委員会の議案は、明日の学校全体での早朝準備についてだった。担当場所は既に校門前と決まっていて、大体の業務は聞いていたけれど、詳細な中身は聞かされていなかった。
立て看や受付テントの設置、場合によっては総合案内も担当になるのだと言う。明らかに想定していたより多かった。
前に青木と打ち合わせに出た時はとにかくその場が終わればいいと考えてしまったけれど、失敗だったかもしれない。そう、先に立たない後悔をした。
またしても議論が紛糾したせい、解放されたのは六時を回った頃だった。体育館に向かうが、普段は遅くまで教師の詰めている準備室さえ人がいない。
もちろんリハーサルがとうに終わっていることは分かっていたけれど、願うならもう一度あの空気感の中に戻りたかった。
鍵のかかった扉の前、少し物悲しい気持ちになる。それをすぐ横、食堂前の自販機でミルクティーを買って紛らわした。
鞄を別棟の準備室に放ったままだった。
霊でも出そうなほど静まり返った廊下をひた歩き、意図的に上靴を鳴らして四階まで上る。
自クラスの使う教室だけが、明々と電気がついたままだった。
「鍵閉めてってくれればなぁ」
しかし、誰もいない。あるのは、近くで見るとつぎはぎも目立つ道具類だけだった。その背後、黒板を見て驚かされる。
一面を使って、大きな銀杏の木が描かれていた。美術部の高橋さんが手がけのだろうか、枝や葉先までチョークが静動つけて塗り込まれている。壮大、けれどその根元を見て一人笑んでしまった。なぜか猫が三匹にムンクの叫びや宣教師ザビエルがいて、一貫性を真っ向から否定していた。
葉の一枚をよく見ると、クラス全員の名前が記されてある。
各々書いたらしく、筆致にも個性が出ていた。中央には栗原さんの字があって、その横にあるものだから青木のものが相対して汚く見える。山田は一人だけ、カラフルにも三色を駆使していた。その隣の葉、点線で書かれた俺の名前を見つける。鍵が開いていたのは、そういう計らいだったのかもしれない。
まずは文字を上からなぞってみる。
慎重になりすぎて、かなりよれてしまった。黒板消しが汚れていたので、窓を開けてはたく。
しかし、消すのに失敗して、葉の輪郭ごと拭ってしまった。気を取り直して、チョークを黒板へ当てがう。そのとき嫌な音がして、枯れた木枝のように脆くも縦に割れた。足を出すもファインプレーとはいかず、床には白の粉が広がる。破裂音のあとのため息は当然誰も聞いていない。こうもうまくいかないものか。
濡れ雑巾をかける。
途中、不意に黒板を見上げた。クラスメイト三十九人の名前があって、俺のものだけがない。
また、半日の問いかけが脳裏を掠めた。ここにも、自分はいないのだろうか。俺はどこにいて、なにをしたいのか──
思考へ耽りこむ前、背後から、鼓膜を大きな音がつんざいた。振り返って、目が丸くなる。
ラストシーン、背景に据える予定だったハリボテの銀杏が床に倒れ込んでいた。一つ一つ後付けした黄色の葉も無体なまでに辺りに散らかっている。
風のせいなのは、開けた窓が強く揺られるのを見れば分かった。
背筋が凍る心地がした。とつとして、現実に引き戻された。雑巾を放る。焦ってハリボテを抱えて自立させようとするのだけど、過度な重さが掛かったことで軸のダンボールが折れていた。
角度を変えても、へたりこむだけ。想像していたより、深刻な痛み具合だった。あり物の道具を持って修繕にあたる。が、付け焼きでは直りそうにもなかった。
時計の針も壊れているようだった。
半、七時と夜だけが簡単に深まっていく。まずい、思ってからは汗が吹き出し続けていた。指の腹からも脂が滲む。
「なんで、ちくしょう」
ぎり、と歯を鳴らす。無力だった。挙句に一人で考え込んでは、取り返しのつかない迷惑までもたらす。全員の努力を水の泡にしてしまう。
不甲斐なさが、自責の念が降りやまなかった。最低、それ以外には自分を形容しようがなかった。
やみくもに手数ばかりが増える。そのうち、暗い廊下から足音がし始めた。巡回の教師に違いなかった。帰れと言われるのだろう。
明日どんな顔をクラスメイトに向けられようか、思って舌を噛む。
鉄くさい味が舌に広がるのに顔をしかめつつ、扉の方を見ると
「ほんとにいた、今宮くん」
そこには、予想とは外れて、栗原さんが立っていた。