普段、なによりも絃の気持ちを優先してくれる士琉にしては珍しい懇願だった。
 まさかそこまでとは思わず、しばし悩みながらも絃はおずおずと頷く。

(茜さんの護符があれば、大丈夫……と信じたいけれど)

 なんにせよ、そこまで頼み込まれたら、絃とて断れない。

「……わかりました、士琉さま」

 答えた瞬間、士琉はわかりやすくほっとしたような顔をした。
 どこかあどけなささえ感じる反応に、絃の方が受け入れてよかったと胸を撫で下ろす。ただでさえ哀しい顔をさせてしまったから、なおのこと安堵した。

(士琉さまはとても大人だけれど、すごく真っ直ぐな方よね……)

 そこまで表情が変わるわけではないのに、喜怒哀楽がわかりやすい。とりわけ宝石のように澄んだ瑠璃色の瞳は、いつも彼の本音を嘘偽りなく伝えてくれる。
 たとえ家族相手でも、真意を悟らせない兄を相手にしてきたからだろうか。
 弓彦と話しているときは、たまに得体の知れないものを前にするような感覚すら覚えることがあるけれど、士琉にはそれがなかった。
 だから、こうして対話をしていても不安にならないのかもしれない。

「ちなみにどこへ?」

「月華の南門から出た先なんだが、少々言葉で説明するのは難しくてな」

 苦笑しながら答え、士琉は絃の頭を撫でた。

「着いてからのお楽しみだ」



「し、士琉さま……」

「酔ったか?」

「いえ、そうではなく……本当にどこへ向かっているのですか?」

 絃は現在、士琉に抱きかかえられながら鬱蒼(うっそう)とした森林を駆け抜けていた。
 ここは月華から遥か遠くに見えていた翠黛(すいたい)の内だ。月の霜を踏み越え、(こずえ)の向こうから現れる妖魔をすれ違い様に片づける士琉に、絃はもう面食らうしかない。

 ここまで来るのも、目を疑うようなことの連続だった。
 月華の南門を出てすぐ脇へ逸れたかと思うと、士琉は絃を抱えてまずひとつ絶壁を越えたのだ。普通の人間ならば登ろうとも考えないほどの絶壁である。
 継叉の力を利用しているとはいえ、それを悠々と越えてみせただけでも驚くのに、その先に続いた数々の障害も、ものともしない。
 ときに流れる川を飛び越え、ときに木々を渡り、あまりにも自然を意に介さずどこかへ向かっている士琉は、どこか楽しそうにすら見えた。

「もうすぐ着く。揺れるだろうが心配するな。絶対に落とさないから」

「は、はい」

 そういうことではないのだが、訂正する余裕もなかった。
 なかば諦めて、士琉に言われるがまま絃は身を任せる。

(結界にこもっていたころは、こんな景色、想像したこともなかった)

 痩躯ながらも鍛えられた士琉の身体は、とても頼もしかった。落とされる心配はしていないものの、これだけ強く抱きしめられていると恥じらいも生まれる。
 それでもこんなふうに触れることが当たり前になってきていることが、絃のなかで新たな感情を芽生えさせる予感がしていた。



 やがて辿り着いたのは、小さな泉だった。千尋のなかをずいぶん奥深くまで潜ったことはわかるのだが、はたしてどれほど月華から離れたのか。
 鬱蒼とした木々に丸く包まれるような空間。
 月明かりが静謐に射し込む下では、あまりにも幻想的な青白い光が瞬いていた。

「これ、は……まさか、千桔梗?」

 士琉に地へ下ろしてもらった絃は、信じられない思いで呟きながら立ち尽くす。
 泉を囲むように咲き誇るのは、まるで蛍のように淡い光を放つ花々だ。