結衣はそれ以上言葉が出なくなる。放心状態で、鈴だけは辛うじて振る。
不思議な妖だとはずっと思っていた。もしかしたら根付けが化けたわけではないとも気づいていた。
でも、その正体には気づきようがない。
恋時伯人いや、その本当の名前は
「だから言っただろ? 彼は、八羽神社がお祀りする神、大国主様だよ。まぁ、本体そのものではないけどね。神様に遣わされた、いわゆる分体という奴だ」
いつも笑顔で、お金に目のない、和室の好きなつかみ所のない妖。そんなイメージしかなかったから、事実と分かっても、実感は湧いてこない。
でも、思えばそれで理路は通る。
たしか芹川の祠にいた邪神は、「自分は邪神だから神様を名乗ることに制限がない」と言っていた。
裏を返せば、他の神様は自分から正体を明かせないということになる。
彼が手を握ってくれると、強いお祓いができる理由も明白だ。
彼が八羽神社の主祭神なら、結衣は彼からお祓いの力を借りている。そりゃあ直接触れていれば、力ももらいやすい。
彼がやけに物知りで、結衣を昔から知っているようだったのも、神様なら説明はつく。
根付けが彼に似ていたのではない。逆だ。
あの根付けはきっと、彼をモチーフに父が作ったお守りだったのだろう。
幼い頃、結衣が襲われているところを助けたのは、つまり彼だったのだ。
記憶に焼き付いている、あの真っ白な光は、神様の証だった。
『ここまでの力とは……!』
「まぁ今回は、神様二柱のお力をお借りしているからねぇ。前よりも強力で当然、当然」
化け妖の勢いが、見る間に衰えていく。
「……あれ、結衣さんに、お父さん?」
反対に、抜け殻のように倒れていた恋時が、目を覚ましたようだ。
「伯人さん。結衣に力を貸してやってくれるか? この分なら、祓い切れるかもしれない」
「……わかりました」
戸惑いはあるようだったが、代わりに恐怖は引っ込んでいるらしい。
立ち上がった恋時は、結衣の横に立ち並ぶ。手を繋がれると、効果が目に見えて変わった。
よかった、まだ消えていない。そう思うと胸がぎゅうっと締め付けられて、つい力が籠る。今度は三人で、祝詞を唱和していった。
そしてついに、化け妖の黒い瘴気が消え失せる。
「くそ、ココマデか!!」
猫又へと戻った妖の身体は、結衣の持っていた小鞄と大差ないほど、小さかった。
足の先まで真っ黒な毛はキメが粗く、抜け毛が目立つ。身体は骨張って、睫毛は目やにが多く、瞳は不健康に赤かった。八羽神社で保護している白猫とは正反対だ。
「なんつーか、痩せこけてんな」
ここまで黙りこくっていた薄川が呟く。どうやら猫の姿であれば、彼にも見えるらしい。
猫又を抱え上げた彼を中心に、結衣たちは輪を作る。
「飼い猫だったみたいだな、こいつ。首輪がついてる」
「……でも、ろくに世話してもらえなかったみたい」
そうでなくては、飼い主が先に死んでしまったか。心が痛んで、結衣は鎮痛な気持ちで唇の裏を噛む。そこへ
「捨てられたらしいで」
背後から補足が入った。
入り口にはいつのまにか、雪子と並んでハチがいた。メスの白い猫又を抱えて立っている。落ちそうなほど、腕いっぱいだ。
白の猫又が、ハチに代わって言う。
「ワタシたちは元々、同じ家で飼われていた猫だった。でも、飼い主の事情で、カイリだけが途中で……」
「その鈴はもしかして、あの黒猫のと同じもの?」
「そうだ。はじめは二匹平等に可愛がってくれていたんだが、ある日突然カイリだけがいなくなった。どこかの家に引き取られたのだと思っていたのだけど……。
黒色は不吉だと新たに家に来た男が追出してしたというのが真相だった。すっかり老いてから、ワタシはそれを知ったんだ」
怒りと、無念の滲んだ声だった。
メスの猫又は、ハチの腕の中を飛び出す。
カイリというらしいオスの猫又の側まで行くと、まるで身体が邪魔とでもいうように、二匹、団子のようにくっつく。
尻尾を絡めあう。白猫が、黒猫に覆い被さっているようにも見えた。
先の話はなくとも、事情は分かった。
たぶん、二匹は同じ家で飼われていた猫だったが、黒猫のカイリだけがなんらかの訳で捨てられてしまったらしい。
たぶん、それが八羽神社の近辺だったのだろう。
そうしてカイリは、人を無差別に恨むようになり、手頃なところにいた結衣を襲った。一方の、白猫の方は、カイリを捨てた人を憎んで死んでいった。
二匹の寿命に大きな差があったため、白猫がカイリを解放しようと画策するまで、長い月日近要したのだ。
そしてなにより彼女は、カイリを好きでしかたなかったのだろう。
でなければ、自分の身を捨ててまで、復活させようとはしない。十年かけて思いを遂げようとは思わない。
人の勝手に阻まれた愛を、彼女は今やっと遂げているのかもしれなかった。
その場の全員、言葉をなくして見守る。少しののち、小屋を後にした。
「少なくとももう危険はありませんよ。あの分なら、再び化け妖になることもないでしょう」
