(兄さまは、優しい。でも、その優しさが、とても痛い)

 弓彦が絃を(とが)めたのは、後にも先にもそれ限り。だがそのひとことは、まるで一種の呪いのように、いつまでも絃の心に深く杭を打ったまま。
 じわじわ、じわじわと(むしば)んでいく。

「……ありがとうございます、兄さま」

 ふたたび脳裏を過りそうになった思いから目を背けて、絃は無理やり口角を上げ笑ってみせる。これはあまり、悟られたくはないのだ。

「うん。行こう」

 絃は幼子のように手を引かれながら、丸い白砂利が一面に敷かれた明媚な中庭へと降り立った。向かう先はどうやら本邸ではないらしい。
 等間隔に並ぶ石灯篭(いしとうろう)を横切り、灰の飛び石を渡る。
 角には(つくばい)。そばには鯉が泳ぐ小池。中心に映える黒松の他には多様な老木が植えられているが、どれも絶妙な按排(あんばい)で配置され、壮麗な空間を生み出していた。
 端には蔵へ繋がる道があり、飛び石が導く先には煤竹で作られた竹垣が並ぶ。そこに設えられているのは、大人が身を屈めてようやく通れるほどの小さな庭木戸だ。
 前を行く弓彦は、迷いなくその戸口へ向かっていた。

(どこもかしこも生命の息吹に溢れていて……すごく、不思議な感じ)

 運ばれてくる風の香り、枝葉の擦れる音、池水の透明感、生き物の波紋、空に羽ばたく渡り鳥のさえずり。
 なにもかも、知らないものだらけだ。
 未知を前に世界が一変した気分に陥りながら、絃はそれらを視界に収める。

(わたしはずっと、本当に狭い世界で生きていたのね)

 その感覚はいっそ恐怖を覚えるほどで、絃は弓彦と繋いだ手を強く握りしめた。そうしていないと、無意識に離れの方へ戻ってしまいそうだったのだ。
 弓彦はなにも言わないまま庭木戸の前へ辿り着くと、(かんぬき)を抜いて押し開いた。

「絃、覚えてるかい? この道」

「覚えています。……わたしがあの日、屋敷を抜け出した道ですもの」

「ふふ、いっそ忘れてくれてたらよかったのにね。今からここを通るけど、あまり思い出さないようにしなさい。他のことを考えているといいよ」

 あまりにもさらりと返されて、絃は頭が痛くなってくる。

(……兄さまは、意地悪ね)

 わざわざここを通るのは、たんに外へ通ずる近道だからではない。
 十年前のあの日──絃が屋敷を抜け出して、最悪の災いを引き寄せてしまったあの日の状況を再現するためだろう。十中八九、意図的なもの。
 自身の呼吸が浅くなるのを感じながら、絃は俯きがちに重い足を進める。

(思い出すな、なんて。そんなの、無理に決まっているのに)

 閉塞感(へいそくかん)の強い道だった。背の高い竹垣に両側を挟まれていると、自分がどこへ向かっているのかもわからなくなりそうで眩暈(めまい)がしてくる。
 実際ここは、緊急脱出用の通路のようなものなのだ。途中でいくつも道が左右に分かれているため、内部は軽く迷路と化している。出口もひとつではなく複数箇所存在するので、道順をしっかり覚えていないと目的の場所に出ることも難しい。

(この道は確か、裏門に続く道よね……。わたしはあの日、出口の直前に右へ曲がって裏山へ向かったけれど)

 じわり、と額に嫌な汗が滲む。
 呼吸の仕方を忘れてしまったようで、酸素が上手く入ってこない。
 一歩、一歩と進める足が重かった。背負っている破魔の弓が、まるで海底に沈められる鉛のようにどんどん重量を増している気がする。

(……ああ、でもわたし……あの日はもっと、楽しい気持ちだった)