「お金がない……」

まるで亡霊のようにそう呟いてから、八雲結衣は、はっと目を開けた。

正座の姿勢、少し乱れていた袴装束を正す。

場所は、滋賀県彦根市、城下町の一角にある八羽神社(はちわじんじゃ)境内の本堂。
ついさっき、朝の礼拝を行い終えたところだ。

神道において「朝拝(ちょうはい)」と呼ばれるこのお参りは、一日の始まりであり、心身を清める行為にあたる。

だが、頭の中はといえば、まだ淀んだままだった。

この際、空っぽにするつもりで冴えた空気を肺に含む。その甲斐なく

「お金がない……」

数秒後、結衣はこう繰り返していた。

一神社を預かる宮司としては大変情けない話だが、実際問題それは、無視できるべくもなく差し迫った課題だったのだ。

そもそも、至るところの神社で閑古鳥が鳴き、宮司らはみな経営に苦慮する時代である。

調べたところによれば、高名な神社でさえ、神事だけでは維持費を賄いきれず、動画配信やら土地貸しやら、資金集めに奔走しているそう。

高校在学中から代理として実質的に宮司をつとめ、神職養成所に通ったのち、父親から正式に職を受け継いで、早一年。

前代の頃から、

「壊れかけの寂れ神社」「妖怪出るらしいよ、あそこ」

などと不本意な噂をされてきた八羽神社にお金がないのは、当然のことだった。

出雲大社と同じ「大国主様」をお祀りしていて縁結びのご利益があることなど、誰も知らない。
それに、誠に遺憾ながら、その悪評は的を得ていた。

「失礼しました」

御神体である鏡に一礼し、結衣は本堂を後にする。

長い廊下を渡った先が、社務所兼自宅の平屋だ。

身体が、芯から震えるような寒さだった。隙間風がびゅうびゅう音を立てている。外は桜が咲く春うららかな季節だというのに、入り込んでくる風はまるで冬将軍だ。

さらに悪いことには、

「……また雨漏り。この間直したばっかなのに」

ぴちゃんぴちゃん、水滴が床を叩きつけていた。

季節の変わり目だけあって、天気が不安定だ。
祈祷中に、通り雨があったらしい。

結衣はすぐに雑巾、受け皿がわりのバケツを洗面所から持ってくる。


これくらいは日常茶飯事のことだったから、用意は万全だった。
びゅうびゅう、ぴちゃんぴちゃんは、もはや生活の効果音だ。

ひどい時などは、境内にある摂末社が強風で半分壊れかけたこともある。その時は、見様見真似の組み木で対処を施した。

この間、信仰してくれる人の代表である氏子総代のご老人はやってくるやいなや、

「ごめんね、中々もうお金も集まらなくて」

結衣にこう頭を下げたが、むしろ申し訳なかったくらいだ。

要するに、八羽神社は本当にボロかった。

その境内のすぐ外に『鎮守の森』という厳しい名前の鬱蒼とした森林があるのだから、怖がられるのも無理はない。さらに加えるならば──。

ミシミシと背後から嫌な音が鳴った。

「こら、ハチ! あんまり走り回らないでよ、床抜けたらどうするの」

結衣は、屈んだ姿勢、振り向きざまに注意をする。

駆けてきたのは、焦げ茶色の巻毛が立派な、犬のハチだ。結衣より前から、ここに住み着いている。名前は、神社の名称と、かの有名な忠犬から頂いてきた。


わしゃわしゃと頭を撫でると、魅惑の手触りだ。
彼は彼で、心地よさそうに目を細め、喉を鳴らす。

こうしていれば少しヤンチャな芝犬といった風なのだが、

「だってお腹空いたしな! いい匂いがずっとしとったしなぁ。結衣、朝ご飯まだ?」
「ほんと鼻が効くんだから。もう用意してあるよ」
「まぁ僕にかかればこないなもんや。醤油の匂い嗅がせたら誰にも負けん」

ハチは、表情豊かに、かつ流暢に、近江弁を喋れてしまったりする。いらない特技を持っていたりする。

そして極め付けには、

「で、今日の朝ごはんは? 僕、牛肉がいいなぁ。丑年やし」

瞬く間に人型に変わることもできるのだ。

見る間に制服姿の少年となり、二足で立ち上がったハチがよだれを拭う。

ごわっとややボリュームのある髪に、夏祭りのスーパーボールほどに丸く煌びやかな目が、可愛さを前面に押し出してきていた。変化しても、残ったままの耳や尻尾がまたあざとい。

お茶の間の前の婦人ならウインク一つで落として、牛ステーキくらいならご馳走してもらえそうだ。


だが、人型となった彼は、普通の人には見えない。彼の声も、耳には届かない。犬の状態で喋る言葉も、他人には吠え声に聞こえる。

なぜならば、妖だから。

噂というのは不思議である。姿を見ることはないはずなのに、見事に当たっているのだ。
八羽神社には、本当に妖怪がいる。

「干支にかこつけて、贅沢なもの要求しないの。でも、楽しみにしてて。今日は新しい料理作ったから」

物心ついた頃から十九歳となった今まで、結衣には常に彼らが見えていた。

大人になるうち、それが特殊な体質であることは理解して、人前ではどうにか見ない素振りをして来たのだけど、いるものはいる。

一口に「妖怪」といっても、彼らの生態は個体によって様々だ。一般的なイメージのように、全てが禍々しい形をしているわけではない。

類型化はできても、全く同じ個体がいないのは大きな特徴の一つである。

生活の仕方はそれぞれに異なり、中には、人の世界に溶け込むように生活を営んでいるモノもいる。
感情であったり、社会の作るイメージだったり、年月の経過であったり。彼らが生まれてくる理由も、同じく幅広い。

中には、恐ろしく強い思念から誕生する妖もいて、彼らは時に人の世へ災いをもたらすこともあるから困るのだけれど。

結衣にしてみれば、余計な『仕事』は少ない方がいい。

「ねぇ。ハチは、どんな理由で妖になったんだろうね」
「ほんなん知らんわ、気づけばこの身体やったし、さらに知らんうちにここにおったしなぁ。あ! やけど、僕も、ご飯食いそびれたら、結衣を呪うかもしれん!」
「……たぶん思念から生まれたんじゃない、ってことは分かったよ。まぁその方がいいんだけどね、呪われても困る」
「そうやなぁ、それは僕も思うで。人を呪うとか罪に走るとか趣味やないし。飯食うだけが生きがいっていうか」
「食い意地の張りすぎもどうかと思うけどね。ねぇ。私もすぐ行くから、ご飯とおかず、お皿に盛っといてくれる?」

ハチは、食い気味に頷いた。

それを見てから結衣も立ち上がる。廊下の先すぐにある、自室へと下がった。