千桔梗を出てから、はたして何時間が経過したのか。途中で一度だけ昼餉のために駕籠から降りたが、以降は一度も休憩を取ることなく移動し続けている。
体勢的にも、少々きつくなってきた頃合いだ。
どうにも落ち着かず、もぞもぞと狭い空間で身を捩っていると、やがて前を走る馬の蹄の音がゆっくりと音を消した。
駕籠の揺れも収まり、とすん、と地に降ろされたような軽い衝撃が走る。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」
外から引き戸が開かれ、ひょっこりと顔を覗かせたのはお鈴だ。一瞬構えて固まってしまったものの、慣れ親しんだお鈴の顔を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
顔を丸く包むような樺茶色の髪、ぱっちりとした栗梅色の目。幼い頃からそう変わらない顔立ちは十五になった現在もあどけなく、笑顔がとても可愛らしい。
「このあたりで一度、休憩するそうです。外に出られますか?」
「ええ。ありがとう」
お鈴に手を支えられながら外に出ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。
ずっと閉鎖的な空間にいたせいか、肺に流れ込む空気がとても新鮮に感じられる。
「……ねえ、お鈴。本当によかったの? 郷から出てしまって」
羽織の胸元を手繰り寄せながら、絃はずっと気になっていたことを尋ねた。
十歳の頃から本家に住み込み、絃の専属侍女としてそばにいてくれているお鈴。
燈矢と同い歳であることもあり、絃にとってお鈴はただの侍女ではなく、親友のような、妹のような、家族も同然の存在だ。
だから『嫁ぎ先にも一緒に行きたい』とお鈴の方から進言されたときは、驚きながらも嬉しかったのだ。これからも共にいられる、と。けれど一方で、彼女の人生を考えたら、本当に受け入れてよかったのか不安もあった。
「郷にはお鈴の家族もいるのに……。今からでも戻っ──」
戻った方がいいんじゃない?
そう言いかけたところで、絃はお鈴の手に口を塞がれた。電光石火の勢いに思わず言葉を呑み込み、目を丸くして正面のお鈴を見つめる。
「お嬢さま、いいですか。お鈴にとって、いちばん大切な人はお嬢さまなんです」
むっとしたような、いかにも不満たらたらの表情で、お鈴は言い募る。
「もちろん家族も大事ですけど、お鈴は専属侍女としてお嬢さまが幸せになるまで見届けるって心に誓っているんです。それが、お鈴の夢なんです。たとえお嬢さまでも文句は言わせません」
慈愛に満ちた瞳の隙間には、過去を映す色がわずかながら混ざりこんでいた。その正体に気づいてしまった絃は、手が離されてもなお、二の句が継げなくなる。
「だから、そんな暗い顔をしないでください。慣れない場所、慣れない環境で不安も大きいでしょうけど、大丈夫です。お鈴がいます。お嬢さまのことは、絶対にお鈴が護ります。今度こそ、信じてください」
「……お鈴のことは、いつだって信じてるわ」
「えへへ。お嬢さま、大好きですっ!」
無垢な笑顔を向けられ、絃は少し心苦しく思いながらも微笑んで返した。
(そうよね……。お鈴が自分で決めてついてきてくれたのだもの。お鈴だって、わたしの選択を受け入れてくれたのだから)
その意志を、選択を、主人としてちゃんと尊重してあげなければ。
「わたしも、お鈴のことが……──」
喉に突っかかってしまう言葉を、どうにか口にしようとしたそのときだった。
──ぞわり、と怖気が背筋を伝い、全身が粟立った。