お鈴も感じたのだろう。瞬時に笑みを消し去り、絃を背に(かば)う。そのお鈴ごと囲むように、控えていた駕籠舁の者たちが俊敏(しゅんびん)な動きを見せた。

「隊長!」

 そのうちのひとりが裂帛(れっぱく)と共に振り返った先には、出先で絃を受け止めてくれた彼がいた。
 駕籠舁の頭役なのだろうか。ひとり馬に乗り、二台の駕籠を先導していた彼は、注意深く周囲に目線を走らせると、軽やかに馬を飛び降りた。
 同時に右手を太刀へかけ、鯉口(こいぐち)を切る。かと思えば、指の先まで洗練された無駄のない動きで抜刀(ばっとう)。地から湧き出たおぞましいソレを、容赦なく両断した。
 息つく間もなく背後に現れたモノをも華麗(かれい)に身を反転して(さば)き、横()ぎに重たい刀を打ち込む。その一閃(いっせん)により、空間にわずかな()が生まれた。

 ぽこ、ぽこ、こかん。

 彼が()ったモノをひとことで表現するのなら、〝闇の凝塊(ぎょうかい)〟だろうか。
 自然には発生し得ない不気味な音が絶え間なく響くなか、ふたたび地から湧き出したソレは、みるみるうちに形作っていく。
 四つ足の獣形のモノ。とぐろを巻いて宙に浮かぶモノ。地面から生えたまま蛇のようにうねるモノ。
 姿形はひとつに囚われないが、地から湧き出たそれらは共通して全身を闇で染めたように黒々しい。地に生まれる影とは異なり、しっかりと実体がある。

 ──妖魔だ。

 十、十五、二十……いや、もう三十近い。

「あ……あ……っ」

 臓腑(ぞうふ)の底から湧き上がるような恐怖に耐えきれず、喉から言葉にならない引き()った声が漏れる。思わず口を押さえて後ずさると、背が駕籠に当たった。
 かくんと膝から力が抜け、絃はその場に崩れ落ちてしまう。

「お嬢さま!」

 空はもう暗い。鮮やかな黄昏(たそがれ)が色濃い群青(ぐんじょう)に染まり始めた、宵の口。
 妖魔は光が苦手だという。それゆえ太陽が沈み、世界の闇が深くなればなるほど現れやすい。とりわけこの逢魔(おうま)が時は、妖魔たちの活動開始時間とされている。

「大丈夫です、お鈴がいます! お鈴がお護りしますから……っ!」

 振り返ったお鈴は、へたり込んだ絃をぎゅっと強く抱きしめてくる。
 だが、その頼もしい言葉とは裏腹に、絃の肩に回った手はこちらに伝わるくらい震えていた。恐れを隠しきれないまま、それでも絃を置いて逃げようとはしない。

(あのときと、同じ……悪夢が、また)

 絃はお鈴の手を握ることもできなかった。湧き続ける妖魔を前にした瞬間、(ふた)をしていたはずの過去の記憶が溢れ出してしまっていた。
 脳裏(のうり)(すさ)まじい勢いで駆け巡るそれは、現在の光景と重なって視界を焼く。

『どうして、かあさま……どうして』

『かあさま、かあさま……っ! おきて、おきてよぉ……!』

『わたしの、せいだ……わたしが、いとが、わるいこだったから……だから、かあさまも、とうさまも……とうやも、おすずも……ごめんなさい……ごめ……なさい』

 幼い子どもが泣いている。
 遠い遠い記憶のなかで、幼い自分が泣いている。
 だが途中で、ぶつりと記憶が途絶えた。
 そうだ、いつもここで途絶える。妖魔に囲まれながら、(うしな)った母と倒れた燈矢、お鈴を前にして泣いていたはずなのに、以降の記憶が残っていないのだ。

「お嬢さま? お嬢さま、しっかりしてください! お鈴がわかりますか!?」