月が空高くに昇った佳宵(かしょう)
 絃のもとに顔を出した士琉は、見るからに疲弊した様子だった。結界を一時的に解いて絃のそばまで寄ると、褥の横に座しながら眉尻を下げる。

「此度の件で進展があったのは僥倖(ぎょうこう)なんだが、相次ぐ憑魔の出現に継特もてんやわんやでな。そばにいてやれなくてすまない」

「そんな、いいのです。わたしのことはどうかお気になさらず……。もう身体は回復しておりますし、士琉さまはお仕事に集中してくださいませ」

 弓彦が千桔梗へ戻るのと入れ違いで、士琉は一度顔を見せに来てくれていた。休む暇もないほど多忙なのに、合間を見つけて冷泉本家へ立ち寄ってくれたらしい。
 とはいえ、そのときは無事に目覚めた絃の顔を見るや否やすぐに職務へ戻ってしまったので、こんなふうに顔を突き合わせて話をするのは久しぶりだった。

「今日はもう、大丈夫なのですか?」

 士琉は軍服姿だが、特別急いでいる気配は見受けられない。少しだけ胸をそわつかせながら尋ねると、士琉はふっと柔らかく相好を崩した。

「正直、やらねばならないことは尽きないんだが、隊の者たちにいい加減休めと追い出されてな。とくに千隼と海成が喧しいんだ」

「千隼さんたちが……」

「まあ、こうして絃にも指摘されるくらいだ。よほど隠せていないんだろう。俺もまだまだ修行が足りないな」

 情けない、と士琉は気怠げに前髪をかき上げた。
 そんな些細な仕草ひとつ、艶やかな色香を纏う。気を抜けば心ごとからめとられてしまいそうなほど、士琉の一挙手一投足、そのすべてに自然と目を惹かれる。
 最近、絃はほとほと困っていた。
 どうにも士琉を前にすると、勝手に脈拍が速くなって心が浮ついてしまうことに。
 そして、それを自覚してしまったことにも。

(士琉さまが助けてくれたあのとき……わたし、すごく安心してた)

 まるで、彼の醸し出す恬然(てんぜん)とした余裕が、絃にも移ったかのように。
 でなければ、そもそもあの混沌とした状況で〝鳴弦〟を行おうとは思えなかったはずだ。その思考を辿ったことを踏まえれば、あのときの絃は冷静だった。

 なにせ人という生き物は、命が危ぶまれるほどの危機的状況に追い詰められたとき、正常な判断が下せなくなるものだから。
 物事の道理が正常に判断できなくなり、思考を吟味(ぎんみ)するゆとりがなくなるのだ。
 その状態で下した選択も行動も信用ならない。
 窮地(きゅうち)に追い込まれれば追い込まれるほど、内に広がる焦燥が、突拍子もない(ひらめ)きを名案だと、これしかないと思い込ませようとする。

 あのとき──士琉が助けに来てくれる寸前、ほんの一瞬でも絃が己の命をこのままお鈴に捧げてしまおうと思ったのも、ようするにそういうことで。

 けれども、士琉は如何なるときも冷静さを欠くことなく、従容(しょうよう)としている。
 立場や地位、背負ってきたもの。士琉がこれまで生きてきた時間のすべてが彼を作り上げているのだろうが、ゆえにこそ絶対的な安心感がある。
 ああ、士琉がいればきっともう大丈夫だ、と無条件に安堵してしまえるほどに。

 その重みが、絃を包み込んでくれた。
 底知れない不安で満たされていた心ごと。
 きっとあの瞬間、絃のなかで士琉の存在の在り方が変わったのだ。

「……士琉さま。少しだけ、弱音を吐いてもよろしいでしょうか」

「ん、どうした? なにかつらいことがあったのか」

 途端に心配そうな色を灯しながら顔を曇らせる士琉に、絃は頭を振る。