恋時が、疲れきった顔を綻ばせる。
「俺のために、色々と申し訳ありませんでした」
それから、その場にいた全員に頭を下げた。
責めるものは、もちろん誰一人いなかった。膠着した空気を嫌ってか、父が無駄に笑う。
手を差し出し、恋時に握手を求めた。
「じゃあそろそろお別れかな、伯人さん。今回も助かったよ。また、神様の世界へ戻るんだろう?」
「え、なんで」
思わず、結衣は割って入る。
「神様は、目的があるときに現れるって、俺は先代に聞いてるよ。そもそも先代が俺に伯人さんの正体を教えてくれたからね。先代が言うことを信じるなら、この度こうして顕現してきてくれたのも、さっきの猫又を抑えるために出てきたんだろう?」
……そうだった。たしか邪神も同じことを言っていた。
神は力が衰えた時か、強い目的がある時のみ顕現する、と。
「……ということは、本当に消えちゃうの。あのノートに書いてたのはそういうことまで見越してたの?」
「えっと、その……結衣さん」
「嫌だよ、私。せっかく伯人くん助かったのに。昔、私を助けてくれたんだよね? まだ恩返し全然できてないよ」
「それはそうですが、別に恩を売ったつもりもありませんし。それに」
恋時はやりにくそうに、視線を宙に漂わせる。
この後に及んで、はぐらかそうとしているようだ。結衣は感情の起こるままに、恋時の召した和服の袖を掴む。
「おいおい、結衣~。気持ちは分かるけどな、伯人さんは神様なんだから戻らなきゃいけないんだ。あんまり困らせるなよ」
結衣だって、もう二十近い大人である。
それが正論であることはよく分かっていた。
でも、いくら正しくても、認めたくはない。わがままは承知で、離してなるものかと内側へ絞り込む。
まだこれからだ、もっと隣にいてもらわなきゃ困る。あまりに短すぎるのだ、恋路が残したノートと同じである。もっと何ページも先まで、めくるのが嫌になるくらいの思い出を、彼と一緒に綴りたい。
結衣が涙をこぼしそうになったとき、
「その、結衣さん? 大変言いにくいのですが。実は、この猫又のお祓いが俺の目的というわけではなくて」
風向きが変わった。
へ、とふぬけ声が喉奥から辛うじて外に出る。
「……じゃあ伯人くんは消えない?」
「はい。消えませんよ。もしそれが目的なら、もっと直前にしか現れません。前回出てきた時は、妖のみなさんとは、ろくに会話もしないまま消えたぐらいですから」
冷静になって思えば、一緒に暮らし始めて、もう半年以上が経っている。
「むしろ消えられません。別に目的があるので、それを達成しない限りは」
今度は、安堵に身体中の力がいっぺんに抜けてしまった。堪えられるかと思ったけれど、
「よかったよ、よかったぁ」
結局、涙は流れてしまった。
自分でもよく分からないのに、止まりそうになかった。
雪子が仕方なさそうに脇から出てきて、ハンカチ片手に顔を拭ってくれる。父やハチも、眉を落として結衣を優しく眺めていた。
感傷的なムードが流れる、夜更け。
「で、その目的ってなんだ?」
薄川が一言でそれを切り裂いた。
全員の視線が集まった先で、恋時はびくっと身体を浮き上がらせる。
「……いやぁそれはちょっと」
彼は、一人先に山を下ろうとまでしていた。
必殺笑顔による鉄壁も、ぼろぼろといったありさまだ。
頬は目の下まで赤く染まっているのが、薄暗い中でも見て取れた。いつもは張りのある花びらのような唇が、なにかを堪えるように端で引き結ばれている。
「い、言えませんよ、そんなの。神のルールですので」
「今でっちあげたでしょ、伯人くん」
「……さて、なんのことやらさっぱり」
両手をあげて袖を振り乱すと、恋時はついには行ってしまう。しかしあろうことか、迫り出していた岩肌に和服の裾を引っ掛けたらしい。
木々の間から、少なくとも神様らしい威厳には欠けた悲鳴があがる。
見たところすぐに体勢を立て直していたが、いつもの彼には信じられない取り乱しっぷりだ。
「重症ね」
と雪子は吹き出していた。
それが、ふっふ……と不気味な笑いに変わる。ことさら面白そうに、彼女は紅色の口元を覆った。
「うちには、分かったわよ。恋時の目的」
「さすが雪子! で、なんなの?」
「教えられないわね、ちょっと恋時が気の毒すぎるもの。ヒントだけ言うと、少女漫画読んでたら分かるわよ。
ヒーローは好きな子が困ってたら、どうするか、ってこと。それが恋時の目的よ」
「……えっと。たとえば、なんの漫画?」
「それ聞いちゃう!? じゃあ今度私の部屋に来なさい。みっちり、少女漫画の基礎を叩き込んでやるわ。今はおすすめがあってね──」
こればかりは、聞いた結衣が馬鹿だった。
夜更けだというのに、熱烈な趣味トークが繰り広げられ始める。
そんなうちに、空が白み始めていった。
また朝がくる。ちゃんと、恋時がそこにいる朝だ。いいや彼だけではない。
「みんな、ありがとうございました」
もっとも大変で、もっとも、人のありがたさを知った夜だった。