゆる首を振った。

「私にはこの仕事しかないからね。それに、この仕事好きだよ。なにせ私、八羽神社の宮司だからね。お祓いは天職だよ」
「殊勝なことを言ってくれますね、うちの宮司は」

話しつつも、結衣は未央から目を切らなかった。


やがて彼女が足を止めたのは、学生たちが集うラウンジだ。

席を取ると、左右に首を振りスマホを弄る。手鏡で髪を整え、にっこり笑ったり、真顔になったり。

その姿は、少し挙動不審に見えた。

果たしてそのわけは、音が拾えなくともわかった。


「あれが噂の先輩さんかな」
「おぉ、彼が。格好いい方でいらっしゃいますね。あーいうのが今どきってものですか、次回の参考にします」

「……あ、大学生になりきれてなかったこと、引きずってたんだね」

未央と先輩の二人は頭を寄せ合い、親しげに話し込み始める。

噂に聞いていたとおり、お菓子が手渡されていた。目を凝らすと、バターサンドのようだ。豊潤な香りが空調に乗って、結衣の鼻腔を掠めた。

懇々と、仲良さげに食べ始める。

授業中から何度か携帯を見ていたのは、彼との連絡を取っていたのかもしれない。

「ほんと、なんで憑いてるのか分からなくなってきたよ。授業抜け出してまで会いたいなんて、幸せそのものじゃない?」

それも、たしか未央は妖怪の話に興味を示していたから、民俗学の授業は受けたかったはずだ。

それでも、彼との逢瀬を優先したことになる。

「俺も同感ですよ。とりあえず、今日は帰りましょうか。情報のいくらかは集まったし、ここで覗いているのも忍びない。たしか、夜は友人たちと花見に行くといっていましたし。そこまではお邪魔できませんから」

結衣は静かに頷く。


その場を立ち去ろうとしたその時、

「あの男、妖がおった痕の匂いがするで」

眠りこけていたはずのハチが口を開いた。大きなあくびとともに。

「ほんまに微かにするんや。バターサンドの匂いのが強烈やけど、ほんのりや。僕みたいな犬やないと分からん程度やな」

まぶたを擦りながら言われると、説得力に欠ける。酔った勢いで、投資をそそのかしてくる迷惑おじさんかのようだ。

けれど、ご飯にも妖の探知にも、彼の鼻はたしかだ。

「ハチくん、それは昔、あの男に妖が憑いていたってことです?」

恋時が、顔二つ分は背の低いハチに目線を合わせるため、膝を折って問う。

「その通りや。どんな妖かまでは分からんけどな」
「さすがですね、ハチくんは。俺たちではわかりませんでした」

ねぇそうでしょう、と恋時に同意を求められて、結衣はとりあえず相槌を打つ。

ハチの真剣な表情は、満更でもない腑抜け顔に溶けていった。

「まぁな、僕くらいになると、寝起きでも絶好調や。あ、バターの香りで起きたんは秘密な?」
「じゃあ俺と結衣さんは先に帰っているから、その調子で、あの男を少し尾けてもらえません? 君にしかできないことですから」

「任せなはれ、恋時はん。余裕やで、しかし」

ハチは誇らしげな勇み足で、二人のもとへ歩み寄っていく。それを見送ってから

「さて、帰りましょうか。情報の整理でもいたしましょう」
「……もしかして、さっきのはハチを使うためのお世辞!?」

「ふふ、ハーフ&ハーフといったところですね。俺は商売上手なので」

ピザを想起してしまう言葉選びとともに、くくっと笑いこぼす恋時。
華やかな笑顔の裏には、打算もあるのかもしれない。