「……ああ、そうだ。君の侍女にはもう駕籠のなかで待機してもらっているから、心配しないでくれ。絃嬢の準備ができ次第、出発しよう」

 侍女とは、お鈴のことだろう。
 たとえ嫁入りしても変わらず絃の専属侍女でありたい──そんな本人の希望で、彼女も月華までついてきてくれることになったのだ。
 当主の弓彦が『絃のためなら』と特別に許可を出してくれたらしい。

(いよいよ、千桔梗の郷を出るのね……)

 なんとはなしに見上げた蒼穹には、雲ひとつない。
 見送られる立場としてはこの上ない晴天だが、清々しいほどの天の海は絃の心情にはどうにも嵌まらず目を逸らす。
 やはり、余計なことは考えない方がいいのだろう。
 お役目だと割り切っていればつらいことなどないのだから、なにが起きても受け入れる覚悟だけ持っていればいい。

「……では、行ってまいります」

 後悔はしない。
 この政略結婚が、絃の〝存在理由〟になるのなら。



 月代州の大部分を支配する山脈内を移動中、絃は姫駕籠のなかで強い不安を募らせていた。外の様子が窺えないせいで、なおのこと気がそぞろになる。

妖魔境(ようまきょう)……無事に越えられるといいのだけど」

 ──千桔梗の郷は、常に結界が張られ、確実に守られた状態だった。
 なぜなら千桔梗の郷は、異常なまでの妖魔発生地帯にあるから。そうまでしないと民が安心して暮らせないのである。
 通称〝妖魔境〟と呼ばれているこの山脈は、本来、人間が暮らすことのできる環境ではないのだ。当主の弓彦は、『むしろこれほどの悪環境だからこそ得られるものがある』と口にしていたけれど、絃はどうしても理解に窮した。
 妖魔がどれだけ危険なものかわかっているからこそ、あえてこの地を拠点にする考え方は受け入れがたい。

(月代が祓魔の一族として成り上がったのは、この妖魔境で生き抜くのに必死だったからだって兄さまは仰っていたけれど……)

 捉え方を変えれば、こんな場所に一族の拠点を作った月代の先祖にはすでに、この地獄のような環境を生き抜けるほどの力があった、ということだろう。
 当代までその力が衰えずにいるのは、月代が血統を重んじてきたからか。

(改めて考えてみると、月代家ってすごいのね……。継叉の力と霊力を武器に、祓魔師という無二の力を確立した一族。五大名家として立場を得るのも納得だわ)

 霊力は、おおむね陰に属するモノを祓うことができる力。
 言うまでもないが、かつてこの灯翆国に存在していた人ならざる者──あやかしの陰の気から生まれた異形〝妖魔〟も、陰のモノだ。
 それを踏まえれば、月代一族がこの地で生き抜いていくために祓魔師の道を究めたのも道理と言える。
 端的に言えば、状況を逆手に取った、ということなのだろう。

(でも、わたしやお鈴は祓魔師ではないし、護衛の方々も月代一族ではないのよね。妖魔境を越えられる人って限られると思うのだけど)

 あの弓彦が一任する相手だ。
 きっと彼らはよほどの手練(てだ)れなのだろうが、かつての悪夢で妖魔の恐ろしさを身をもって知っている絃は、やはりどうしても不安を拭えなかった。
 憂虞(ゆうぐ)を禁じ得ないまま、落ち着かない心地で両手を握り合わせる。
 ずっと緊張しているせいか、指先は氷のように冷え切ってしまっていた。

(もうすぐ日が暮れてしまうはず……。わたしが貼っている護符って、妖魔が現れやすい時間帯でもちゃんと効果があるのかしら)