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二日間に渡る二〇二三年度の青鳴祭は、敷かれた規則を遵守して行われ、大きな問題が起きることはなかった。前夜祭の件で生徒たちからの不満は絶たなかったけど、代わりに行われることになった後夜祭の案が、生徒たちの火矢を鎮めていった。
「次ー!次は俺らがいきまーっす!」
そして、二日目の夜——三日前に蔓延っていた不満が嘘だったかのように、アンプやスタンドマイク、バックライトをステージに揃えた体育館は熱気を充満させている。薄暗さも相まって、非日常感が巧く演出されている。
ヒューッ、と客席から鳴らされる口笛を合図に、スピーカーからは流行りのロックナンバーのイントロが流れ出して、クラスパーカーを纏った生徒たちは思い思いに体を揺すった。
「先生」
私は大衆から抜けて、壁に凭れた“協力者”の隣に寄り添う。同じように凭れて視線を持ち上げると、眼鏡を纏った横顔が微かな照明に灯された。
「いいのか、アッチ盛り上がってんぞ」
「うん。お礼を言いに来たので」
大きな音響に紛れるように、心臓がバクバクと鳴る。何も知らない先生はもちろんそんな心情など露知らず、クスッ、と可愛く笑みを漏らした。
……それは普通に反則だ。
「意外と律儀だなー。機材ある場所教えてやっただけなのに」
話し方も、表情も。十年前の綾崎くんと違うところは幾つかあるのに、共通項ばかり探してしまう。挑発気味に笑うところも、優しさを隠すところも——全然変わらない。
先に知っていたのは担任の綾崎先生だったはずなのに、なんだか不思議な気分だ。
「私と永島さんだけじゃ、たぶん実現できませんでしたから」
「それにしても、よく知ってたな」
「え?」
「うちの高校に、昔軽音部があったこと」
曲の途中、キィンッ、と一瞬響いたハウリングに肩が弾ける。その音は彼とステージに上がったときのことを思い出させて、胸が切なく締め付けられた。
「……先生は、音楽って好きですか」
流された黒い瞳を見つめ返す。好きだった襟足は無くなってしまったけれど、レンズの奥に潜んだ綺麗な二重幅も意外と長い下睫毛も十年前のままで、私は思わず息を止めた。
「——好きだよ」
何かを逡巡したような隙間を空けて、先生は短く答える。
腹の底をズクズクと刺激する音が絶え間なく、大きく響いているのに、私の鼓膜は先生の声を容易く拾い上げる。
—— “千怜”
見つめたまま、その瞳に吸い込まれることを望みながら蘇ったのは、最後に私の名前を呼んだ彼の声。
瞬間、鼻がツンと呻いて、視線を落とした。
「私も好きです……音楽。『小さな恋のうた』とか」
涙声になっていないだろうか。案じながら声を絞り出すと、先生はこちらの気も知らないで、
「あー、俺も好きだわ。その曲。センスいいじゃん」
と片頬に笑みを乗せた。
「なんか偉そう」
「先生だから偉いんだよ」
「まぁ、今日は認めてあげてもいいです」
「偉そうだな」
「だって、文化祭の間ずっと近隣まわってたんでしょ」
覗き込むと、彼は少し瞠目した後で「敬語」と眉を顰めた。
「つーか、知ってたのかよ」
「永島さんから訊きました。『綾崎先生と朝ちゃんたちが、後夜祭の理解を得るために頑張ってる』って」
私と永島さんが後夜祭の案を話しに行ったとき、先生は二つ返事で協力してくれたけど、おそらくその裏側には私たちの知らない苦労があったのだと思う。周りの教師陣に話を通してくれたのも、先生だった。
「ありがとうございました。私、先生のこと好きです」
実は思い遣りが深くて、伝わりにくいけど優しいところ。十年前から変わっていない、その首に手を回す仕草も好き——。
どんなに分厚い思いを込めて瞳を熱しても、いまは届ききらないことは分かっている。それでも、自分の声で想いを伝えられることが、何よりも嬉しかった。