とはいえ、これまでほとんど言葉を交わしたことなど無かったはずなのに。

「え……いま? 掃除は?」
「掃除しながらでも話せるじゃん」
「あー……うーん、そうかな?」

 確かに、中庭は掃き掃除くらいしかやることがないので、決まったリズムで手と足を動かしていれば目立たずに、そして案外楽に会話はできる。
 だから、私がハテナで返したのはそのメカニズムが分かっていないから、という訳じゃない。

「あれ、てゆーか、ちょっと髪切った?」

 私の前下がりのボブを示すように、自分の輪郭付近で髪をいじるジェスチャーが視界に入る。

「うん、ちょっとだけね」
「短いの、似合うよね」
「そうかな? ありがとう」

 箒の柄に腕を掛けた彼は、私を覗き込んで笑みを溢す。現れた深い笑窪と八重歯に、決して少なくない女子たちが「かわいい」と放っていることを知っていた。
 つまり、彼は私と違ってモテない方ではなく、好奇と嫉妬に塗れた視線が注がれるのは必然だった。
 こういう目立ち方は、あんまり得意じゃないんだけどなぁ。

「話ってそのこと?」

 靄を抱えながら、私は顔を持ち上げた。

「いや……まあ、それもあるけど」
「ん?」
「この前、映画の話してたろ。教室で」
「映画……?」
「遠山が『ミスター&ミセス スミス』が好きだって話」

 爪先から突き上げられるように、心臓がギクリと跳ねる。けれど私は、息と共に一瞬止めてしまった箒を、涼しい顔で再稼働させた。

「ああ~、そんな話してたっけ」
「俺、昔の洋画とか結構好きでさ。まさか教室で『スミス』が聴こえてくるなんて思ってなかったから、昂ったんだよなあ」

 これは、たぶんマズい。
 私の場合、あの場で不動の一位と豪語したほど熱は入っていないので、本当に好きな人の前に立てばきっとボロが出る。印象に残っている台詞も一つしかない。主人公の友人が、カフェで放ったあの一言。

『今日は日曜じゃないけど、(デザートは)サンデーにしといてくれ』

 エッジの効いたダジャレに少し感心して覚えていただけ。つまり、私には『スミス』に関してあまり引き出しがない。
 到頭、作り上げた天の邪鬼を手放さなければいけないのか。九割九分、詰めの甘い私が悪い。自分で自分の首を絞めるとはこういうことなのね——。
 田淵くんの薄い唇が隣で割られる度、命が削られていくような気分に陥る。
 しかし、幸いにもそれは杞憂に終わった。彼は自分の熱を吐き出して、「わかるわかる!」と繰り返す私の相づちに満足してくれたらしい。同時に、器量が良くて女子にも人気で、さらには熱中できる趣味もある——そんな彼が、なんだか酷く羨ましく思えた。