「ごめん、長くなっちゃったよ」
カーナビが指し示す現在地は、もう碁盤の目の上にいた。
夜の雰囲気に当てられて、舌が回りすぎたかもしれない。
少し後悔をする。
「別に。聞けてよかったよ。改めてごめんな、変な決めつけして」
「ううん、背中押してくれたんでしょ。言ってくれなかったら、京都までもこれてないよ」
やり方が不器用なだけなのは、よく知るところだ。
車が交差点で右折をする。タイヤが地面を擦り、ウィンカーの音がする中、彼が言った。
「なんにしてもさ。俺は、八雲が、……結衣が隣に来てくれてよかったと思ってるよ。今もな」
「わざわざ聞こえにくい時に言わなくてもいいのに」
「う、うるさい。もうすぐ着くから用意しとけよ」
車内でも何度かかけたけれど、電話はまだ通じていなかった。
そのため、ナビにゴールとして設定していたのは、家ではなく神社の方だ。
京都御所の右側をすぎ、出町柳の駅を横目にしながらまっすぐに上っていく。どこまで進んでも、和風な街並みが広がっていた。
父が普段見ている景色だと思うと、少し夢を見ているような気分になる。
案内終了を告げるナビとともに、車がゆっくりと止まった。薄川がサイドブレーキを引き上げる。
「ほら、ここでいいか? 待ってるから、早くしろよ。違反駐車切られたくないし」
そっか、一人で行くんだ。
当然のことに、今さらながら胸がざわついた。急に心細くなるが、ここまできて逃げ帰るわけにもいかない。
「うん、急ぐよ」
意を決して、結衣は扉を開けた。
すぐ目の前の大鳥居をくぐって、広い参道を奥へと走る。
社務所を訪ねるつもりだったが、楼門は閉まっていた。とっくに閉館時間は過ぎている、年末年始でもないのだから当たり前の話だ。突発的に出てきたから、そこまでケアしきれていなかった。
「だ、誰かいませんか! 私、八雲って言うんですけど!」
ほとんど脊髄反射的に声を張り上げる。
「……結衣? もしかして結衣か」
返事は、思わぬところからあった。正面の門から外れ、その人は裏の戸口を引く。
参道はぼんやりと街灯が照らすだけで暗かった。
けれど、数年ぶりに見ても、すぐにその人だと分かった。
紫地にうっすら藤文様が施された袴を召している。二級上という高位の身分にいる証だ。彼のように、まだ髪が黒いうちに就く人は珍しい。
「なにをしてるんだ~、こんなところで」
久しぶりに見た父の顔は、明らかに戸惑っていた。
たしかに、滋賀にいるはずの娘が夜中に突然訪ねてくるなど、おかしな出来事だ。
「怪異じゃないからね? えっと、大弊も神楽鈴もあるし」
証明しようと、結衣はかばんを漁りだして、手を止める。
もっとも有効なものが、ポケットに眠っていたじゃないか。くすみきった根付けを見せると、やっとそれと認めてくれたようだ。
「どうしたんだ、こんな時間にこんな場所で」
「えっと、うちで化け妖が出てね。それが、鎮守の森の奥の小屋から現れて──」
久々に顔を合わせた緊張もあって、上がってしまっていた。結衣は、必死の身振り手振りを用いる。
父の表情は険しさを帯び、首がどんどんと俯いていく。
支離滅裂になってしまった話が終わると、それが一挙に緩む。
「それで、父さんはどうすればいいかな」
柔和に笑い掛けられると、魔法が解けたように気が軽くなった。
何年もかけて深くなっていった溝が、そうすぐになくなるわけじゃない。
けれど、
「お願い。八羽神社まで来て! 伯人くんを助けなきゃいけないの」
ひとまず跳び越えることはできた。
結衣は恐る恐る、その顔色を伺う。
父の顔には、会心の笑みが浮かんでいた。
「娘が久々に頼ってくれたんだ。聞かないわけにはいかないな。よし、すぐに行こうか。仕事は後回しだ」
ここに至るまでのことを思うと、さっぱりことが運びすぎて、あっけなくさえ思えた。
父は一度境内へ戻ると、浅沓だけ運動靴に履き替えてくる。
同僚たちへの書き置きも残してきたらしい。
「あっちで、薄川が、えっと、飛鳥が車で待ってくれてるから!」
「おぉ、横野寺の息子さんか」
父の手を引き、参道を走って戻る。
結衣は、小学生の頃を思い出していた。
今みたく、父の手を捕まえて、どこぞの公園を走っていた記憶だ。
それを皮切りに、折り紙を教えてくれたこと、慣れない手で髪を結えてくれたことやらが蘇ってくる。こうして思えば、親子関係としては、むしろ良好だ。
「懐かしいな、昔もこうやって走ったろ」
「お父さんも覚えてたんだね」
「当たり前だろ。なんでも覚えてるよ。大事な娘とのことなんだから」
「……私のこと大事なの?」
「当たり前だろ。元気そうでよかったよ。ずっと心配してたんだぞ。最近は結衣の方が近づくな、って感じで中々会いにいけてなかったからなぁ」
年頃の娘は難しい、と息を切らしながら父はぼやく。
その姿に、あぁそうか私か、と思った。
結衣は、空いた左手で、ウサギの根付けをきゅっと握る。
思えばこれは、父が何気なくくれたものだ。
それを結衣が、こうして後生大事に持ち続けている。ただ可愛らしいから気に入っただけでは、そこまで執着しないはずだ。
これを持ってさえいれば、どんなに溝があっても、父と繋がっていられる。
今やその時の気持ちにはなれないが、たぶん結衣が、そう思いたかったのだ。
結衣が、そこに勝手な意味を見いだしていた。
もしくは、それと同じなのかもしれない。
長年覚えていたわだかまりだって、結衣自身が作り出したものだったのだ。
自分は養子だから、妖が見えるから、普通の親子にはなれない。
そう決めつけていたのは、たぶん結衣の方だった。