そうしたら、もっと早く〝月代を出る〟決断ができていたかもしれないのに。

「……いい加減、覚悟を決めなくちゃ。自分で決めたことなんだから」

 外に出るのはたまらなく恐ろしい。けれど、ここでただただ時間が過ぎてゆくのを見守っていたところで、己の罪が消えるわけではない。

 だから、せめて。
 せめて──最後だけでも。



 千桔梗の(さと)は、月代本家をはじめとした一族の者が集う秘境(ひきょう)のことをいう。
 険しい山々の中腹に開拓された小さな郷。言うまでもないが、この千桔梗という郷の名は、郷内に溢れ咲く花の名前からそのまま取られたものだ。
 月代が祓魔師(ふつまし)の一族であることも関係しているのだろう。
 外部の者をいっさい受けつけず、血族とその縁者のみで構成された地は、世界からも孤立しており、ひどく閉鎖的だ。民の大半が継叉であることも相まって、まるでここだけ切り取られた異空間のようでさえある。
 ──そんな特殊な郷をすべて見下ろせる位置に建つ月代本家では、いよいよ絃の出立準備が最終段階に移ろうとしていた。

(ああ……外の、空気が)

 およそ十年ぶりに大きく開け放たれた離れの戸襖(とぶすま)。結界の境がなくなり、秋初めの涼やかな風が室内に舞い込むなか、弓彦と絃は鴨居(かもい)を挟んで見つめ合う。

「準備はいいかい? 絃」

「……はい、兄さま」

「うん。なんだか戦に向かうような重装備だけど、仕方がないね」

 (あわせ)の小紋に紫紺の行灯袴(あんどんばかま)、薄手の長羽織。
 長時間の移動に備えて、今日の身なりは動きやすさを重視した格好だ。
 しかし、両手には荷物を(まと)めた風呂敷を持ち、背には己の半身ほどはある弓を背負っている。確かに重装備ではあるかもしれない。

「備えあれば憂いなしと言いますでしょう? このなかに入っている結界札も、兄さまが用意してくださった護符も、破魔(はま)の弓も、わたしにはすべて必要なものです」

 衣服の下に貼ってある護符は、簡易結界のような役割を担うものらしい。
 はたして絃の体質にどれほど効果があるのかは不明だが、少なくとも弓彦が仕入れてきたものと考えれば、きっと上質な品ではあるのだろう。

「大丈夫だよ。まだ昼間だし、すぐになにか起こることはないさ」

 弓彦は絃の持っていた風呂敷を纏めて片手で取り上げると、それとは反対の手で絃の手を(すく)った。そのまま誘い出されるように、絃は鴨居の外へ足を踏み出す。

「っ……」

「ほら、なにも起きない。ね? 当主の言うことは信じるものだよ」

 一瞬だけ息を詰めた絃に、弓彦は昔から変わらない柔和な笑みを向けてくる。

(本当に……兄さまは、もうご立派な当主さまですね)

 仕草も口調も流麗で、纏う雰囲気すら枝垂れ柳のように(みやび)な御仁。
 齢二十四とは思えぬほど常に悠然(ゆうぜん)としているが、一見しただけならただの美青年だ。
 事情を知らぬ者なら、まさか月代を背負う立場にあるものとは思うまい。
 その絶対的な強さと圧倒的な理知で月代を導き続けている──否、それができてしまっているのは、やはり生まれながらにして上に立つ者だからなのだろう。
 だが絃は、その弓彦が裏では血の滲むような努力をしてきたことも知っている。

『ねえ、絃。……どうして言いつけを破ったりしたんだい』

 ゆえにこそ、突然当主の座を継ぐことになり心身共に疲弊(ひへい)した十四歳の弓彦からそう問われたとき、絃は己がどれほどの罪を犯してしまったのか自覚したのだ。